第5話 『始原の目醒め』

 レオンが鬼人たちに下した最初の命令は、防衛兵装の改造だった。

 鬼人の里には、現代においてバリスタと呼ばれる据え置き式大型弩砲どほう、火車と呼ばれる多連装ロケット砲が備わっていた。

 そう、この世界にも火薬兵器が存在したのだ。

 細かい仕組みこそ既知のそれと異なっていたが、果たす役割はレオンもよく知るものだった。

 この事実を前にした時、レオンは自身の戦略の幅が大きく広がった事に歓喜した。

 真っ先に、これらの兵装に簡素な木製二輪台車を取り付けさせる。

 幸い、里には技術者も多くいた為、急ピッチで進めても1日程度で完成へ漕ぎ着けた。

 さらに、殺傷力を強化するために矢師に毒矢を大量製造させた。

 それと同時に、鍛治士には手斧、長槍、剣、大剣、防具士には軽鎧を資源の許す限り鋳造させる。

 これだけでも、並程度の敵ならば薙ぎ払えてしまうほど周到な準備を行うことができた。

 しかし、レオンは確実に勝利を掴むために、さらに周到な策を講じる。

 ピクシーを始めとした地属性と火属性の魔法に長けた者を集め、彼らが戦場とする平原の地形を作り替える。

 彼らが布陣する山道への入り口から直線上に50m程の位置に10×10mの落とし穴を掘り、穴底に地雷(感知式の爆発魔法)の術式を仕掛ける。最後にそこに魔法で薄く蓋をしてカモフラージュ。

 もちろん回り込まれた時のために、両サイドへ地雷を埋めておくことも忘れない。

 さらに、布陣予定地に完成した防衛兵装を移動させる。その数なんとバリスタ、火車共に10台ずつ。

 ここまで準備するのに、およそ3日がかかった。

 これの実現は、鬼達の精力的な働きが大きかった。

 最終日は、魔法に優れた者、近接での戦いに秀でた者、前線指揮に優れる者などを斡旋し、部隊を編成。レオンは当日に疲労を残さないように、午後からは半休という形で休息も取らせた。

 限られた時間と資源にしては、十分なほどに準備が整っている。

 そして迎えた開戦の時——


 駆け出した鬼人達は、突如として揃って足を止めた。

 それに不信感を抱くのと同時、向かってくる人狼の先行部隊が大地に呑まれた。

 仕掛けられていた落とし穴が作動したのだ。

 それを踏み抜いた先行部隊は、一斉に底へ転落していき、後に続いた主力部隊も突然の事態に対応できず、急停止した前列の何体かが後続に押されて雪崩れるように転落した。

 直後、用意していた地雷が穴底で起爆。転落した人狼の一部はその直撃を受けて即死、他の個体も爆風や爆発に伴った土砂崩れにより生き埋め状態に。

 それでも生き残った個体もいたようだが、深くまで掘られた穴から自力で這い上がることはほぼ不可能だった。

 こうしておよそ25体程の人狼を削ることに成功したレオンは、配下にバレないように小さくガッツポーズ。

 彼を守るように両横で見ていた承影やピクシーも、第一作戦の成功を確認して歓喜する。

 対する人狼側は、僅かに動揺しながらもボスの一声で一歩後退し注意深く鬼人達を睨む。


「この機を逃す手はありません! バリスタ部隊、撃ちなさい!」


 その隙を突くべく、すぐさま号令を発したのは、姫と呼ばれていた少女だった。

 彼女はその統率力の高さから、レオンに副官として任命され、前線の総司令官を担っている。

 彼女の号令に合わせ、10のバリスタから放たれた矢が、弾丸のように人狼達へ殺到する。


「チッ、小賢しいわ!」


 列をなして襲いくる矢に対応できなかった何体かは、その身体を貫かれ倒れた。

 しかし、ボスは機敏な動きで全ての矢を躱す。


「まだです! 砲手!!」


 間髪入れずに発された号令を受け、10台の火車が火……ならぬ毒矢を吹く。

 爆発の衝撃を受け空に放たれた無数の毒矢が、連綿たる雨と変わり、人狼達の頭上一体に降り注いだ。

 これに、人狼側は砲撃を確認した瞬間部隊を左右に分けて回避を試みる。

 大多数は被害を免れたが、逃げ遅れた人狼達に矢が掠め、時に突き刺さる。

 一方で、左右それぞれから攻勢に打って出た人狼達には、それぞれ仕掛けられていた地雷が炸裂した。

 人狼族にとって不運だったのは、間違いなくレオンの存在だ。

 彼によって仕掛けられた現代由来の悪魔的な作戦は、これまでのこの世界、特に魔族における戦略としては常識から少し外れた手法だった。

 魔族からすれば、事前に落とし穴や地雷など仕掛けずとも、魔法によってそれ以上の火力が出せるというのが通説だった。

 わかりやすい話、手間と成果が釣り合わない、というのが一般的な認識であった。

 しかし、60にも及ぶ戦力差と優勢な状況に無意識下で驕りを抱いていた人狼族には、レオンのとった搦手は極めて効果的であった。

 こうして、交戦前に既に50体程度の戦力を削ることができ、人狼側の統率が僅かながら乱れ始めたタイミングを彼女は見逃さない。


「鬼兵1番隊、3番隊! 敵に隙ができました。一気に畳み掛けて両翼を折りなさい!」


「っしゃぁ! 待ってたぜ姫さん!」「鬼の本気舐めんな!」「殺せーー!!!」

「「「「うおおおおおおおおおぉぉぉぉ————!!!!」」」」



 その号令で、待っていたと言わんばかりに合計30人ほどの鬼人達が、武器を手に戦意と殺意に満ちた雄叫びを上げながら再び駆け出していく。


「鬼兵2番隊へ通達! 敵が戦線を抜け進軍! 私に続き、各個包囲して打ち捨てなさい!」


 両翼から漏れた敵にも、自ら隊を率いて冷静に対応。

 少女の指示は極めて的確であった。


(いやぁ、優秀な現場指揮官が居てくれて助かるなぁ……。それにしても、コイツらが味方でよかったぁ……絶対雑魚だってバレないようにしないと)


 と、1人彼らの様子を後方の将軍席に腰掛けて眺めながら、張り付けた余裕の表情の裏で戦々恐々としているレオン。


「ここまでは順調……問題は群れの長ですね」


 その隣で、戦況を冷静に見極め思案する承影。

 彼が訝しむように、人狼のボスだけは他の個体と比べても頭一つ抜けていた。

 他の並個体は鬼人達でも戦えているが、ボスには手の足も出ない。その爪に薙ぎ払われ、牙で噛みつかれ、魔法もその機動力で全て躱され、ボスと戦っていた鬼人達は確実に数を減らし、突破されていた。

 これには少女も、ボスとまともにやり合わないように指示を飛ばすことしかできていなかった。


(まずいな、右翼が押され始めた)


「……承影、ピクシー、ゼンゼ。出るぞ」


「「「はっ!!(プルッ‼︎)」」」


 それを重く見たレオンが、腰を上げる。

 その指令を聞いた3人が後に続き、承影とゼンゼが前に立ち、打ち合わせ通りピクシーがレオンの纏う服の中に隠れる。


「俺たちで、あの厄介な長を討ち取る。征くぞ」


「全体へ通達! 主様が出られました。道を作りなさい!!」


 レオンたちが戦場へ駆け出したのを確認すると、少女がすかさず号令を発する。

 それを受けた各員により、レオンへ迫ろうとする人狼は悉くその試みを阻まれた。


「——大義である」


 それを横目に戦場を駆け抜けるレオンは、一言配下にそう言い残し、50mない程度の短い疾走を経て人狼のボスと会敵する。

 レオンの存在を認めたボスは、ガルルルッと喉を鳴らして油断なく3人を睨んでいる。

 5秒にも満たない、睨み合いの静寂を破ったのはレオンだった。


「人狼の長よ、一度だけ投降の機会をやろう。死にたくなかったら降伏しろ」


 嘲笑うように敵を睥睨し、己こそ上位者であると誇示するように言葉を投げかける。


「降伏だと!? 舐めるなよ小童がァ!!」


 怒り心頭の様子で激怒したボスは、大きく口を開き、そのまま咆哮。

 人狼の頂点に立つ長の咆哮は、通常の人狼のそれを凌駕する。

 開戦時の鬼達の熱狂よりもずっと強い音量で空間を揺らしたそれは、地面を扇状に抉り、立ち塞がるレオン達へ質量を伴う爆音の波動として襲い掛かった。

 レオンが咄嗟に指を鳴らせば、ピクシーが土の防壁を築き上げ、ゼンゼが身体を大きく広げて粘膜の壁と化す。

 ゼンゼの身体が凄まじい勢いで波打ち、防壁も亀裂が入り、正面に至っては砕け散っていたが、それでも多重防御のおかげで全員鼓膜を破壊されることはなかった。

 しかし、僅かな時間とは言え直撃を受けた弊害か、耳鳴りに苛まれ聴覚機能を一時的に封じられてしまう。

 殺し合いの最中に於いて、音から情報が得られないのは致命的だ。

 そしてそのチャンスを棒に振るほど、人狼のボスは愚かではない。

 続けて、立ち塞がるゼンゼを薙ぎ払うように殴り飛ばし、斬りかかった承影の刀をその大口で噛み止め、首の力で刀を奪って投げ飛ばすと、空中でスクリュー回転する勢いで承影に踵落としを決める。

 そしてその勢いのまま、およそ3m前に立つのレオンへ迫った。

 このままなら、レオンはその爪に引き裂かれ、その牙に噛み砕かれ、人狼族の勝利が確実なものになってしまうだろう。


(と、敵は慢心しているだろうな)


 しかし、聴覚を封じられるというアクシデントこそあったものの、この瞬間の状況はレオンが想定していたシーンの一つに過ぎなかった。

 突如パチンッと、乾いた音がボスの鼓膜を刺激した。

 しかし、それが何か理解する前に結果が襲いかかってくる。

 踏み締めるはずだった地面にボスの右足が腿まで深く飲み込まれたのだ。

 たちまちボスの姿勢が崩れ、身動きを取れなくなる。

 ピクシーが地属性と水属性を掛け合わせ、泥沼を生成したのだ。


「交渉決裂……ならば死ね」


 冷え切った声で、眼下の愚かな野犬を見下ろしゆっくりと右腕を胸の前まで持ち上げる。

 そして指先を前方に向けて、見せつけるようにレオンが指を掲げる。

 直後、乾いた音と同時に放たれたピクシーの魔法が、ボスの首を斬り落とし、この戦いを決定づける——




  ——はずだった。


 ————————————————————


 突然だが、1つ、地球とこの世界での常識の違いについて話をしよう。

 この世界では、聖遺物アーティファクトを行使するユーザーの極々一部や、魔族達のほとんどは、自力で傷を癒す手段を有している。

 それは、治癒魔法や薬品による肉体の活性力・再生力の強化という一般的な手法ではなく、体内で生成される魔力と、大気を満たす微細な魔力因子を吸収し、魂に記録されている自らの形を復元するというものだ。

 原理的には同じだが、魔族のそれは『再生』、ユーザーのそれは『反魂はんごん』と言われている。

 というのも、魔族には生まれつき魔力を生成し、それを扱う器官が体内に備わっているために、即死や、脳の活動能力が損なわれない限りは、呼吸をするのと同じように肉体を再生できる。しかし、人間はそうではない。

 聖遺物アーティファクトに適合できる一部の人間の中でも、特に源流である魔力とその因子を扱い、自らの失った肉体を作り直すというのは、0から1を生み出すのに等しい至難の技なのだ。


 さて、ここで話を戻そう。

 先述した通り、魔族のほとんどは『再生』が使える。

 それは必然的に、こういう事にも繋がる——


 ————————————————————


 今まさに、沼に足を取られ、首も取られようとしていた長の予期せぬ行動に、レオンは不意を突かれた。

 人狼のボスは、危険を直感すると、迷わず自らの右足を切断し、残る左足と両腕の膂力のみで、レオン目掛けて捨て身の特攻を仕掛けた。

 レオンは、魔族の『再生』を知らない。

 故に、足を斬り落として飛び込んできたボスに、不意を突かれてしまう。

 そしてそれは、この瞬間において最も犯してはいけない過ちだった。


「レオンっ! 避けろっ!!」


「死ぬのはっ、貴様だぁぁ!!」


 生命の危機に陥った獣ほど恐ろしく、また凶暴なものはない。

 止み始めた耳鳴りの隙間から、かすかに聞こえた承影の悲痛な叫びに続いて、レオンは「ぶしゅっ」と柔らかい肉が潰れる音を聞いた。

 次に喉を上がり、口から溢れ出した血を見て、痛覚を思い出す。

 ボスの伸ばした腕が、レオンの胸のど真ん中に突き刺さり、背中まで貫通したのだ。


「かっ……ふっぁ……」


(いたい、あつい、さむい、死っ——)


 直感で心臓をやられたと理解してしまった。

 血が送られず、徐々に寒くなっていくのを朦朧とした意識の中で感じる。

 そして、腕を勢いよく引き抜かれ、衝撃で前方に引っ張られるような感覚と共に、鮮血が胸から噴き出す。

 そして視界が、意識がブレるのを感じた。

 ボスがレオンを投げ飛ばしたのだ。

 そのままレオンは、大地を無造作に跳ね転がり第二部隊で現場を指揮していた少女の近くに倒れ込む。


「主様っ!!!」


 駆け寄った少女は、即座に自らの衣服の一部を裂き、レオンの傷口を塞ぐ。しかし、直径10cmほどの穴が空いてしまっており、止血は困難を極めた。

 一方、激昂した承影がボスの元へ殺到し、未だ右足の再生が終わらず、バランスを崩しかけていたボスをの首を掴んで、後方へ全力で投げ飛ばす。

 ボスは、流石に耐えきれなかったようで、必死に地に爪を立て、勢いを殺しながら6mほど後退させられた。


「レオンっ!!」


 3人の誰にもこの状況で演技を続けられる余裕はなく、未だ鮮やかな血を噴き出すレオンに駆け寄り、その傷口に手を当て少しでも血が止まることを祈る。


「医療班!」


「全隊へ通達! 各部隊敵の足止めを! 1匹たりとて通すことを許しません! 兄様、まずは傷口を塞ぎます。手伝ってください!」


「あぁっ! レオン、大丈夫だ。お前は死なない。俺たちが死なせない! 絶対に恩人を先立たせはしない! だから頼む、起きろ、起きてくれっ!」


 レオンの胸に手を当て、自身でもわからない何かに祈るように声をかける承影。

 その時——


 ————ドクンッ!!


 壊されたはずの心臓が脈打つのを、承影は感じた。


 ————————————————————


 その最初の微細な鼓動音を知覚できた者は少なかったが、その数少ない強者達は皆一様に驚愕に目を見開き、それの意味するところを理解して、ある者は歓喜を、ある者は恐怖を、ある者は喝采を、そしてまたある者は——


「さぁ、見せてくれよレオン。かつて世界を震撼させ、王冠の座へと駆け上がった『始原』の力の真価を」


 撤退を終えて帰国する軍を率いるナグモは、その鼓動にどこか期待を込めて、1人静かにほくそ笑んだ。


 ————————————————————


 一瞬、僅かに希望を見出しレオンの顔を覗き込んだ承影は、信じられないものを見た。


 光を失いつつあったレオンの瞳が、ゆっくりと光と血を吸い込んだように色彩を取り戻していく。

 それは本来の彼の碧眼のそれとは対照的な全てを焼き焦がす真紅の瞳に、本来なかったはずの黄金色の菱形模様が浮かび、瞳孔を淡く囲んでいた。

 そして、もう一度——


 ————ドクンッ!!


 翠緑色の鼓動音が、肌を通してのみならず、空気を震わせ周囲に風を発生させる。

 それは次第に強くなり、先ほどの咆哮よりも強い衝撃波となって周囲に襲いかかった。


「うっ、ぐあぁっ!!」


 それをゼロ距離で受けてしまった承影は、吹き荒れた暴風に耐えられなくなり1mほど背後へ吹き飛ばされる。

 しかし、それだけ離れても尚、鼓動音は変わらずハッキリと聞こえ続けていた。

 否、承影のみならずこの戦場にいたあらゆる生命がレオンに視線を奪われる。

 取っ組み合っていた兵達も、今まさに敵にとどめを刺そうとしていた者も、近くでレオンの手当てをしていた者達も、等しくただ吸い込まれるようにレオンに視線を奪われていた。

 そして、そんな無数の視線を一心に浴びているレオンは、ゆっくりと起き上がると自らの傷跡にそっと右手を添える。

 すると、傷口から「シュウゥゥ」と白煙が噴き上がり、10秒もしない内に傷口が完全に塞がった。

 それを見た誰もが、戦慄に支配される。

 今目の前で起こった現象は、決して彼らの常識にある『再生』などではないし、ユーザーの使う『反魂』とも違った。

 未知の力で傷を瞬間的に回復させた目の前のレオンの姿をしたそれに、誰もが純粋な恐怖を抱き、呼吸を忘れた。その瞬間、全員が同じ直感を抱いていたのだ。


 ——許可なく呼吸をしたら殺されるのではないか、と。


 一方、レオンの姿をした“それ”は、傷が塞がったのを見届けると、ゆっくりと顔を上げ、首だけを右に向け、横目に一点を睥睨する。

 視線の先には、右足の再生が終わり両の足で立ち上がった人狼のボスがいる。

 その圧倒的な存在感を前に誰1人動けない中、それでも行動を起こしたボスは勇敢であり、また愚かでもあった。


「立ち上がるならもう一度殺してやるまでだっ!! 死ねぇぇぇぇぇ!!!!!!」


 ボスは両腕を前に翳し、魔力を凝縮させる。

 それは圧縮された高密度の魔力を光条として放つという至ってシンプルながら強力な魔法だ。


「まずいっ! 避けろ! レオン!」


「お逃げくださいっ! 主様っ!!」


 鬼人兄妹の必死の叫びも、今の彼の耳には届かず。

 直後、光が爆ぜ、直線上にレオンへ襲い掛かる。

 それをレオンは、表情一つ変えずに見つめたまま、光条が自らに到達する寸前、左胸の前に翳した右手を右上に無造作に振り上げる。

 光条は、バッターに打たれた野球ボールのように進路を上空へ変えられ、雲に風穴を開けて夜空の彼方に消え去った。


「なッ……ぁッ!!?」


「うそ……だろ?」


「主様、スゴいです!」


 うおおおおおおおおおおぉぉぉぉっ————!!!!

 自らが主君と慕う男の常外な強さを目の当たりにして、多くの鬼人たちが恐怖も忘れて再び熱狂する。

 一方、それを放ったボスは信じられないものを見たとでも言うように驚愕に支配されていた。

 そして次の瞬間、その声に耳も貸さず、腕を下ろしたレオンの姿が——

 刹那の間を置いて、レオンの立っていた場所を中心に起こった激風が、再び無造作に周囲を襲う。

 レオンは消えたのではなかった。知覚できないほどの速度で動いたのだ。

 レオンの疾走を誰一人、人狼や鬼人の動体視力を持ってしても、捉えることができなかった。

 走り出したレオンが向かった先は、人狼のボスの元。

 ボスが気づいた時には、レオンは既に懐に入り込んでいた。

 接近された事実をボスが理解すると同時に、下腹部に尋常ではない衝撃と痛みを感じ、気がつけば10mほど後方に吹き飛ばされていた。

 しかし、ボスが加えられた運動エネルギーを相殺し切るよりも早く、その背中に回り込んだレオンは今度は背中を殴りつける。

 インパクトの瞬間、人狼のボスは確かに聞いた。


「おまえは、弱いな」


 と囁く声を。

 再びボスが15mほど殴り飛ばされ、戦場に帰ってきたボスの3mほど前に、汗ひとつかかず、フワリと髪を宙に躍らせるレオンが降り立つ。


「オレがっ! 弱いだと!? な、めるなァァァ!!!」


 レオンに向かい、腕を伸ばして爪を突き立てようとしたボスの右腕が、二の腕からボトリと地に落ちる。

 ボスは何をされたか理解が追いつかない様子で、腕を再生させようと試みるが一向に再生が始まらない。

 依然としてレオンはその場に悠然と立ち、眼下の哀れな獣を見下ろしているだけだ。


「きさっ、なにをっ!」


 ドボドボと血が溢れ出る傷口を抑えて、脂汗をかきながら苦悶の表情でレオンを見上げる。

 その問いにレオンは答えず、ゆっくりとボスへ向けて右腕を掲げる。


「——終わりだ」


 次の瞬間、腕と同様にボスの首が大地へ転がった。


 ————————————————————


 一連の出来事を、周囲の者達はただその場で眺めることしかできなかった。

 割って入れば死ぬことだけは確実だと、本能が警鐘を鳴らしていたのだ。

 虫を殺すように、人狼のボスを討ち取ったレオンは、真っ直ぐ承影と姫の側まで行き、不意に何かが抜け落ちたように力なく倒れ込む。


「主様っ……よかった、生きてらっしゃる」


 姫が咄嗟に抱きとめ、息があることを確認すると、安心した様子で一息ついた。


「貴様らのボスは、たった今我が主君によって討ち取られた! 貴様らに選択肢を与えよう! この場で全員死ぬか、服従し閣下に忠誠を誓うか、或いはこの場から立ち去ることも許そう! 選べ! 貴様らの未来を!」


 と、未だ動けずにいる人狼達へ向けて、承影が声高らかにそう宣言した。

 そこまでをかろうじてレオンの耳が聞き届け、そこで意識が完全に微睡へ沈んだのだった。

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