3章(3)
ハナの先導でメルフェリーゼは皆が寝静まった城内をそうっと抜けた。外に出ると、より寒さが身に染みてぶるりと身震いする。
「中庭は誰かに見られるかもしれません……城門を抜けて、裏門から入ります」
「門には護衛の兵士も詰めているでしょう? 私の顔が、もし見られたりしたら……」
「大丈夫です。外から入ってくる者には厳しいですが、城から出る者の顔はあまり見ていないようですから」
日頃から城門を通ることの多いハナが言うのなら、そうなのだろう。メルフェリーゼは自分を納得させてハナの後を追う。
ハナは子ども特有の無邪気さと、大人のような聡明さを持ち合わせた不思議な少女だった。その特殊な生い立ちが彼女の人格形成に影響を与えたのか、城下で見る同年代の子どもよりも大人びて見える。
もしハナが城を出ていく時が来たら、メルフェリーゼは彼女のことを最大限に支援してあげたいと密かに思った。
ハナが小さな手で裏門を押し、どうにか人が一人通れるほどの隙間を開ける。メルフェリーゼは滑るようにその隙間に身をねじこませると、ハナが通りやすいように門を押して幅を広げた。
「ありがとうございます」
ハナがはにかんで、囁くようにお礼を言う。二人は極力音を立てないように、そっと歩いた。
月明かりのぼんやりとした光量しかないため、メルフェリーゼはハナの後をついていかないとどこを歩いているのかも分からなくなるが、ハナの足取りに迷いはない。彼女の目は、猫のように暗闇を見通せるのかもしれない。
寒さに身を震わせながらしばらく歩くと、ぽつんと窓から漏れる明かりが見えた。どうやら離れのすぐ近くまで来たようである。そこからは舗装された道を辿っていくだけだった。
やがて三階建ての離れの前までやってきて、ハナは首から下げた鍵を取り出して離れの扉を開ける。
ほっとするような熱気がメルフェリーゼの身体を包んだ。室内は明るく、暖炉の火で温まっている。
「今日はいませんが、たまにカイリエン様の主治医や薬師が泊まっていくこともあるんです」
ハナが説明をしながら、メルフェリーゼに階段を登るよう促す。絨毯の敷かれていない廊下は、やけに靴の音が響き、メルフェリーゼは誰かに見つかるのではないかと緊張を滲ませた。
三階の端の扉を前に、ハナが足を止める。
「わたしは一度、城に戻ります。夜明けにはお迎えに上がりますので、カイリエン様にもそうお伝えください」
「どうしてハナは、そこまでしてくれるの?」
メルフェリーゼの言葉に、ハナがうっすらと笑う。
「メルフェリーゼ様の幸せが、わたしの幸せです。侍女が主の幸せを願うことは当たり前のことなのだと、侍従長の奥様も言っていました」
◇ ◇ ◇
ハナが階段を降りていく音もなくなり、メルフェリーゼはいよいよ一人になった。
この扉の向こうに、カイリエンがいる。そう思うと、ノックしようと伸ばした手が止まる。あんなに会いたいと思っていたのに、いざ会えるとなると尻込みしてしまう。
メルフェリーゼは肩にかけられたブランケットの裾をぎゅっと握り、小さな音を立てて扉をノックした。
こんな夜更けに来たものだから、カイリエンはもう眠っているかもしれない。室内から返事はなく、メルフェリーゼはもう一度ノックをする。
ガタッと物音がして、足音が近づいてくる。細く開けられた扉の隙間から顔を覗かせたカイリエンは、メルフェリーゼの姿を見るなり扉を開け放し、腕を引いて彼女を室内に引き込んだ。
息つく暇もないほどきつく抱きしめられ、カイリエンの体温がメルフェリーゼの身体に染み込む。湯上がりの石鹸の香りが立ち上り、メルフェリーゼはこわごわとカイリエンの背中に腕を回した。
「よかった……なかなか会いに行けなくて、ずっと心配してたんだ」
カイリエンはメルフェリーゼを抱いたまま、震える息を吐き出す。
メルフェリーゼが少し顔を離すと、蜂蜜色の瞳がメルフェリーゼの顔を間近で覗き込んだ。
鼻先が近づきそうなほど近い距離で、カイリエンが囁く。
「マーリンドに、なにもされていないか……?」
カイリエンがなぜそんなことを聞くのかは分からなかったが、メルフェリーゼはこくこくとうなづく。
「急に顔を合わせる機会が多くなったけれど、カイが心配するようなことはなにも……」
カイリエンは明らかにほっとした顔を見せた。扉を開けた時はわずかに強張った顔をしていたが、今は少し微笑んで、片手はメルフェリーゼの腰をがっちりと抱いたまま、彼女の長い髪を梳いている。
ぴったりとくっついているため、カイリエンの心臓の鼓動がメルフェリーゼにも伝わる。当然、カイリエンにもメルフェリーゼの鼓動が伝わっているだろう。メルフェリーゼの心臓は、口から飛び出しそうなほど暴れ回っている。
カイリエンの指先が、するりとメルフェリーゼの唇を撫でた。
「キス以上のことは、しないから」
カイリエンがメルフェリーゼを見つめたまま、囁く。
綺麗な顔だと思った。たとえ左目が二度と開かないとしても、一生消えない傷がそこにあったとしても、カイリエンには野生の獣のような美しさがあった。それは広大な森を群れることなく、一匹で生き抜く狼の美しさにも似ていた。
「少しでいい。俺に、慈悲を――」
言い切る前に、メルフェリーゼは唇を押しつけた。カイリエンの薄い唇から熱が伝わり、ぼうっと頭の中心が痺れるような感覚がある。
離れようとするメルフェリーゼの頭を、カイリエンの大きな手のひらが抱え込んだ。舌先で唇をなぞられ、メルフェリーゼはぎこちなく唇を開いた。ぬるりと熱いものが口内に滑り込み、舌を絡め取られる。歯列をなぞられ、舌を吸われて、下腹部がじんと、熱い疼きを持つ。
「んんっ……」
息ができずに身じろいだ時、ようやくカイリエンは唇を離した。唾液が細い糸を引き、二人を繋ぐ。唇の端から溢れたそれを、カイリエンはちろりと舌を出して拭った。
カイリエンの右目が、普段とは違う色を持っていることにメルフェリーゼは気づいた。じっとりと濡れ、欲に塗れた男の鋭い視線に、メルフェリーゼは胸が締めつけられるような愛おしさと喜びを感じる。
こんな自分を、カイリエンは求めてくれている。物欲しそうな目をして、メルフェリーゼを見つめている。アウストルに一度も求められたことのないメルフェリーゼは、はじめて目にする男の衝動に昏い興奮を覚えた。
カイリエンの首に手を回し、自ら唇を合わせて舌を絡める。漏れ出る吐息と、ぴちゃぴちゃとした水音が室内に響く。
カイリエンの指が迷うように背中を這った時、メルフェリーゼは彼の唇に噛みついたまま呟いた。
「カイ……私を抱いて」
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