第25話 戦闘開始
千尋side
コツコツ、自分の足元から革靴の音が響く。
おしゃれ用の革靴に鉄板を仕込んでるから無駄に足音がでかいな。本当はミリタリーブーツの方がいいんだけどな。
衣服を整えて、組織のビルの下に車を回して蒼を待ってる。ドレスの色を見てから揃えてきたから違和感はないだろう。
おでこを出したのが久しぶりすぎてスースーしてる。
「おっ、千尋男前だね」
「おう。蒼は?」
「リップ忘れて一回戻ってるよ」
黒いキャップ、上下真っ黒でパーカーとデニム、黒いマスクをした慧。
久しぶりにその格好を見たな。
元々慧は動き回ってサポートをしたり、暗躍するタイプだ。大立ち回りでとんでもない怪我をしてから、ずっとそうしてきた。
パーティーの中盤までは会場外の斥候をする予定。…慧にもキスしたな。唇にリップの色が移ってる。繰り返すが俺はまだ一回もしてない。
「慧も気をつけろよ」
「ん。…あのさ、千尋」
パーカーのフードをかぶって、慧が言い淀む。
「昨日、俺何もしなかった。風呂はちゃんと入った。でも、蒼は朝起きてすぐは動けてない。コープシングの言う通り、刺激が必要だと…思う」
「…何を言い出すんだ。一応ライバルの俺に塩を送るのか?」
フードの奥に潜んだ真っ黒な瞳は、冷たい光を宿している。
「蒼は今日答えを出す気でいる。いや、もうほとんど出てるな。
本当は独占したいけど。蒼が望んでるなら仕方ない。俺がする事は全部蒼のためだから。…傷つけないでね、チヒロ。蒼を傷つけたら、いくらチヒロでも…俺が何するかわかんない」
…最初に出会った頃みたいな顔してるな。あの時は俺もゾッとしたもんだ。
「あぁ、わかってる。傷つけるわけないだろ」
表情を変えずに応えると、慧が屈託なく微笑む。
今は何を考えてるかわかるから、あの頃みたいに驚いたりはしない。お互いの信頼関係に思わず笑みが浮かぶ。
「行ってくるね」
「あぁ、気をつけてな」
慧が闇の中に駆け出して行く。
真っ黒な姿が闇に溶けて消えた。
「チヒロ!お待たせ!」
足元に黒いピンヒールが見える。
視線を上げると、大きくスリットが入ったフルドレス姿の蒼がそこにいた。
深い緑が体のラインに沿って纏われ、ハイネックになっている。慧のキスマークついてたからな、首を隠したんだろう。
肩が丸出しになってて、髪を夜会巻きにして、おくれ毛が色っぽい。
アクセサリーはシンプルにパールの大粒なイヤリングとネックレスだけだ。
背中がぱっくり開いてるのは見ない。見たら負けだ。
蒼色という名の深いグリーンに包まれたその姿は、どこにもキラキラしたものがついてないのに…俺の目の中で輝いて見えた。
「…かっこいいね…」
蒼がびっくりしながら俺の頬に手を伸ばす。レースの手袋か。
指先のケガはこれで見えないな。
二の腕までの長い黒レースの手袋とはハイセンスだな。衣服に関しては昴のセンスが飛び抜けてるから、任せて正解だったな。
蒼のをとって、指先にキスする。
「蒼も綺麗だ。誰にも見せたくないな」
「そ、そう?こんなのはじめてだからちょっと緊張する」
「俺も色んな意味で緊張してるよ。さ、乗ってくれ」
助手席のドアを開けると、瞳がキラキラし出した。…そうだと思ったよ。
「マセラティギブリ!!」
「うん、知ってるんだなやはり。また後でちゃんと見せてやるから。行くぞ」
「はひ!」
そっと助手席に乗り込む蒼。裾をきちんと捌いて持ってる。
ドレスマナーも知ってるのか…。ゆっくりドアを閉める。運転席側に座ると、蒼がドアの下を覗き込んでる。
おいっ!背中が見えてるんだが!!!
「な、何してるんだ?」
「ソフトクローズドアの構造が気になって…半ドアからでもふんわり閉まるってどう言うこと?!すごい!」
「ぷっ。なんか無駄に緊張してたのがバカらしくなるな」
「そ、そう?あっ!アダプティブマトリックスヘッドライト!明るい!従来から200パーセント以上の視界なんだよ!」
「知らない事がないのか?本当にすごいな」
車を発進させて苦笑いを浮かべてしまう。車オタクにも程があるな。
「蒼、インカムは?」
「うん、つけてきたよ」
俺の耳にも、蒼の耳にも通信用インカムが入ってる。
肌色のシリコンでできてるタイプで、耳球の間に挟むから近くで見てもほとんど分からない。
蒼のインカムをオンにして、自分のも叩く。
「セカンドからオール。マイクテスト」
『トップ、クリア。今から現場に出る』
『サード、クリア』
「蒼、聞こえたか?」
「聞こえたよー」
「現在移動中。到着次第伝える」
トントン、と二人から合図が返ってくる。
「なるほどなるほど。スパイ映画で見たことあるやつだね。わたしもコードネーム欲しいなー。コープシングみたいな」
医者に行ったから知ってるんだよな。俺はあいつが苦手だ。揶揄うようなことしか言ってこない。
慧のことを大切にしてるのは同期だかららしいけど、昴に対してもあまり良い印象はない様子だし。俺たち警察の匂いでもしてるのか?
「コープシングは嫌な思いさせなかったか?」
「良い人だったよ。説明もわかりやすいし、目がすごかったけど優しかった」
「…蒼は敵なしだな」
コードネームか。もう二度と使わせる気はないが必要かな?
「ブルーで良いんじゃないか?蒼色は日本語だと深緑だが、漢字の意味だけなら青だろ?」
「いいねっ!かっこいい!」
蒼が満面の笑みで応える。
くすぐったい心持ちだ。
ハンドルを切り、ホテルのロータリーに車を乗り入れる。
「さぁ、戦場に到着だ」
ドアマンの前に車を停める。
煌びやかな音楽が、開かれたドアから流れて広がった。
━━━━━━
「キーをお預かり致します」
「頼む」
スーツ姿のスタッフにキーを渡し、蒼をエスコートしながら入り口をくぐる。
「マセラティちゃん大丈夫かな。アクセルに癖があるでしょ?」
「心配するポイントがおかしいぞ」
二人で笑いながら、会場の扉の前で名刺を渡す。
「お待ちしておりました。こちらをどうぞ」
ドアマンから一輪の花菖蒲が渡され、渋々受け取った。…皮肉か?皮肉だよな?
花を苦い気持ちで眺めていると、蒼がツンツンつついてくる。
「私がさしたいな」
「えっ」
入り口の端っこに避けて、蒼が俺のスーツ、フラワーホールに花を差しこむ。
ドアマンの笑顔が刺さってくるんだが。
「ねえ、チヒロにぴったりだね」
花菖蒲の花言葉は〈信頼、嬉しい知らせ、情熱、〉…これからのことを考えると、正しく皮肉と言える。ただ、フラワーホールに花を刺すのは…。
「フラワーホールに花をさすのは私だけね」
「本当にわかってるのか…?」
「ふふ、どうだと思う?」
相変わらず攻撃力が高い。
フラワーホールに花を刺すのはプロポーズの返事なんだぞ…。
眉間を揉みつつ歩いていると、蒼の太ももにあるM9を周りの奴らがチラチラと見てる。見るな。色んな意味で。
会場内は比較的静かな様相だ。
ぱっと見記憶にある人員しかいない。
変装してる奴も殆どいないみたいだ。
ホールにいるスタッフたちは不穏な気配を漂わせてるのが数名。俺たちへの敵意はないな…他がターゲットか。
裏稼業のパーティーはターゲットとそれを狙う奴がうじゃうじゃいるんだ。
「ターゲット発見」
「変装は一人だけか」
俺たちを見て驚いている数人。
俺の連絡役、昴の連絡役、総監のコマである警視正と老婆に化けてる部署の元上司。
流石に警視総監は来てないか。
それらを無視してバーテンダーの元へ向かう。三人いるバーテンダーのど真ん中に手を挙げた。
金髪のウィッグを被って、肌色をバイレイシャルな肌を色白に変えて。青い目の色はそのままだ。こうすると昴は男女問わず無駄にモテるんだよ。バーカウンターは人だらけだ。
「盛況だな」
「最初だけですよ、お飲み物は?」
「シャンパンを」
蒼がじっとバーテンダーを見つめて微笑む。こら。そんな顔しちゃダメだろ。
「ブルー…」
「ごめん、つい」
バーテンダーに扮した昴が苦笑いしながら、シャンパングラスを二つ寄越す。
「今年の傑作です、どうぞ」
傑作は毒なし、を意味する。珍しいな、こんな事あるのか。
「ありがとう」
グラスを受け取り、近くのテーブルに沿って佇む。ステージに主催者が上がってマイクを取る。
「紫耀文庫の社長さんだね」
「表向きは小説家の表彰式だからな。彼らは知らない事だから、動くのは式が終わってからのはずだ」
「はーい」
簡単な挨拶と乾杯の音頭。蒼が唇のギリギリ手前で液体を止めてグラスを戻す。上手いな。
「大丈夫そう?」
「完璧」
得意げな顔をしながら片膝を曲げて立ってる。ホルスターの位置をきちんと把握してる。立ち方にも隙がない。本当に完璧だよ。いい練習になったな。
いや、もうこういうのは勘弁してほしいが。
『総監現着、Sナシ』
慧の声だ。スナイパーは無しか。
総監は結局ここに来たのか…面倒な人が増えたな。
昴が嫌そうな顔してる。
狸というか妖怪と言うか。総監はそう言う人だ。一筋縄では行かない気もしてきた。
表彰式の最中、蒼が俺の背後に回る。
「おや、お久しぶりだねお嬢さん」
「以前はありがとうございました」
左右に分かれた警察官が俺達を囲んでくる。気が早いな。
「大人しくついてきてくれるかね」
「おばあちゃん、それしまってから言ってくれる?」
背後で見えないが銃を持つ音がしてたからな。蒼はそれに反応したんだ。
「ふん。面倒だね。さっさと行くよ」
しゃっきりした動作で着物姿の上司がスタスタと歩いていく。
隠す気あるのか?ご老人はそんな歩き方しないぞ。
「どうするの?」
「ついて行こう。どうせもう罠の中だ」
「ん…」
蒼の手をとって、奥の扉から廊下へ出る。
「普通逃げられないように後ろに人をつけない?」
「あの人たちはそう言う頭がないんだよ。俺たちを従えてるつもりだからな」
「うーん」
俺の連絡役だけがチラチラと振り向いてるが、他は全員さっさと歩いて行ってるし。
「チヒロの連絡役の人はいい人そうだね」
「いい人ではあるが、判断力に欠けるんだ。本来あの人が潜入する筈だった」
「そうなの?でも、私はチヒロに出会えてよかったから…複雑な気持ちだなぁ」
緊張感がなくなるからやめてくれよ…。胸の中にほわほわしたものが広がってくる。
俺だって、そうなって良かったと今なら言える。無事に帰れたらちゃんと伝えたい。
毛足が長くふさふさの厚い絨毯の上を歩いて、最奥にある小部屋に案内される。
インカムを3回叩き、回線を開きっぱなしにする。
――戦闘開始だ。
━━━━━━
「かけたまえ」
重苦しい空気を纏った警視総監が目の前のソファーにかけて、その横に元上司と警視正が立ち並ぶ。
ドアの前に連絡役達が立って退路を断つ。窓は無し。こっちのスナイパーを警戒したのかな。五人がかりとは大仰だな。
言われた通りにソファーに浅く腰掛けて肘掛けに手を置き、すぐに立てるような姿勢を保つ。
蒼はお尻を少しだけソファーに置いて、ホルスターがある足を上にしてつま先を横に流してる。
…誰も教えてないんだが。すごいな。
「昴くんが来ると言う話だったが?」
「あんたは誰だ。ここでは旧知の仲ではない筈だ。俺は組織の人間として交渉テーブルについている。ウチのボスをくん呼ばわりか」
もちろん知ってるが。
睨みつけながら偉そうに喋る。
俺たちはもう駒じゃない。上司ヅラは辞めてもらおう。
「貴様…警部補の分際で!」
蒼が座ったまま銃を構えて、鼻面に銃口を突きつけられた警視正がぴたりと止まる。反応が早すぎる…。
「ブルー…」
動くなって言っただろ?
「ごめん…」
蒼が銃をホルスターに戻した。
警視正が鈍いのか、蒼が素早いのか。誰が見てもわかる。反応速度も早くて速射も出来るなら、SPとしては最高の人員だな。
軽率な警視正のお陰で蒼の実力もバレてしまった。よくないスタートだ。
警視正の横で警視総監が微笑む。
「失礼しました。私は警視総監、田宮学と申します。私の直属の部下である結木と特殊部隊長の相良です。ドアの前にいるのは、特殊部隊連絡役の楠と千木良。よろしくお願い致します。」
「あぁ。俺はボスの直下のセカンド。横にいるのがブルー。時間が惜しい。条件の提示から頼む」
蒼が背筋を正してじっと警視正の結木を見つめてる。表情が抜け落ちて、何も見えない顔。
慧が言っていた警戒中の顔だな。見つめられてる方は顔色が真っ青だ。
「では。警察としましては御社が把握してくださった製薬会社…ファクトリーの壊滅を目標としております。
そのご助力をお願いしたい。そして、今後も組織のお力をお借りしたいとお声がけした次第です」
ヘラヘラと笑いを浮かべているが、目が鋭すぎる。圧が強い。警視総監も伊達じゃないな。
「助力というが、具体的には?」
「ファクトリーの壊滅についてはあなたから頂いた物で情報収集はほとんど終わっておりますね。
それを元に我々の特殊部隊と組んで内部に潜入し、武力行使で叩き潰したいのです」
「要するに殺せと」
ふ、と微笑みが深くなる。とんだ狸だ。
「情報では、このファクトリーにはボスが存在します。最終的にはそのボスのために研究をしている施設であり、ファクトリーとしての内実を持ちながらも産出は殆どされていない。
人体実験の研究が主ですね。若返りの研究をされている施設だとか」
たしかにそこまでは掴んでいるし、俺が途中まで警察に報告した物は把握してるって事だな。
ファクトリー組織のトップが難病で、死を回避するために研究所を作ったんだ。兵器の産出はダミー。人体実験のための施設に他ならない。
大元のボスは日本の国を食い物にしている大きな組織のトップ。
人数は多いがボスが病気になって、その組織の体型が崩れつつある。
警察としては崩すべきモノを叩ける最高のタイミングだ。
「研究所に戦闘員は?」
「数は多くありませんが職員よりもファクトリーで教育された子供たちが問題です。大変優秀な教官がおり、兵器の卵たちだらけだ。戦闘には苦戦することが予測されます。」
「まぁ…そうだろうな…」
情報を与えたくなかったが蒼が動いてしまった以上正確にその戦闘値を測られてしまった。
蒼がしょんぼりしてる。仕方ないよ。そんな顔しなくていい。どうせわかることだった。
目配せすると、瞬きが返って来る。
『ごめんね』
『気にするな』
蒼の目線が逸れたことで青くなっていた警視正が相良の後ろに引っ込む。最初からそうしていてくれ。
これは用意された茶番だな、田宮の胡散臭い微笑みが深くなる。
「研究所内部を調べるに至らず、侵入経路を計画する段階で手をこまねいていますが…御社には都合よくファクトリー出の方がいますね」
ちらり、と蒼に視線を送り総監が椅子に背を預ける。
「記憶喪失だ」
「存じておりますよ。ただし、それを取り戻しつつある。今の様子を見て確信しています。まずはそこからお願いしたいのですが」
「…情報を出す事については、交換条件が決まらなければ返事ができないな」
「相良」
「はっ」
老婆姿の上司が紙を差し出してくる。
ご丁寧に2枚。
蒼はそれを一瞥してすぐに目線を戻す。もう覚えたか。
俺も流し見して、紙をテーブルに戻した。
「駒を使い捨てるのはやめたのか?」
「使い捨てるつもりではなかったのですが。連絡役の彼の処分はもう決まっていますよ」
昴の連絡役が顔色を変える。本当なら多少の溜飲が下がるが。
警察が出してきた条件はこんな感じだ。
俺と昴の昇進、俺たちが居る組織を部署化して表向きは悪い組織の体はそのまま。しかし、悪をくじくための武器として公的機関に所属させる。
警察内部の特殊部隊、その子飼いの部署として使いたいようだ。給料云々はどうでもいいが、いいように使いたいと言う意思があからさまに見える。
「保証がないな。俺たちは保証のない仕事はしない。何を証しとする?」
「保証ですか…そうですね。条件としてそのお嬢さんの延命、はいかがでしょうか」
一瞬で、空気が変わった。
心拍数を必死で抑える。
延命…できるのか?
「その話は信憑性がない」
「証明はできます。ファクトリーの研究者二人、お嬢さんの父母と名乗る方をこちらで保護しています」
クソッタレ。やられた。
先手を打たれていたんだ。
「お嬢さんはご存知かな?あなたの命が先行き短いことを」
蒼を見ると、僅かな変化がある。
…まだ、それは本人に教えていない。こんなところでバレてしまうとは思っていなかった。
「私の体のことは知っています。延命と言うことは、先ほど仰ったように寿命が短いんでしょうか?」
「そうだよ。まだ伝えていなかったようだね」
「そうですか。分かりました。それ以外の条件でお願いします」
「なっ…」
蒼が優しい微笑みを向けてくる。
な、何を言い出すんだ…。
「私の延命が最優先じゃないでしょ?その話を含めても、組織のみんなの今後が保証されなければ私は納得しないよ。そもそも延命の話自体に信憑性がない。セカンドが言った通りに」
言葉がなくなる。それは…そうだが。
警視総監と相良が唸る。
「大変聡明なお嬢さんのようだ。度胸もいいし、隙がないな。スカウトしたいよ」
「ふふ。お断りします。私は人の命を駒にするような人たちと、仲良くする予定はありません」
キッパリ言い切る蒼には動揺がない。動揺してるのは俺と慧と昴だけだ。
インカムの沈黙が耳に痛い。
「最終的な結論で話しましょう。もう、小芝居はやめだ。あなた方には正式に辞令を出し、警察内に発表します。
秘密組織ですから一般には公表できませんが、お嬢さんの言うように駒としてではなく正式に協力関係を結びたいのです。長く生きて、警察に貢献していただきたい。
私が言うのも信用できないとは思いますが、これは本音だ。
日本のために働いてきたあなたたちを駒にしてしまったことを心から謝罪する」
連絡役を含めて全員が俺たちの前に立ち並び、腰を折って頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
公僕として働いてきた長い年月が走馬灯のように駆け抜けていく。ダメだ。俺の動揺が伝わってしまう。
強く握った手のひらに蒼が触れてくる。厳しい顔。怒ってる、と言っていた時の顔だ。
「当然するべきである謝罪に、交渉価値があると思われているのは何故ですか?面白くない冗談ですね」
蒼が条件面が書かれた紙を片手で弄びながら、眉を釣り上げる。
「この条件で何を納得すればいいんですか?取り繕うにしても価値のないものを提げて、恥ずかしくないんでしょうか?
あなたたちがした事は取り戻せない。謝る事は自由です。人として当然のことですよね。
だから決断の材料にはなり得ない。
私は警察官じゃないから、偉い人がペコペコしても何にも感じません。
私も商売をしてきましたが、お金の絡むやり取りで感情を操作してくる人とはお仕事しませんでした。
碌な目にあわないんですよ。騙そうとする貴方みたいな狸ばっかり。化かし合いなら山にお帰りください。めんどくさいです」
蒼の強い言葉に呆然とする田宮。
んっ。吹き出しそうになった。危ない。
「さっきの警視正も餌でしょう?まんまと引っかかった私が悪いけどそう言うのもいやらしいですし、ウチの父母を保護したと言ってましたけど人質ですよね。
交渉というのは平等な関係で成り立つ物なのに、なぜそんな画策をされたんですか?本当に不愉快です」
「は、あ、すみません…」
「すみませんは丁寧ですが今回の場合は『取り返しのつかないほどの事をした謝罪』なのでは?使い分けているならご理解されてますよね?」
「申し訳ありません…」
蒼の顔が冷たくなってる。真っ赤になって怒ってたと慧から聞いたが、これはまた…さらに怒るとこうなるのか…俺も怖い。こっちの不利をあっという間にひっくり返してしまった。
昴並みの交渉術だ……。
「ではそれを踏まえて、仕方なく交渉して
まず、この子飼いの部署とと言うのが気に入らないです。いいように使ってやんでぇ!と言う気持ちが見えます。本当に反省してますか?
あ、座ってくださいどうぞ。やりづらいです」
蒼に促されて、総監が腰掛ける。
冷や汗流してるな。
「あと、昇進?なんで一つだけなんですか?
警部階級はまだ安心できませんので何とかして下さい。しがらみがない程度の階級でお願いします。忙しいので。
具体的にはそこの貴様、って怒鳴った結木司警視正と特殊部隊長の相良麻衣さんの上か同等でお願いします。
部署は総監直属で、保険のために世間にも公表して下さい。顔は出せませんが警察の仕事だけで食べていくのは厳しいと思いますし、裏稼業の隠蔽もしてもらえるなら組織の組員も納得できます。白い仕事で有名な黒い仕事をする企業って裏稼業では沢山いますよね。
それから、ウチの稼業の儲けは報告義務なしでいいと書いてもらいたいです。…メモしなくて覚えられます?」
「は、そ、その話をすぐには」
「どうして?警視総監がここにいるのは即決するためじゃないんですか?即決出来ないなら交渉決裂です。私も動きますよ」
蒼が動く?何をするんだ?
「お忘れかも知れませんけど、私はファクトリー出なんですよ。思い出せば内部に簡単に繋がれます。ファクトリーの子たちは全員仲良しでした。
知らない子だらけでも、お互い姿を見ればすぐに通じる。
私が全部思い出せばファクトリーの子達を使うこともできる。
大きな組織のボスが病気なら、それを乗っ取ってしてウチの組織を大きくしてもいいですね。お金はそっちの方が儲かりそうですし」
俺を含めて呆然とする中で、大声で笑い出す相良。…女性って強いな。
「…お嬢さん。なかなかやるね」
「ふふ。相良さんも豪胆ですね」
「面白い子だ。全員の顔も名前も覚えてるし、交渉も素晴らしい。男どもの浅はかな感情戦線が通じないのは気分がいい」
相良がフェイスマスクを剥ぎ取り、顔をあらわにする。
「あらー、美人さん…」
「ありがとう。さて、総監。どうするんですか?私は賛成だ。この子は大変面白い」
「取り決めの文書にない項目なんだが」
「手書きでも法律上は成立しますよ。ね、チヒロ」
きゅっと手を握られる。
なんでこうなった。なんだこの和やかな空気は。
「…そこで名前を出すのはどうなんだ」
「最初から知ってるのに変でしょ?騙し合いみたいなやり取りをしても時間が無駄。私、この後の事の方が大事なの」
思わず顔を抑える。
蒼が無双すぎる。俺の役割返して。
総監がアタッシュケースから白紙を取り出して、必死で蒼の言ったことを書いてるし。狸どこいった。
「昴…奥の部屋だ。来てくれ」
『もう着く』
ノックもなくバーテン姿の昴と真っ黒な慧が現れる。
二人とも額に汗がびっしょりだ。
「どうしてこうなった」
「俺が聞きたいよ」
室内の全員が微妙な顔になる中、蒼と相良だけが笑顔だった。
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