ガラクタと遺産.3
全身から痛みが消えた。
流れ落ちた血が再び巡るのがわかる。心臓が鼓膜に張りついたように、鼓動の音が激しい。
ヴァンダは山刀を握り、立ち上がった。
暗闇の中、
「誰だお前……何処から出てきた?」
「何……?」
ヴァンダは呟いてから、血の海に反射する虚像を見て息を呑んだ。
夢の中で何度も戻った、あの頃の自分の姿があった。髪は黒く、背筋は伸びている。皺に畳み込まれて見えなくなっていた頬と口元の黒子も現れていた。
勇者と並び立っていた、若い自分だ。
それでも、眉間だけは後悔の数だけ皺が刻まれていた。
「爺さんか? まさか、≪勇者の血≫を使ったのか!」
下級魔が低く唸った。
「そうかよ。じゃあ、もう一回殺して奪うしかないな」
ヴァンダは答える代わりに重心を落とし、山刀を構えた。
下級魔の唸りが咆哮に変わり、地面に張った血が波立つ。
ヴァンダは細く息を吐き、踵を踏み込んだ。地面が爆ぜた。
全身が発条のように跳ねる。振りかぶられた下級魔の鉤爪を躱し、ヴァンダは一瞬で地下道の隅まで跳躍した。
山刀を壁に突き立て、勢いを殺して着地する。
瞬く間に距離を取られた下級魔は驚愕に目を見開く。ヴァンダ自身も今起こったことを信じられず、自分の身体を見渡した。
傷が治ったどころか、全盛期にすら出せなかった力が満ちている。
ヴァンダの両手に赤い枝のような模様が浮き上がっていた。指先すら見えない地下道で、何故ここまで見える。
「≪勇者の血≫のせいか……?」
ヴァンダは地下道の奥を睨んだ。眼筋に血を巡らせる想像をする。視界に走った赤い線が鮮明な像を結び、光の中にいるように魔物の姿を浮き上がらせた。下級魔は身を屈め、次の攻撃に備えている。
ヴァンダは再び地を蹴った。
下級魔が這うように突進する。ヴァンダは身を逸らし、下方から迫った鉤爪を避ける。黒の軌道が闇を裂いた。
ヴァンダは壁を蹴って身を翻し、横薙ぎに払った形のままの鉤爪に飛び乗った。下級魔が反応するより早く、ヴァンダは膝頭を打ち込んだ。
零距離で攻撃を喰らった魔物は豪速で弾かれ、壁に衝突した。
ヴァンダは後方へ飛び退き、再び踏み込む。防御も反撃も許さない速度で二対の山刀を斬り込んだ。
下級魔の胸から黒い血が迸る。
あと一本。心の臓を抉りかけた切っ先は、闇雲に振られた鉤爪に防がれた。
爪の先端がヴァンダの腕に迫る。そのまま肉を貫くはずだった爪は、火花と激音を散らして弾かれた。魔物が吼える。
「爺さん、防具なんてつけてなかっただろ!」
ヴァンダは三歩後退って距離を取る。両手に腕を赤い結晶が覆っていた。先ほどの攻撃を防いだのはこれだ。
––––お前を見捨てた俺を、守ったのかよ。
「それなら、また一緒に魔王を倒すか」
ヴァンダの腕から赤の結晶が解け、再び刺青のような痕に変わる。
「だったら、雑魚に構ってられねえよな」
下級魔は損傷を受けた頭部を振るい、両手の鉤爪を構える。ヴァンダは二対の山刀を握った。
「何で俺が"赤い霜"って呼ばれたか、教えてやるよ」
薄く目を閉じ、両脚に力を込める。駆け出したと感じる前に左右の光景が溶けた。
ヴァンダは真っ直ぐに腕を突き出した。五双の鉤爪の間を縫って走った刃が下級魔の両腕を切断する。
呻きが漏れるより早く、山刀の背で分け入るように魔物の懐に飛び込んだ。
一振りで無防備な腹を裂き、もう一振りで更に奥へ斬り込む。ぬるりと肉の奥を滑り、刃の先端が肋骨を切り開く感覚が確かにあった。
花を散らすように黒い血が飛び散り、下級魔が細切れに剪断されていく。悲鳴すら上がらず、刃と肉が立てる音だけが響いた。
下級魔は辛うじて繋がった首の皮で頭をもたげた。魔物の顔が怯えた少年の表情に変わる。
「やめてください……僕、操られてただけで……」
ヴァンダは表情を変えずに言った。
「俺は勇者を殺したようなもんだ。今更ジャリごときに躊躇するかよ」
下級魔の顔が再び漆黒を帯びる。
「死に損ないが……!」
「地獄で魔王に会えるといいな」
ヴァンダは山刀を振り下ろす。斬り落とされた魔物の首が虚空を舞い、身体は無数の塵となって消えた。
「絶え間ない斬撃は声を上げることもすらも許さず、新雪が舞うような微かな水音だけを立てる。後には千々に分かれた血肉だけが広がる。まるで赤色の霜が天から降りたように……故に、その名は"赤い霜"」
ヴァンダはシャツの袖で刃についた血を拭った。
「何処ぞの劇作家が勇者物語の箔付けに書いた、くだらない一説だけどな」
足元には霜とは言い難い血の海が広がっていた。
下級魔は跡形もなく消え、血を吸って変色したバンダナが落ちていた。
「化け物に勇者の赤は似合わねえよ」
ヴァンダはそれを拾い、宙に放り投げる。
「勿論、俺にもな」
山刀が数度振るわれ、元の色もわからないほど細かく刻まれたバンダナの繊維が舞い落ちた。
ヴァンダはひとりで石段を上り、黴の匂いの満ちた空洞を抜ける。
腐りかけの扉を肩で押してダンジョンの外に出ると、眩い陽光が両眼を射抜いた。
ヴァンダは目を細めた。
「誰だ……?」
ヴァンダたちが乗ってきた車に、女がもたれかかっていた。
少女と大人の中間のような娘は、透けるような白い肌で、喪服じみた黒いレースの礼服を纏っている。
彼女の髪は太陽よりも明るく、炎のような赤だった。
「貴方、≪勇者の血≫を使ったんですか」
女は肩を竦めて言った。
「残念、先を越されましたか。
ヴァンダは震える声で言った。
「俺がそのヴァンダだ……」
「八十歳って聞いてましたけど……ああ、≪勇者の血≫で若返ったんですね」
彼女は眉を下げた。困ったような笑い方に見覚えがあった。
「父からお噂はかねがね、と言いたいところですけど、父と話した記憶はありません。でも、頼れる筋から貴方の情報はしっかり収集してますよ」
ヴァンダは事態が飲み込めずに呻く。喉が枯れ、頭も回らない。老人に戻った気分だった。
「お前、誰なんだ?」
「私の
「そうじゃない。今、父って……」
女は水晶のような目を瞬かせて笑った。
「はい。勇者の娘です」
「……嘘吐くなよ。六十年前の話だぞ。それに勇者の子どもは」
「死体が見つかってない、ですよね?」
ヴァンダは呆然と言葉を失った。
「何故私がお婆ちゃんになってないかは後ほど。それより、大事な話があります」
彼女は指を鳴らした。
「≪勇者の血≫を得た貴方はこれから殺し屋にも魔王禍にも狙われる存在になります。貴方を守ってあげる代わりに、我々に協力してください」
「我々?」
「魔王禍の根絶と≪勇者の欠片≫の蒐集、保管を目指す『保勇機関』です」
ヴァンダは陽の光が容赦なく降り注ぐ瓦礫の中に立ち尽くした。長い沈黙の後、ヴァンダは女を見据えた。
「その前に、ひとつ聞きたい」
「どうぞ」
「お前の名前は何だ」
「エレンシアです。由来はわかりません」
真っ赤な髪が風に靡いた。エレンシアは手を差し出す。
「それで、どうします?」
「協力する」
ヴァンダは彼女の手を握る。血豆などひとつもない、細く柔らかい手だが、体温だけは勇者と同じだった。
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