独裁者・武田信玄 【第壱章 独裁者への階段】

第十二話 平和が当たり前という勘違い

何があったかを問う武田晴信に対し、真田幸隆（さなだゆきたか）は自分の過去を語り始めた。

「我が真田家は……

かつて信濃国（しなののくに）の佐久郡（さくぐん）［現在の佐久市、小諸市など］を治めていた、滋野（しげの）一族の分家に当たります」

「滋野一族か。

我が武田家と同じ清和天皇（せいわてんのう）の末裔にして、数百年に亘（わた）って佐久郡の平和を保っていた一族だと聞く」

「ただし。

長く続いた平和で……

滋野一族は、致命的な『勘違い』をするようになってしまいました」

「勘違い？」

「平和が当たり前だと考えるようになったのです」

「平和が当たり前、か。

己（おのれ）の頭で筋道（すじみち）を立てて考えることを怠（おこた）り、人の話を真に受ける『能天気』な者ほど、そういう勘違いをしているようだがな」

「その通りです。

能天気な一族は、いつしか鈍感にも……」

「鈍感？

何について？」

「すぐ近くにいる『敵』の存在についてです。

己（おのれ）の欲を満たすためなら、どんなことでもできる者たち……」

「そちたちの周りには……

実り豊かな佐久郡（さくぐん）の土地を持つ滋野一族を妬（ねた）み、蓄えてきた富を己（おのれ）の物にしたいと欲望を募（つの）らせる者どもがいたということか」

「御意（ぎょい）」

　◇

およそ10年前。

佐久郡（さくぐん）は、たった1日で平和を失った。

三方から敵が一斉に侵攻してきたからである。

北から村上（むらかみ）軍、西から諏訪（すわ）軍、南から晴信の父・信虎が率いる武田軍が突如として襲い掛かって来た。

『海野平（うんのだいら）の戦い』と歴史書には記されている。

3つの軍勢は、己（おのれ）の欲を満たすためだけに徒党（ととう）を組んでいた。

そこには正義もなければ秩序もない。

当然の結果として、無秩序な虐殺や略奪が繰り広げられた。

男性は殺され、女性は襲われ、子供は攫（さら）われた。

虐殺や略奪を恐れた人々は着の身着のまま逃げ出した。

このように生まれた大勢の『難民』は……

唯一、敵が襲ってこない東の方角を目指して一目散に駆けた。

やがて上野国（こうずけのくに）［現在の群馬県］との国境・碓井峠（うすいとうげ）へと殺到する。

碓氷峠。

現在の長野県軽井沢町と群馬県安中市を隔てる峠であり、古くから交通の難所として知られる。

明治時代に鉄道が敷設（ふせつ）されたが、急勾配に悩まされた。

坂を上がる際には強力な機関車に引っ張ってもらい、下る際には暴走しないようにブレーキを掛け続ける。

ブレーキが利かなくなるとたちまち暴走して大惨事を引き起こした。

こんな『難所』に、大勢の難民が殺到したのだ。

逃げ道のない袋小路へと追い込まれたも同然である。

背後からは飢えた獣（けだもの）のような軍勢が迫り、難民たちは絶体絶命の窮地に陥った。

　◇

この頃。

碓氷峠の先にある上野国（こうずけのくに）［現在の群馬県］を治めていたのは、上杉（うえすぎ）家という『名門』であった。

名門たる由縁（ゆえん）は、室町幕府を開いた足利尊氏（あしかがたかうじ）の母・上杉清子（うえすぎきよこ）の実家だからだ。

上杉家は、関東一円を支配する幕府の要職・関東管領（かんとうかんれい）に就いていた。

関東では他に並ぶ者がいない『権威』の持ち主でもある。

碓氷峠に大勢の難民が殺到していることは、すぐに上杉家の知るところとなった。

対応を協議するために家臣一同が集まったが……

その中の一人・長野業正（ながのなりまさ）という男が、席に着くや否や本題へと入る。

「ご一同。

話し合っている時間などありません。

直ちに全軍で碓氷峠へ向かい、侵略から逃れている民を救うのです」

と。

至極当然の意見だろう。

　◇

ところが。

上杉家の当主・上杉憲政（うえすぎのりまさ）は、慌ててこの意見を制止した。

「待て業正（なりまさ）」

「は？」

「我らのどこにそんな『余裕』がある？

憎（に）っくき小田原（おだわら）［現在の神奈川県小田原市］の北条（ほうじょう）が、隣の武蔵国（むさしのくに）［現在の東京都、埼玉県］を侵略したばかりなのを忘れたか？

碓氷峠へ向かった途端、背後から襲い掛かって来るぞ」

場の全員が強く頷（うなず）いている。

同意見のようだ。

「では、どうせよと？」

「所詮は……

『他国』の争いではないか」

「他国だから干渉するなと？」

「そうじゃ」

「憲政（のりまさ）様。

殿は、関東管領という職に就いておられます。

己（おのれ）の『務め』を放棄なさるおつもりですか？」

「いや、だから……

北条が襲い掛かって来ると申しておる」

「襲い掛かって来るから何なのです？

大いに結構では？

幕府の秩序を乱す『賊』として、堂々と成敗（せいばい）すれば良い」

「しかしだな……

我らと同族の扇谷（おうぎがやつ）上杉家が、あっさりと北条に滅ぼされたではないか。

関東一円の武士どもは、今や我らではなく北条に靡（なび）いている」

「……」

「業正（なりまさ）よ。

関東管領の権威など、絵に描いた餅でしかないのじゃ」

全員がまた強く頷（うなず）いている。

この状況に、業正（なりまさ）の怒りが爆発した。

「まだお分かりにならないのですか？

関東管領の権威を絵に描いた餅にしたのは、我ら自身なのですぞ！」

「……」

「己（おのれ）の務めを放棄し、己の、しかも目先の利益ばかりを追求する我らを見て……

関東の武士たちは愛想を尽かしたのです。

未（いま）だに自覚されないとは何たる愚か！」

業正（なりまさ）の怒りは、特に家臣たちへと激しく向けられた。

「何よりも。

うぬら家臣どもが腐り切っているからだ！

主（あるじ）を助ける立場にありながら、己（おのれ）の目先の利益ばかりを囀（さえず）り、わずかな利益に群がる醜（みにく）い姿を曝（さら）け出し……

誉（ほま）れ高き関東管領の職と、名門たる上杉家の名前に泥を塗りおって！

この役立たずの能無しどもがっ！」

「……」

「もう良い。

これ以上の問答は、時間の無駄でしかない。

碓氷峠には我ら長野の軍勢だけで向かう。

御免（ごめん）」

こう吐き捨てて業正（なりまさ）は立ち去った。

　◇

長野軍は直ちに碓氷峠へと向かい、難民の保護に成功する。

難民たちの窮状をその目で見た業正（なりまさ）の顔は……

やがて凄まじい憤怒（ふんど）の表情へと変わっていく。

「おのれ！

人でなしの獣（けだもの）ども！

わしが天に代わって正義の鉄槌（てっつい）を下してやろうぞ！

全軍、続けぇっ！」

長野軍は疾風怒涛（しっぷうどとう）の勢いで佐久郡（さくぐん）へとなだれ込んだ。

その異常なまでの勢いは、後々まで語り草となる。

迎え撃った侵略軍は、長野軍の倍以上の兵数を誇っていたが……

たった一撃で粉砕された。

逃げる侵略軍の背中を、長野軍の刃が容赦なく襲う。

しかも長野軍の追撃は執拗（しつよう）であり、侵略軍は夥（おびただ）しい犠牲者を出した。

最後は多額のお金を差し出してひたすら和平を懇願する。

こうして業正（なりまさ）は、難民を保護するための原資（げんし）［資金のこと］を手に入れた。

　◇

「あの業正（なりまさ）殿がのう……

豪勇（ごうゆう）を誇っていると聞いてはいたが、やはり優れた人物のようじゃ」

「『これでもう大丈夫だ』

こう考え、大勢の者が上野国（こうずけのくに）に住み続けております」

「幸隆よ。

そちは、なぜ安全な上野国から出た？

故郷に帰りたいからか？」

「それがしには……

やらねばならないことがあるのです」

「何をやる気ぞ？」

「『復讐（ふくしゅう）』を」

「復讐？

侵略した者たちへのか？」

「侵略されたのは……

平和が当たり前だと勘違いしていたからです。

諏訪家や村上家、そして武田家にも恨みはありません」

「では一体……

誰に復讐を？」

「かつての『友』です。

我らと同じ佐久郡（さくぐん）で、友として一緒に暮らしていました。

しかし。

笑顔の裏側で、邪（よこしま）な考えを巡らしていたのです。

我ら一族の土地や富を奪って我が物にしようと」

「何っ！？」

「我らと仲良くする振りをしながら……

諏訪家や村上家、そして武田家へ、守りが手薄な場所をことごとく漏らしていました」

「滋野（しげの）一族があっさりと敗北したのは……

そのせいだったのか！

何と卑劣（ひれつ）な！」

「そしてあの日。

西から諏訪軍を、北から村上軍を、南から武田軍を手引きしたのです。

無残にも我が母は……」

「そちの母が犠牲に！？

おのれ……

卑劣な奴は誰じゃ！

その者の名前を、わしに教えよ！」

「……」

「幸隆。

わしが、天に代わって正義の鉄槌を下してやろう」

「約束頂けますか？」

「誓っても良い」

「同じ佐久郡（さくぐん）に住む『国衆（くにしゅう）』たちです」

　◇

歴史書によると。

佐久郡の国衆（くにしゅう）たちが海野平（うんのだいら）の戦いでどう動いたかについて……

2つの事実を残している。

1つ目は、村上軍や諏訪軍、そして晴信の父・信虎率いる武田軍に『味方』したこと。

2つ目は、攻めてきた長野軍に『降伏』したこと。

そして、この会話の後に行われた出来事について……

こう記している。

「晴信は、内山城（うちやまじょう）や志賀城（しがじょう）［どちらも現在の佐久市］の大井（おおい）一族や笠原（かさはら）一族など、佐久郡の国衆（くにしゅう）たちに対して残酷極まりない仕打ちを行った。

主（おも）だった者たちを悉（ことごと）く殺し、城下の町を略奪し、その民を老若男女問わず奴隷として売り飛ばした」

と。

ただし。

晴信が、このような残虐行為を行った理由については……

全く見当（けんとう）違いの内容を記しているのみである。

【次話予告　第十三話　戦争や侵略は、なぜ起こるのか】

真田幸隆の弟は、小県郡の入口・砥石城の一角を任されていました。

砥石城が難攻不落の地形に恵まれているにも関わらず……

武田晴信は、最も『危険』な最前線であり、『死地』でもあると断言するのです。