第20話 Knock.knock
蒼side
「まずは手を掴まれた時。荷物を持っていた場合を想定してやろう。はいこれ」
買い物袋と鞄を手渡される。中に入ってるのはさっき買ったお茶のペットボトルが一本。
「両手が塞がっている状態で、こう腕を掴まれました。動かしてみて」
片腕をむぎゅ、と掴まれる。
穏やかな表情のケイは、私の腕をそこまで強く握っていない。
それでも、引っ張ってみたり、押してみたりするもののびくともしない。うーん、強い。
「基本的な力の込め方は弓と同じで、丹田…おへその下に力を込める。体の中心がそこで、軸として全ての体の動きをサポートする部分だから忘れないでね。
あとは、力を使おうとしても女性の場合は結構厳しい。バッキバキに鍛えて居ても、男とは体の構造自体が違うからさ。
手を握るんじゃなくて、目一杯開いて。力対力じゃなく、体の動きと筋肉、流動的な動きで相手を制するんだ。
手のひらを下にして、掴まれた腕と同じ側の足で相手にグッと近寄る」
言われた通りに手を開いて近づいてみる。なるほど…手を握るより開いた方が腕の骨に自分の芯が通って安定するから、骨が折れたりする危険がなさそう。
「OK、力の流れるイメージは水撒きのホース。ゴム部分はふにゃふにゃ動くけど、真ん中は水が通ってるから潰れない。そのイメージを保って、肘は伸ばし切らずに外に向けて曲げると力の方向が変わる。
次、近づいた時点で相手はびっくりするから踏み込んだ足のままバックターンして、背中をくっつける。
この時に
背中をくっつけて腕を動かと、すいっと力を入れずにケイの手が外れる。
「はー、そういう…力技じゃないんだね」
「そう。全ては原理による動作。余裕があればお尻で相手の背中からドカンとぶつかれば相手が転がるから、その後逃げやすい」
「はいっ!」
まさかお尻で押すわけにいかないし、背中でそっとケイにくっついた。
おお。背筋が素晴らしい。思わず手を伸ばしてお腹を撫でる。
「な、何してるの?」
「ごめん、素晴らしい筋肉の誘惑に勝てず…」
「そ、そう?チヒロよりはないよ」
「これは別枠の筋肉です、細身なのに無駄のない筋肉。いいですねぇ」
横目で見えるケイが赤くなる。むむ、そろそろやめておこう。
「つ、次行くよ。ちょっとこの先を教えるのに勘違いしないよう伝えておくね。
身を守るために必要なのは力じゃなくて技。戦うんじゃなくて安全に逃げ出すためだって頭に入れて置いて欲しい」
「了解です」
「普段の生活の上で『警戒』と『気配を察知する』っていうのが一番大切。警戒はそのまま気をつける、気配を読むっていうのは言葉にすると難しいけど、ぼーっとしなければ本来なんか変だな?って気づけるはず。
勘みたいなものじゃなくて、気をつける意識が危険物を本能に認識させる。
自分の歩く先をしっかり見て人にぶつからないように歩く。人の話すことを聞いて、何を考えながら話しているか観察して予測してみる。普段の生活で自然にやっていけば変な気配には気づけるようになる」
あぁ、わかる。知ってる。
顔の筋肉を緩めて、ケイを見つめてみる。
ちょっと戸惑ってるけど、観察されてることに気づいて腕を動かそうとしてる。
…右手、左手。おでこ…。
おでこ????
両手を繋いで、コツンとひたいがくっついてきた。
「いい感じです。優秀な生徒さんだね。その顔は警戒してる顔だったのか」
「は、あ、はい、うん」
「ふはっ、いい顔になった」
近づいた顔が満面の笑みになって、離れていく。手を離すとケイが耳のピアスをいじる。思わぬ反撃と照れを貰ってしまった。
「次は刃物を向けられた場合ね」
ケイがポケットからバナナを取り出す。さっき買ったバナナはちょっと高いやつ。すごく大きいけど一本から売ってるのはどう言うことなの。
「美味しそうな刃物だね」
「確かに美味しそうだ。後で食べていいよ。刃物の場合は両手で持ってることがほとんどだ。こうして近づいてくる」
ケイが両手でバナナを持って、私のお腹を狙ってくる。
「怖くなって体を引っ込めようとする人がほとんどだけど、逆に刃物を迎えてしまうからそれは悪手だ。刃を向けられてる時点で刺される可能性があるから、もう割り切って立ち向かうのが鉄則だよ。
最初に肘を伸ばし切って両手をしっかりまっすぐ伸ばす。肘を伸ばし切ると、腕がロック状態になるから肘に力を入れる。
そして、できれば迎えるんじゃなくて自分から近づく。相手が怯むし、自分のタイミングでいけるから。相手をよく見て、伸ばした両手を相手の肘の内側に押し込む。」
両手を伸ばし、ケイの肘の内側に手を添える。刃物を持つ人って肘が曲がってるんだね。お腹の前に刃を掲げてるけど私には届かない。
「手を触れるのは一瞬でいい。刃物を持った側はそれ以上手を伸ばせなくなるし、刃が届かない。日本刀の場合はちょっと違うけど、そんなのには出くわさないとは思う。
触れて、一瞬押さえたら横に流す。腕はつかまないでね。抜けれなくなるから」
「はいっ」
くいっ、と伸ばした手を横に流す。
腕が逸れて、ケイがそのまま私の脇を通り過ぎる。
「走ってくる人は急には止まれない。
同じ方向に逃げても意味がないから、相手の背中側に逃げる」
ふーむ、なるほど…基本的に受けずに流すんだなぁ。
「次、背後から首を絞められた場合」
バナナをダイニングテーブルに置いて、ケイが後ろから抱きしめ、首に腕を回す。
「ケイのいい匂いがするね」
「ちょ、もう!先生を動揺させないでっ!…はぁ。首の前にきた腕に全体重をかけてぶら下がる。やってみて」
ケイの腕に両手をかけて、ぷらんとぶら下がる。…びくともしないけど。
「相手が力が強くても、首が絞められなくなるからこれでいいんだよ。
自分の喉を守って呼吸を保つために相手の肘に顔を向ける。相手が肘を曲げるのは必須だから。関節を曲げると必ず隙間ができる。その隙間に顎を揃えることで気道確保ができるからね」
「へええぇ」
「そしたら、足を踏みまくる。腕が緩んだら肘でお腹を打って、逃げ出す」
ケイの足の上に足を置いて、ちょいちょいとお腹を突く。
「んっふ。待って、お腹弱いから…」
「なるほど、そういう人もいるね」
「ごめん。まじめにします。次は床に押さえつけられた場合かな」
ふむふむ、了解です。床に寝っ転がって、ケイが近づくのを待つ。
「フーッ…はぁー…」
「ケイ?まだぁ?」
「はい、ただいま」
ため息をつきながらケイが覆い被さってくる。サラサラ流れる髪の毛がケイの顔に影を落とした。
「殺意がある場合…首を絞めてくると思う。できれば押し倒される前に逃げて欲しいけど…首触るよ?」
なんだかケイの顔色が悪いような…。
両手で首をそっと触ってくる。膝立ちで距離をとって、首がわずかに締まる。
「……相手の、腕の外側から手を挟んで両手を握って。指を組んで、ぎゅっとしてね。
蒼の手が支点、作用点は挟んだ腕、肘の辺り。力点は外側から加える力。これで、相手の腕を拘束する。
そしたら膝を立ててお腹に寄せれば相手の腰が上に上がって、体勢が不安定になる。かなりの体重でも問題ない。
最後は寝返りを打つ要領で横に倒す」
「倒していいの?」
「うん」
そのまま横に倒し、ケイがパン!と音を立てて転がる。おぉ、受け身だ…。
「いてて。木の床だと痛いな。
受け身を取られても、そのまま蒼は立って逃げられる。相手は事態の把握と立ち上がる時間のタイムラグがある。そんな感じ」
「ほほぉー…」
立ち上がって、振り向く。慧が倒れたままになってる。
「ケイ?そんなに痛くしたの?大丈夫?」
「ん、平気。ごめん、ちょっとだけ待って。」
体を丸めて、ケイが小さくなる。…おかしい。手が震えてる。
そっと近づいて、丸まってるケイの背中に手を置く。ついでにほおを乗せて、トントン叩く。
「…っ」
ありゃ、本格的に泣き出してしまった。うーんうーん。どうしよう。
…ふふーん♪ふふふーん♪ふふふんふんふーふんふん♪
鼻歌が勝手に出てくる。
なぜか記憶にある歌。これ歌うとお客さんのお子さんが落ち着くんだよねぇ。
ふわふわして優しい音階は、私も好きな曲だ。どこで聞いたんだろう。
懐かしいな、と思える唯一の記憶の音だ。
歌い終わると、振り向いたケイがじっと顔を見てくる。
「膝枕はいかがですか、お客さん?」
「……」
ケイは寝転んだまま、私の膝の上に頭が乗ってくる。
シャラ、とピアスが音を立てた。たくさんついたピアスはまるでケイをどこかに繋いでいるみたい。
彼の涙の跡をなぞって、目を瞑るケイを撫でる。……もっと泣いていいのに。すぐ泣き止んじゃった。
「さっきの…クラシックでしょ。知ってるの?」
「んー、記憶にあるんだけどどこで聞いたのかはわからない。赤ちゃんがこれ聴くと寝ちゃうの」
「ふっ、確かに。子守唄だからね」
「子守唄だったのかぁ。優しい曲だよね」
「そうだね…」
頬を撫でながら、もう一度口ずさむ。優しい音階が私にも、ケイにも染み込んでいく。
誰かのために歌う歌は、優しい。
歌う人も、聴く人も癒してくれる。
「ケイって、たくさんピアスつけてるんだねぇ。重たくないの?」
「重たくないと意味がないんだ。これは戒めだから」
わずかに瞳を開いて、真っ黒な瞳に深い闇が見える。心の闇の色だ。
「戒め?」
「蒼は、俺の……嫌な昔話を聞いてくれたりする?」
「ケイが話したいなら聞きたいな」
「うん……」
口を開いては閉じて、なかなか喋らないケイを見つめる。
ケイは本当に優しい。私のこと考えて、話すのを躊躇っている。
サラサラの長い髪の毛をそっとかき分けて、顔を露出する。綺麗な顔だ。
昴はちょっと顔が幼いし、行動もかわいい。
チヒロは見た目は大人びてるけど動作が幼いことが多い。
ケイは言葉が柔らかいし、気遣いも、行動も大人。だけど二人と比べてちょっと脆い感じがする。
「ケイ、ゆっくりでいいよ」
思わずつぶやいてしまう。大人だからこその脆さな気がする。
重たいものを抱えても大人でいられるってかっこいいけど。
長い髪を撫でると、ケイが瞼を閉じる。
「俺、恋人を殺したんだ」
「そうなの?」
「うん。この手で、首を絞めて。お腹に俺の子がいた」
「うん」
目を開いて、ケイがわたしを見据える。
「怖くないの?」
「何が?」
「俺のこと」
「どうして?ケイの話を最後まで聞かないと何もわからないでしょう?それに、ケイは享楽で人は殺さない」
「どうしてそんなこと言えるの?」
「うーん」
どうして?どうしてかな。ただ、そう思ってるだけなんだけど。
「ケイのことを見てて、そう思ったから。ケイがお医者さんで子供を見ていた目も、私や昴やチヒロを見る目も、優しかった」
私の目を見ながら、真っ黒な瞳に色んな気持ちが見える。期待や、不安や、悲しみ、寂しさ。
「俺が……二十歳の時。組織で相棒だった子に子供ができた。その時、殺したんだ。」
ポツポツ語り出すケイ。
頭の中に真っ黒で大きなドアが姿を現す。
――私は迷わずトントン、と扉を叩いた。
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