第2話
この日はずっと、学校中が浮き立っていた。
そわそわとした空気が校内に蔓延し、ちょっとしたお祭りのようだ。
ボヤ騒ぎは、それだけ刺激的な話題だった。あっという間に噂話が駆け巡り、もはや全校生徒が知っていると言っても過言ではない。
授業中も上の空で、「あれって結局何が原因だったの?」「わたし現場見てきた!」なんて生徒がはしゃぎ、先生から何度も注意されていた。
しかし、生徒がいくら憶測を重ねても、原因も詳細もわからないままだった。
教師に尋ねる生徒はいくらでもいたが、学校側からのコメントもなかった。
すべてがわかったのは、翌朝になってから。
僕が普段どおりに登校し、自分の席に座ったときだった。
「佐々木。昨日のボヤ騒ぎって、何が原因だったか知ってる?」
にやにやとした笑みを張り付けたクラスメイト、中沢くんが挨拶を省いて話し掛けてくる。
興味がある問いだが、僕は中沢くんの表情をばっちり見てしまった。
思わず笑ってしまった、という顔には、薄暗い感情が見て取れる。口元の形から察するに、何かを蔑み、見下すようなもの。目の色の光も鈍い。
身体を小刻みに揺らし、指先が落ち着きなく机を叩いている。けれど、リズムを取っていた。ストレスを感じていたが、それが解消された……、と言ったところだろうか。ざまぁみろ、といった感情も窺える。
……中沢くんの気に食わない人が関わっている。それをさして隠す様子もない。つまり、周りからも煙たがられている存在だろうか。そんな人はかなり限られる。
中沢くんは、明らかに人をバカにしたような表情をしている。愚かな人間を見下した顔。とんでもない過ちをした人を、おいおい何してんだよ、と嘲るような笑み。唇の動き。指先の動き。
さすがに、質問の答えをピンポイントで読み切ることはできない。だが、彼の表情が、動きが、こちらにヒントを与える。ヒントが多すぎれば、答えを言っているのと変わらない。そして、彼から与えられる情報はとても多かった。
それと、昨日の出来事と組み合わせると、答えは勝手に組み上がっていく。
僕はなるほど、と唸った。
五組の後藤たちが、煙草を吸っていたらしい。
「いや、知らない。原因はなんだったの?」
尋ねると、彼は鼻の穴を膨らませた。前もって考えていたのだろう。「それはな……」とわざわざ一呼吸置いてから、指を二本立てた。それを口元へ運ぶ。
僕はわざとらしくならないよう、驚きと困惑の表情を浮かべた。
「え、煙草? 煙草のせいで火事が起きたの? それってまずくない?」
……この塩梅が難しい。
中沢くんが求めているのは、僕が「知らない」という反応だ。彼は人に教えたいのだ。事実、中沢くんと話すまで、僕は出火の原因を知らなかった。
だれかにものを教えたい人には、素直に教えてもらう。いや、もらわなければならない。何でもかんでも「それ知ってる」じゃ、円滑な人間関係は築けない。
「それで、だれが吸ったんだと思う?」
中沢くんはいやらしい笑みを浮かべながら、僕に顔を近付けてくる。十中八九、後藤たちだろう。彼らくらいしか候補者がいない。
知らないふりをしようとしたところで、「五組の後藤たちだろ」と横槍が入った。
見ると、谷口くんがさして得意そうでもなく言う。中沢くんは不満げに唇を尖らせた。
「んだよ、谷口は知ってたのかよ」
「あっちこっちでその話ばっかりだからな。嫌でも耳に入るだろ」
彼は肩を竦める。
彼らの表情から話の全容は伝わりつつあったが、尋ねるのが礼儀だろう。
僕は意外そうに口を開く。
「後藤たちが美術室で煙草を吸っていて、それで火事になったって? 火の始末をちゃんとしなかったってこと?」
「そうそう。あいつら、吸殻をゴミ箱に捨てて行ったんだって。完全に火が消えてなくて、そこからボウって話だ。燃えたゴミ箱の中に、吸殻があったらしい」
中沢くんは手ぶりを交えながら、おどけて見せる。後藤たちをバカにできるのが嬉しいらしく、表情がとても明るい。
まぁ、その話はバカにされて然るべきだ。考えなしにもほどがある。
「さすがにそれはひどいね。学校で煙草を吸うだけでもおかしいけど、吸殻をゴミ箱に捨てるなんて。何も考えてなかったのかな」
適度に同意する。でも、これは本当にそう思った。
五組の後藤たち、というのは、いわゆる不良グループだ。
うちはそれなりの進学校なので、それほど気合の入った不良ではない。〝悪ぶっている〟、という表現が最も適切だろう。
先生に反抗したり、同級生に横柄な態度を取ったり、制服を着崩したり。その程度のものだ。
それでも、僕は暴力的な人がとても苦手なので、別クラスなのはありがたかったけれど。
彼らは周りを威圧し、生徒を怯えさせることもある。けれど、裏ではこうしてバカにされていた。不良としては半端者で、生徒から煙たがられている。「なんでわざわざ、こんな場所で不良をやってるの?」と場違いを責めているのだ。
もちろん直接は言わないけれど、そう思っている生徒は多い。
これだけ考えなしの人ならば、バカにされるのも仕方ないと思うけれど。
「あいつら、日頃からアホだアホだと思ってたけど、今回のはやべえよな。煙草吸ってボヤ騒ぎだなんて、もう退学じゃないか?」
「だろうな。いやぁ、せいせいするわ。あいつらっていつもイキっててさ、ダサいし鬱陶しかったしよ。学校が綺麗になってくれて、本当にありがたいね」
ふたりは冗談めかして笑っているが、それが本心なのは伝わる。
邪魔に思っていた人たちが学校から去る。こんなに嬉しいことはない、と。
口にしないだけで、その奥にはさらなる感情が眠っている。
後藤たちの行く末を楽しんでいる。
火事の原因が事実ならば、後藤たちが退学処分になるのは十分にありえる。卒業もできずに、高校から追い出されることになる。
最終学歴は中卒。仕事をしようにも、きっとまともな職業には就けない。そのまま野たれ死ぬのかな。あぁそれは今までの報いだろう。あいつらが悪い。ざまあみろ、バカな奴らだ。そのまま情けない姿を晒し続けろ。一生後悔しろよ。二度と俺たちに近付くな。
……なまじ偏差値が高い学校だからか、軽蔑の感情が異様に強い。因果応報、ざまあみろ、と笑う醜悪な声が、さっきから教室中に響いている。
教室の中は、後藤たちの話題で持ちきりだ。
表面上は取り繕っていても、人が不幸になる様を楽しんでいる。声が聞こえる。
しかも、それを「でもあいつらはそうなって当然だから」と正当化しているのが、より性質が悪い。
『あいつら、もうまともな人生送れないな。あー、スッキリするわー』
『ゴミみたいな連中だったし、ようやく清掃されるってわけね。学校から損害賠償とか請求されないのかな? 徹底的に潰してほしー』
『やけになった後藤たちが、学校を襲撃したりしないかな。それで事件になったり、ニュースになったり。もっと楽しませてほしいね』
だれもが無責任に人の人生を嗤い、不幸を喜び、もっとひどい目に遭え、と願っている。
これで済ませるな! 徹底的に潰せ! と声を張り上げている人もいる。
心の中でそう思うのは勝手だし、口にしないだけ彼らは良心的だろう。
けれど、僕には、それらがすべて伝わってしまう。
建前を取っ払った、混じりっけなしの悪意が。
そのまま流れ込んでくる。
「う……」
強い負の感情は、浴び続けるとこっちの心がやられてしまう。見ていて気持ちのいいものではない。
僕は思わず口を押さえ、声から逃げるように立ち上がった。
「ご、ごめん……。ちょっと気持ち悪くなってきた……。保健室、行ってくる」
「ん? マジ? 大丈夫か?」
「あんまり無理すんなよ」
ふたりは僕を慮る言葉を口にしたが、それが本心ではないことはわかる。むしろ話の腰を折られて、不快そうだ。
僕は人の顔を見ないようにして、保健室に向かった。
保健室には、看護教諭がひとりで座っていた。こちらの姿を確認すると、胡散臭そうな表情を作る。
「あの、すみません。気分が悪くなったので、休ませて頂きたいんですが……」
「あぁ、はいはい。ベッド使っていいよ」
そうとだけ言って、さっさと机に向き直る。
『いいねぇ、学生は。しんどくなったら、保険室で寝てりゃあいいんだから』
そんな心の声が聞こえ、内心ですみません、と謝りつつ、ベッドに横たわった。
カーテンを閉めて目を瞑り、全ての声から耳を塞ぐ。
僕がこんな体質になったのは、幼少期のトラウマが原因だ。
父親のせいだった。
僕の父は、いわゆるDV男と呼ばれるもの。ごくごく当たり前に暴力を振るい、もののついでに家族を傷付ける。あまりにもそれが自然だったので、普通の家庭には暴力がないと知ったとき、僕は不思議でならなかった。お父さんが家族を殴らなかったら、だれが殴るの? と。
非常に要領がよく、狡猾な男でもあった。
僕が彼の暴力を周りに漏らさなかったのは、彼が僕を徹底的に教育していたから。
外面、外見が完璧で、銀行に勤めていたこともあり、母は周りから「本当にいい旦那さんねえ」と嫉妬混じりに言われていた。母が弱々しい笑みを返すのも、ありふれた、見飽きた光景だった。
実際、不自由のない生活だったろう。
自由もない生活だったけれど。
外ではニコニコと愛想のいい男だったが、それが家で豹変する……、といったこともない。
ただ、笑顔で家族に暴力を振るうだけ。
家に帰ったら、「ただいま」と言うように、風呂に入るように、家族と食事をするように、ごくごく当たり前に暴力を振るうだけ。
目立たない箇所を、殴る蹴る。そういった基本も抑えながら、アレンジも多岐にわたった。腐敗したものを大量に食わされ、一晩中嘔吐していたこともあれば、延々と水を飲まされ、地上で溺れそうにもなった。
よくもまぁ、ここまで人を苦しめる方法を思いつくものだ、と感心するくらい、バリエーション豊かに僕たちを虐めた。
それは、母も僕も、均等に。平等に。
片方が何かされているときは、片方は見えない場所で隠れている。
それが暗黙の了解だった。互いに助けなど期待していない。
普段から笑顔なので感情の機微が掴めず、気付けば機嫌を損ねており、目をドライヤーで焙られたりする。
だが逆に言えば、こちらが彼の機嫌を損なわなければ、暴力は振るわれなかった。
何をやっても、やらなくても、彼は機嫌を損ねてしまうのが問題だったが。
手足を縛られて氷風呂に放り込まれたとき、僕は本気で命の危機を感じた。すべてを諦めて受け入れた母と違い、何とかしようと考えた。このままでは殺されてしまう、と感じてしまった。そこは僕が幼かったゆえの勘違いだ。彼は決して、そんなヘマはしない。
そこが分岐点だった。
暴力を振るわれたくない。
機嫌を損ねたくない。
なんとか、あの男の気持ちを読み取ろうとした。
機嫌が悪いときに近くにいれば、折檻される。しかし、機嫌がいいときに近くにいなければ、彼は機嫌を悪くして折檻される。
彼の感情を読み取って、的確な距離を保てば、もう暴力を振るわれないのではないか、と僕は判断した。
感情の読めないあの男が、何を考えているのか。読み取ろうと必死だった。命が懸かっているのだ、文字どおり死ぬ気でやった。
相手を観察し、視覚から彼が何を考えているかを一心不乱に探る。
心を読もうとした。
普通なら、「そんなことできるわけがない」と諦めるだろうが、僕はとっくにおかしくなっていたのだ。縋るものがほかになかった。
だからこそ、僕はそこに至ることができた。
できないことはなかった。
ようやく、ようやくぼんやりと心が読めるようになったのは、あの男に睾丸をハンマーで叩き潰されたあとだ。この世とは思えないほどの痛みと吐き気の中、もがいている最中に「こんな思いはもう嫌だ」と強く思ったのをよく覚えている。
ようやく立てるようになったあと、彼を見ると少しだけ心の声が聞こえた。何とかなるかもしれない、と希望が持てた瞬間だった。
しかし、心が読めるようになっても、あまり意味を為さなかった。
突然、本当に突然、父親との生活が終わったからだ。
そのときのことは、あまり覚えていない。覚えているのは、父親が逮捕されたことだけ。どういった経緯だったのかは、今も思い出せない。思い出したくもない。
母親とふたりで遠くの街に引っ越し、それから一度もあの男の話は上がらなかった。
けれど、後遺症は残った。
あれからというもの、僕は人を見れば考えを読んでしまう。心の声を聞いてしまう。目が動きを追い、その動きが感情を伝える。全く考えが読めない父親に対し、普通の人はあまりにも読みやすすぎるのだ。
ぱっと「あ」という文字が飛び込んでくれば、人は瞬時に「あれは〝あ〟という文字だ」と認識してしまうように、僕はごく普通に人の考えを読んでしまう。
僕はとっくにおかしくなっているけど、あのときに比べればそれでもよかった。
ぱちり、と目が覚めた。
保健室の硬いベッドから身を起こす。
カーテンを開けると、看護教諭の姿はもうなかった。
時計を見ると、一時間目が始まって二十分ほど経っている。少し眠ったら体調は戻った。もう大丈夫そうだ。
僕はそっと保健室から出ていく。
授業中のために、廊下は静かだ。
なんとなく足音が響くのが嫌で、僕はそろそろと歩いた。
「ん?」
どこからか声が聞こえて、僕はそちらに顔を向ける。
静寂に包まれた廊下で、それはやけに目立って聞こえた。これは怒鳴り声だろうか。男性の声が、さっきからわずかに響いている。
僕は吸い込まれるように、そちらに向かった。
音の出どころは、進路指導室だ。扉が少しだけ開いており、そこから声が漏れているらしい。僕は足音をさらに潜めた。
なんだか、事件の香りがする。その匂いに僕は強く惹かれてしまう。
僕は音を立てないよう壁に張り付き、隙間から中を覗き込んだ。
進路指導室は狭い。
そもそものスペースが小さいうえに、机、棚、ロッカー、掃除道具箱、とやけに物を詰め込んであるせいだ。妙に圧迫感を覚える場所だった。
部屋の用途を考えると、わざとなのかもしれない。
机の前に座るのは四人。片側にひとり、もう片側に三人だ。
ひとりは佐野先生だった。普段どおりのジャージ姿で、どっしりと座っている。こんな部屋で彼と相対すれば、後ろめたいことがなくても謝ってしまいそうだ。
佐野先生の向かいに座るのは、三人の男子生徒。
僕はうっかり、「あっ」と声を上げそうになった。
今校内で最も注目されている生徒、後藤だったからだ。
取り巻きのふたりも、両脇に座っている。三人とも揃ったように服を着崩し、似たようなアクセサリーを付け、べったりとワックスを付けて髪を逆立てていた。
彼らは興奮しているのか、虚勢を張っているのか、さっきから声を張り上げている。
「だから! 俺たちじゃねえよ! 知らねえっつってんだろ!」
そんな声を間近で聞いて、身体が跳ねそうになった。どうにも暴力的な空気は苦手だ。
普段は常にやる気がなく、周りを威嚇するような目の後藤だが、今は必死に訴えかけていた。机に手を乗せて、前のめりになっている。ほかのふたりも腰巾着のように「そうだよ!」「知らねえって!」と同じ言葉を繰り返した。
一方、佐野先生は腕を組んだまま、じろりと後藤たちを睨んだ。
彼らは怯み、叫ぶのをやめる。
それを見てから、佐野先生はゆっくりと言葉を並べた。
「お前らが昨日、美術室で煙草を吸ってるのを見たって言う生徒がいるんだよ。下手な言い訳なんてせずに、さっさと認めたらどうだ」
「だから知らねえって! だれだよそいつ! いい加減なこと言いやがって!」
佐野先生の言葉に激昂し、後藤は食って掛かった。
しかし、佐野先生はどん、と机を叩き、後藤を黙らせる。
そのまま、迫力のある声で怒鳴った。
「鞄の中に煙草もライターもしっかり入ってて、それでもまだ言い訳するのか! ほかの生徒だって、『後藤たちが普段から、美術室で煙草を吸ってるのを知っていた』、って何人も言いに来たぞ! そんなお前らを信じろってのか!」
その怒声は後藤とは別物で、僕は今後こそ身体を跳ねさせてしまう。もうちょっとで声が出そうだった。
その凄みに呑まれて、後藤たちは一気に大人しくなる。
そろそろと座り直し、落ち着きなく目線をきょろきょろとさせた。
僕は机に目を向ける。
そこには、煙草とライターがひとつずつ置いてあった。あれが後藤たちの鞄から出てきたらしい。……これは言い訳できない。
しかし、後藤は気弱な表情になりつつも、訴えることをやめなかった。
「た、確かに俺たちは、美術室で煙草を吸ったこともあるよ。昼休みはたまり場にしてたし、しょっちゅう吸ってた。それは認めるよ! だけど、昨日は行ってないんだって!」
「お、俺たちは昨日、昼休みになった瞬間、帰ったんだ。サボったんだよ。よく調べてくれよ。本当なんだって」
「その、昨日見た、って言ってる生徒によく確認してくれよ! そいつが見たのは俺たちじゃねえよ! 信じてくれよ!」
彼らの訴えに、佐野先生は鼻を鳴らす。
煙草をじろじろと眺めながら、興味もなさそうに呟いた。
「そんな嘘くさい話を信じろって? お前らが俺の立場だったら、どうだ? そんな言葉、信じられるか?」
「それは……。で、でも! 昨日の火事は、ゴミ箱に捨てられた吸殻が原因なんだろ?
吸殻を学校のゴミ箱に捨てるほど、俺たちはバカじゃねえよ! 普段はすぐそばの土手に捨てていくんだって! 今から確認してくれよ!」
「どっちにしろ大バカ者だよ、お前たちは。学校で煙草を吸って、土手にポイ捨てするバカを告白されてもな。吸殻もゴミ箱から見つかってる。とにかくこの件は――」
依然として、後藤たちは喧々と無実を主張していたが、取り合ってもらえなかった。
それもそうだろう。
普段から美術室で煙草を吸っている。
その証人もいる。
それは認める。
だけど、昨日だけは違う……、なんて言葉、だれだって信じない。
往生際の悪い、みっともない嘘だと思う。
「……ふむ」
僕はそっと離れる。
後藤たち三人の顔をじっくりと見た。表情の変化、身体の動作、声の熱。十分すぎる情報は、彼らの心の声を僕にきっちり届けた。
すると、とてもおかしなことになった。
どうやら、彼らは嘘を吐いていないらしい。
昨日、美術室には本当に行ってないようなのだ。
昼休み。
僕はいつものように、弁当箱を持って教室を出る。
普段なら、さっさと定位置の旧校舎屋上前踊り場まで行き、ひとりでもそもそ食べるのだが、今日は違う。
二年生の廊下を不自然にならない速度で歩き、三組の様子を窺う。
灰桐さん、いるかな。もう出たかな。
ちらりちらりと見ていると、ちょうど教室から灰桐さんが出てきた。
ぴしっと伸びた背筋、堂々とした立ち振る舞いで、静かに歩いていく。腰まで伸びた髪がさらさらと揺れて、それについ目が奪われた。彼女の歩く姿は、後ろ姿でもわかるほど綺麗だ。
僕が彼女のあとを追おうとすると、同じ教室から男子生徒が飛び出してくる。
雰囲気の軽い男子生徒で、手にパンをいくつかぶら下げていた。
彼は灰桐さんの前に回り込むと、へらへらと笑いかける。
「灰桐さんって、いっつもひとりで食ってるよね? どこで食ってんの? ひとりで食ってて寂しくねー? なんかお堅いっつーかさー、みんなと食おうとか思わねーの?」
無遠慮な物言いに肝が冷える思いだ。なんとまぁ。わざとなのか、と思うほど、彼は灰桐さんの地雷を踏み抜いている。嫌われに来たのだろうか。
彼のかるーい笑顔を見ていると、奥底にある重たい欲望がしっかり伝わってくる。聞きたくないのに、声として届いてしまう。
『マジでこいつ、いい女だよなー。前の女は軽かったし、たまにはこういう堅そうなのもいかないとね。まー、男慣れしてなさそうだし、いけるっしょ』
……嫌な声だ。本当にやめてほしい。つくづく、自分の体質を呪う。
ただ、僕じゃなくたって、彼の脂ぎった思いは伝わるだろう。ここからは見えないが、灰桐さんは彼を睨んだらしい。彼が「うっ」と怯んだ。
虚を突かれたようだが、取り繕うように彼はぺらぺらと言葉を繋げる。
「俺もついてっていい? ひとりで食うより、絶対ふたりのが旨いって。俺、話すの得意だしさ。ひとりで食ってもつまんないだろうし――」
「断言するけれど、あなたとふたりの方がつまらないから」
ぴしゃり、と彼の言葉を遮る。さらに、彼女は一睨みしたらしい。驚くほどに冷たい声色と、怖気を覚えるくらいの視線。その両方を受けて、彼は完全に動きを止めてしまった。
それ以上言葉を続けられず、立ち尽くす。
その横を、彼女は躊躇いなく過ぎて行った。
僕は彼女を追いかけるため、彼の脇を通る。「んだよっ……」と悪態をついていたが、内心では完全に怯んでいた。
うん。あれで、灰桐さんはかなり怒っている。怒った彼女から睨まれたのだから、ああなるのは仕方がない。
僕は灰桐さんを追い、旧校舎に向かった。
廊下を曲がると、彼女を見つける。ゆっくりと歩きながら、昼食をとる場所を探しているようだ。
灰桐さんは、その日の気分で気ままに食べる場所を探す。
開いている教室だったり、階段だったり、裏庭のベンチだったり、校舎の陰だったり。猫のように彷徨い、気に入ったところで腰を下ろす。
「灰桐さん」
僕は勇気を出して、彼女に声を掛けた。
すると、彼女は足を止めて、ゆっくりとこちらを向く。透き通った目が僕を射貫く。いつ見ても綺麗な人で、こうして目が合うと未だに落ち着かなくなる。さっきの男のこともあり、普段より緊張した。
「あぁ。佐々木くん」
彼女は温度を感じさせない声で、ぽつりと呟いた。表情の変化は全くなく、人形のような綺麗な顔があるだけ。
何を考えているのか、全くわからない。
――そう、わからないのだ。
彼女の心の声は聞こえない。いくら見ても、静寂を保ったままだ。一度たりとも、灰桐さんの考えを読めたことはなかった。
人と向かい合って、こんなにも静かなことなんて、普段はありえない。
灰桐さんとだけだ。
だから僕は、彼女にこれ以上ないほど惹かれてしまう。
なぜ彼女の声だけ聞こえないのか、考えてみたことはある。おそらく、僕の父親と同じで、彼女は異常に考えが読みづらいのだ。感情があまり表に出ず、動きも少ないので、情報が少ない。入ってこない。
僕の力は、偉そうに言えばコールドリーディングに近い。相手の外見や動作から、勝手に考えを読み取ってしまう。逆に言えば、そういった情報がなければ、僕の力は発揮されない。
それに加えて、普通はだいたい感情の表現が似ているものだが、彼女は特殊だ。変わっている。それでエラーを起こしているんだと思う。
父親と並べるのは申し訳ないが、あの男と同じく、彼女も特殊な人種である。
「佐々木くんは、いつもの場所でお昼?」
「あぁ、うん。そう。屋上前の、踊り場で」
「よくあんな埃っぽい場所で、ご飯を食べられるわよね」
いや、できるなら僕だって、もっと綺麗な場所で食べたいけれど。
人目が気になるのだから、仕方がない。
僕はひとりで昼食をとる姿を、人に見られたくない。周りからは間違いなくマイナスの感情を向けられるだろうし、すべて声として伝わる。それが嫌なのだ。無意味にダメージを受けたくない。
しかし、灰桐さんは違う。
「灰桐さんは、今日はどこで?」
「適当に。今から探すわ」
その言葉どおり、適当に気に入ったところで腰を下ろすのだろう。
人に見られようが、何を思われようが、関係がない。
彼女は人の評価を気にしない。
周りからどう思われようと構わない。
自分の好きなように、それこそ猫のように動くのが彼女、灰桐宮子の性質だ。
その姿は格好良く見えるものの、僕には一生真似できそうにない。
彼女は受け答えを終えると、前触れもなく背を向けた。あっ、と思う。話が終わってしまった。残念に思うものの、普段ならまぁ上出来だ。
何もなければ、彼女は素っ気ない。世間話なんてしない。むしろ、これだけ話してもらえたのだから、いい方だとさえ思う。
とても偉そうに言える立場じゃないけれど、彼女との付き合い方にはコツがある。決して、しつこくしないこと。灰桐さんのペースに合わせることを徹底すれば、少しくらいの会話は付き合ってくれるのだ。
彼女は、ひとりでいることを好む。
そこをきちんと理解すべきだ。でないと、先ほどの男子生徒のようになる。
彼女の魅力につられ、寄ってくる男はたくさん見てきた。そしてそのたび、地雷を踏んで嫌われている様も。
「灰桐さん」
なので、彼女を呼び止める行為はルール違反だ。普段なら決してやらない。これは流れで話せなかった、僕のミスだ。
案の定、足を止めた灰桐さんは面倒くさそうだった。緩慢な動作で振り返り、こちらをじっと見る。返事もない。明らかに気分を害していた。それだけで、僕の身は竦みそうになる。彼女に嫌われるなんて、考えたくもない。
だから僕は、慌ててその言葉を口にした。
「は、灰桐さん。お昼、いっしょにどうかな」
このとき、僕は異常に緊張する。
さらに一度とちったせいで、たどたどしい言い方になってしまった。
灰桐さんから表情が消える。深い色の瞳で、僕をじっと見た。
そのまま、わずかに首を傾げる。
「佐々木くんが、そう言うってことは――、退屈がまぎれる話を持ってきた、ってことよね」
僕は頷く。手土産なしで灰桐さんを誘うほど、僕は身の程知らずじゃない。
灰桐さんは満足そうに、少しだけ笑みを浮かべた。唇を少し持ち上げただけだっていうのに、このうえなく綺麗で、心が奪われる笑みだった。
「いいわ。話を聞きましょう。ここでいい?」
彼女は、すぐそばの階段を指差した。
どうやら、今日は階段でお昼ご飯を食べることになるようだ。
いくら旧校舎に人が来ないとはいえ、階段に座り込むのは迷惑だ。
だから僕たちは、三階から屋上に続く階段まで来ていた。
ここの階段を使うのは、せいぜい僕くらい。
それならいっそと、僕が普段使う場所を指定してみた。屋上前の踊り場だ。だけど、それは普通に嫌そうにされた。埃っぽいのは嫌いなのだそうだ。
階段に横並びで座る。
灰桐さんはちょこんと腰掛け、膝の上に弁当箱を乗せていた。弁当箱の包みを下に敷き、丸い形の弁当箱が並ぶ。片方はおかずで、片方がご飯。
そのサイズがとても女の子っぽく、見た目も華やかで可愛らしい。プチトマトやアスパラガス、形のいい卵焼き。ご飯の上にはふりかけが掛かっている。
灰桐さんは変わり者で人らしさに欠けるが、こうして普通のお弁当を見るとちょっとだけ安心する。
「……なに? あげないわよ」
どうやら、じっと見つめてしまったようで、彼女は怪訝そうな目を向けてきた。ただでさえ弁当箱が小さいのに、もらおうだなんて考えてもない。僕は慌てて否定し、自分の弁当箱を開いた。
灰桐さんとの距離は思った以上に近く、すぐそばに彼女の熱を感じる。それに緊張しながらも箸を動かし、頭の中で一生懸命に話を整理していた。
そして、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「灰桐さん。昨日のボヤ騒ぎ、何が原因か知ってる?」
「えぇ。その話ばかりで、うんざりするくらい。朝からずっと、その話で持ち切り」
灰桐さんは気だるげに息を吐く。
このまま話を進めてもいいが、僕は念のために尋ねた。
「どこまで聞いているか、教えてもらってもいい?」
灰桐さんは無駄なことが嫌いだ。何か言われるかも、と思ったけれど、必要な手順だとわかってくれたらしい。
彼女はブロッコリーを口に含み、しばらくしてから話し始める。
「昨日の昼休み、後藤たちが美術室で煙草を吸っていて、その吸殻をゴミ箱に捨てた。後藤たちの退出後、そのゴミ箱から出火。そして、あの火事へ至る」
どうやら、ほかの生徒と変わりはなさそうだ。僕の持つ情報を彼女は知らない。ほっと息を吐く。
これなら、問題なく話すことができる。
「うん。後藤たちは、普段から美術室で煙草を吸っていたらしい。その証言も出ている。昨日だって同じ。『後藤たちが昼休み、美術室で煙草を吸っていた』という証言が、匿名で上がってる。それで今日、偶然、後藤たちが佐野先生に問い詰められているところに出くわしたんだ」
「ふうん」
灰桐さんはさして興味もなさそうに、ご飯に箸を伸ばす。
聞いてくれているのだから、僕はそのまま話を進めた。
「そこで、後藤たちは主張していたんだ。『俺たちは、普段から美術室で煙草を吸っていた。けれど、昨日だけは美術室には行っていない』って。もちろん、佐野先生は信じなかったけど」
そこで、灰桐さんの手がぴたりと止まる。
すぅっと視線をこちらに向け、僕をじっと見た。そっと囁く。
「佐々木くん。あなた、見たのね」
「うん。見た。――どうやら、後藤たちは本当に美術室に行ってないようなんだ。彼らは本心からそう主張していた。そこに嘘はなかった。彼らは、美術室には行っていない」
「――ふうん」
先ほどと違い、少しだけ熱のある声。
彼女は手を口元に当てて、前を見据えた。
灰桐さんは、僕の体質を知っている。
人の心の声が聞こえること、感情が読み取れることを知っている。そして、灰桐さんの心だけが読めないことも。
この体質は僕にとって忌むべきものだが、何かと事件には遭遇しやすい。
僕の前ではみんな本性をむき出しにしているし、隠し事をしていることや嘘はすぐにわかる。発言が真実かどうか瞬時に見分けられる。悪事には鼻が利く。ある一点を除けば、これほど適した能力はない。
そして、灰桐さんは事件を欲していた。
自身の退屈を紛らわせてくれる、謎や事件を。
僕は、人との静謐な時間に飢えている。
顔を見合わせても一切心の声が聞こえない、静かで穏やな時間を。
僕たちは利害が一致している。
僕が事件を持ってくれば、灰桐さんは喜んでその話を聞いてくれる。
だから僕は、いつからか彼女の元に謎を運ぶようになった。
「佐々木くん。あなたが聞いた、見た話をすべてわたしに伝えてくれる?」
きちんと興味を持ってくれたらしい。ほっと安堵の息を吐く。彼女が喜ぶような謎でよかった。
僕は言われるがまま、あのとき見た話をすべて彼女に伝える。
聞き終えた灰桐さんは、前を向いたまま、しばらく黙り込んだ。
そして、独り言のようにそっと呟く。
「――気になることはふたつ。後藤たちが煙草を吸っていないなら、なぜ美術室で火が上がったのか。そして、後藤たちが行っていないなら、なぜ目撃者が現れたのか。何にせよ、そこには謎が発生している」
彼女は、ほんの少しだけ楽しそうにこう続けた。
「これは――、退屈しのぎになるかもしれないわね」
放課後。
僕は急いで教室を出る。灰桐さんに、呼び出されているからだ。
放課後の廊下は騒がしい。部活に向かう生徒や帰宅する生徒が行きかい、一番賑やかな時間帯だ。
僕は彼らの後ろにつきながら、灰桐さんとの待ち合わせ場所に向かった。
昇降口に流れる生徒たちから離れ、渡り廊下に足を踏み入れる。
旧校舎と新校舎を繋ぐ廊下は、さっきの廊下とはまるで別物だ。静けさで満たされている。なぜか、生徒の声が妙に遠く感じた。
それは、彼女の存在のせいかもしれない。
灰桐さんは壁にもたれかかり、ぼうっと窓の外を見つめていた。憂いのある表情に目が惹かれる。
灰桐さんの顔を見ても、この空間は静かなままだ。それがどうしようもなく、僕の心を揺らす。
彼女は僕に気付いていたようで、顔をぱっとこちらに向けた。「行きましょうか」と挨拶もなしに言う。
それはいいけど、どうも釈然としない。僕は急いで出て来たのに、なんで灰桐さんの方が早いのだろうか……。
疑問を心の奥に押し留め、彼女の隣に並ぶ。
そもそも僕は、なぜ呼び出されたのかよくわかっていない。
「行くって、どこに?」
「美術室。火事の現場をちゃんと見ておきたいの」
何ともアクティブだ。足取りも軽い。
普段の灰桐さんと違い、謎を追い求めるときの彼女は楽しそうだ。表情や仕草に出ないけど、代わりに行動力が増す。
灰桐さんは、今の日常が退屈で仕方がないらしい。
退屈な生活に飽き飽きしている。
それがどういった理由なのか、何が原因なのか、僕も詳しくは知らない。
ただ、彼女の欲は知れた。
退屈だからこそ、彼女は謎や事件に惹かれる。
『好奇心は猫を殺す、とは言うけれど、退屈は人を殺すわ』
彼女は時折、そんな言葉を口にする。
だから僕は、彼女の退屈しのぎに協力したい……、と思っているけれど。
「……まぁ、そうだよね」
僕と灰桐さんは、美術室の前で立ち往生する。
旧校舎二階、美術室。
『美術室』と書かれた教室札の下に、古ぼけた扉があった。スライド式の木製ドアで、いかにも使い古されている。ところどころに汚れが目立ち、扉の下部には無数の黒ずんだ染みが見えた。扉の窓は擦りガラスで、中の様子は窺えない。
その扉に、はっきりと『立ち入り禁止』と張り紙がある。
「……まぁ。ボヤとはいえ、火災が起きてるわけだしね」
僕が見た最後の光景は、溶けて変形したゴミ箱、壁に残った焼け跡、床に撒き散らされた消火剤。あのあと、どう対処したかはわからないが、しばらくは使い物にならないだろう。立ち入り禁止もやむなしだ。
「………………」
灰桐さんは扉に近付き、手を掛けた。ガタガタと建付けの悪さを主張するものの、開きはしない。当然、鍵が掛かっている。
「職員室に行っても……、鍵は貸してもらえないよね」
特別教室は、基本的に鍵が掛かっている。鍵は職員室に保管されているので、生徒は鍵を借りなければ入れない。
移動教室の際は、最初に来た生徒が取りに行くのが通例だ。
けれど、立ち入り禁止と明記されている以上、借りようとしても借りられないだろう。
「……妙よね」
黙って扉を見ていた灰桐さんが、そう呟く。
「妙って、なにが?」
「後藤たちは昼休みに、この美術室をたまり場にしていたんでしょう?」
「そう言っていたけど」
「それなら、この扉は〝開く〟はずなの」
「うん?」
灰桐さんの主張がわからず、首を傾げる。
すると、灰桐さんはこちらに向き直り、静かに続けた。
「佐々木くん。あなたが普段、美術室の扉を開けようとした場合、どうやって開ける?」
「え? ……職員室から鍵を借りてきて、開ける、けど」
「はい、正解。ぱちぱち。それなら今度は、あなたが不良になったつもりで鍵を開けてみて。たまり場にする前提でね」
「えぇ?」
何やらおかしなシミュレーションが始まった。
けれど、僕はとにかく言われたとおりに考える。
もし、僕が不良だったとして。この扉を開けようとするなら……。
「扉を蹴破る……、とか?」
「随分と乱暴な手段を取るのね、佐々木くん。この扉、あなたが不良なら蹴破れるの?」
彼女は扉に手を当てる。古いとはいえ、さすがにここを蹴破るのは無理そうだ。
それなら、手段はひとつしかない。
不良とはいえ、職員室に行って素直に借りてくるしか……。
「あ」
気が付く。
これは、無理だ。
灰桐さんがゆっくりと頷く。
「えぇ。彼らのような素行不良の生徒は、この手段を取れない。一度や二度ならまだしも、昼休みのたびに鍵を借り続けていれば、必ず先生に見咎められる。何に使うんだ、という話になる」
そうなる。というか、普通の生徒でも不審に思われそうだ。
毎回鍵を借りられるとすれば、美術部員くらいではないか。
灰桐さんは扉に目を向けながら、そっと髪に触れた。
「思うに、彼らは美術室を好んでたまり場にしたわけじゃない。たまり場にしたのは、条件が合うから。美術室がたまり場にするのに適していたから、そうした。おそらくその条件は、『出入りがしやすい』」
そうして、彼女は扉をこんこん、と指で叩いた。
「つまり、ここは鍵がなくても開けられるはず」
彼女は扉に目を向けたまま、静かな口調で続けた。
しかし、それには僕が異を唱える。
「いやいや、それは早計じゃない? 『たまり場にしやすかったから、たまり場にした』って理屈はわかるけど、それは鍵がなくても開けられる理由にはならないと思う。鍵を別の方法で手に入れて、出入りしていたのかもしれない」
僕の異論に、彼女は視線をふっとこちらに向ける。
「それなら佐々木くん。職員室から鍵を借りずに鍵を手に入れる方法、何か思いつく?」
「うーん……、合鍵を作っておく、とか」
思い付いたまま口にする。美術室の鍵も、一度や二度なら借りられる。そのときに合鍵を作っておけば、いつでも開けられる。
しかし、僕の考えは、灰桐さんの囁くような声に否定された。
「確かに、それなら開けられるでしょうね。けれど、現実的な考え方かしら。昼休みにたまり場として使うために、わざわざ合鍵を作るだなんて。割に合わないわ。万が一そうだとしても、合鍵を作るならもっといい教室もあったでしょうし」
うん。僕も自分で言ってて、ないな、と思った。
いくら何でも、たまり場欲しさにそこまではしない。労力と報酬が見合っていない。ほかにもっと綺麗な部屋があるのだから、美術室は選ばないはず、と言うのも納得だ。
ほかに何があるだろう? と思い返し、先ほど考えていたことを思い出す。
美術室の鍵を毎回借りてもおかしくないのは、美術部員だ、と。
「後藤たちに脅されて、毎回鍵を借りさせられていた美術部員がいたら、どう? 借りるのに何の問題もないし、生徒を脅すのも不良っぽい。どうだろう?」
もしかして、これが正解なんじゃないか、という昂揚感があった。
灰桐さんも僕の目をじっと見て、「いい答えね。なかなか面白いわ」と言ってくれたものだから、余計に嬉しい。
しかし、灰桐さんは「でも」と続けた。
「それなら、今回の事件で『可哀想な美術部員』の話がどこからも出ないのはおかしい。毎回鍵を借りれば人の目にも触れるでしょうし、『後藤たちが煙草を吸っていたと証言した人たち』がいるんだから、『可哀想な美術部員を知る生徒』からの証言があって然るべき。本人が黙っていたとしても」
彼女の言葉に、なるほど、と思う。納得してしまう。僕が想像するような美術部員は、存在しなかったようだ。
僕が思いつく案は消え、残ったのは灰桐さんの意見のみ。彼女の言葉を信用するなら、この扉は開けられる。らしい。
でも、どうやって?
同じように考え込んでいるのか、灰桐さんは指を口元に当てて、扉を見据えていた。
「昼休みは数十分…… 見返りはそれほどでもない……、なら、手の込んだことではないはず……。手軽で、時間が掛からず、それでいて自由に出入りができる方法……」
ぽそぽそと呟いていたかと思うと、あぁ、と声を上げた。
扉に近付き、ぺたぺたと触れる。そうしてから、小さくため息を吐いた。
「大した退屈しのぎにはならなかったわね。佐々木くん、あなたが既に答えを言っていたわ」
「え? ど、どれ?」
「答えは、〝扉を蹴破る〟よ」
灰桐さんは何のためらいもなく、足を振りかぶった。そのまま、扉の下部に向かって勢い良く振り抜く。
がんっ、という鈍い音が響いた。扉が心配になるくらい、ガタガタと揺れる。
僕は焦って、彼女のそばに駆け寄った。
「は、灰桐さん! 何してんのさ!」
いくら古いからと言って、そんな無体を働いていいわけがない。蹴破ることはないにしても、どこか壊してしまったらどうするんだ。
しかし、僕の心配をよそに、彼女は平然と扉に手を掛けた。
そのままスライドさせる。
「開いたわ」
ガタガタと不安になる音は鳴るものの、あっさりと扉が開いた。僕は唖然とする。扉を蹴っただけなのに、本当に鍵もなしに開けてしまった。
「建付けが悪くなっているせいでしょう。扉の下部に衝撃を与えると、鍵が開いてしまうみたい」
「え、えぇ……。うわ、本当に開いてる。すごいね、灰桐さん……。どうして、蹴飛ばしたら開くなんて思ったの?」
「状況証拠」
ちょいちょい、と彼女は扉の下を指差す。
そこには黒ずんだ染みがいくつもあった。彼女はそこにコツコツ、と上靴をぶつけながら、淡々と告げる。
「さっきも言ったとおり、後藤たちが昼休みのたびに使うのなら、彼らにちょうどいい条件が揃っていると思ったの。でも、『昼休みに美術室が使える』って、そこまで大きなメリットではないでしょう? それに払えるリスクや手間は、ごく小さなものだと思った」
確かに、昼休みに美術室が使えるからと言われても、それほど魅力的ではない。
独りご飯を見られたくない僕でさえ、面倒やリスクが大きければ使いはしないだろう。
話が変わってくるとすれば、それらが小さくて済む場合だ。
「だから、合鍵や『可哀想な美術部員』の線はないと思った。それに、鍵を盗んだりすることも。けれど、何かしらの工夫次第で開くのなら、使いやすい。もし、先生に不法に使っていることがバレても、せいぜい注意で済むでしょう。それを考えて、手軽な開け方を探しながら、この扉を見たの」
灰桐さんは、改めて染みを指差す。
「後藤たちは、何度もこの扉を蹴って開けていたんでしょう。ほかに開け方を知ってる人もいるのかもしれない。何度も何度も蹴られているうちに、黒ずんで変色してしまった。それを見て、わたしも開けた。それだけの話」
こともなげに言う。それだけの話なんて言うけれど、僕にはとても辿り着けない答えだ。情報が少なすぎる。
同時に、こうして簡単に答えを見つけてしまうからこそ、彼女は退屈に喘いでいるのだろうと思う。
灰桐さんが開けてしまった扉の奥に、彼女を満足させる謎があることを祈る。
灰桐さんは扉が開いた喜びに浸ることなく、そのままするりと美術室へ入っていった。僕もそのあとに続く。
「うわ……」
中に入った瞬間、思わずそんな呟きが漏れる。
美術室の中には、歪で異質なものがしっかりと残されていた。
見慣れた美術室の光景で、それの存在感は大きい。あの焼け跡だ。ゴミ箱の炎が壁を舐めまわしていたが、その黒ずみがしっかりと残っている。壁の一部分だけが変色していた。
あの出来事は現実だったんだな、と思い知る。その焼け跡があるだけで、この部屋には重い空気が漂っている気さえした。
ゴミ箱は部屋の端で横たわっていた。消火剤まみれになったせいで、元の色がわからない。薄いピンク色と焦げた黒色しか見えなかった。ところどころが熱で溶けて、ぐにゃぐにゃと変形している。
撒き散らした消火剤は拭き取られたのか、床は綺麗になっていた。特に何もない。薄汚れて見えたが、これは元々の色合いだろう。
さて。
灰桐さんを見ると、じっと観察している。普段は冷え切った眼差しも、今ばかりは少し熱があるように見えた。
僕がその綺麗な横顔に見惚れていると――。
「おいおい。立ち入り禁止って書いてあったはずなんだけどな」
第三者の声が聞こえて、身体が跳ねる。
驚きながら声の方を見ると、男子生徒がそこにいた。
椅子に腰掛け、こちらに苦笑いを向けている。部屋の隅にいたせいで、全く気付かなかった。
男子生徒の手には、筆が握られている。左手にはパレット。彼の前には、イーゼルに立てかけたキャンバスがあり、進行途中らしき絵が見えた。
そのそばには机があり、卓上に油絵具や包められた紙が転がっていた。そこからこぼれたのだろう、床には同じようなものがいくつも落ちている。どの紙にも絵具が染み込んでいた。
美術部の部長、梶木だ。
火事を消すために奮闘していた彼を、ここでまた見るとは思わなかった。
彼は制服の上にエプロンを身に着けている。すらりとした細身の身体に、目鼻がくっきりした顔立ち。髪はきちっとセットしている。目を惹く容姿と絵の才能で、女子生徒には人気があるようだが、彼の優しい笑みを見ていると納得する。
しかし、僕はどうしても深奥の感情を読み取ってしまう。
彼は、突然の闖入者に心底気を悪くしていた。「なんだこいつら」と強い怒りを抱いている。勝手に入ってきた僕らが悪いが、何もそこまで憤らなくても。
見目麗しい灰桐さんに気付き、すぐに機嫌が直るところも現金というか、なんというか。
とはいえ、間違いなく僕らが悪い。
どうやら、彼は作業中のようだ。意識すると、油絵具の臭いが鼻を刺激する。邪魔をしたのはこちらだし、僕は慌てて頭を下げた。
「す、すみません」
ここで僕たちが謝罪するのは当然だ。
しかし、灰桐さんはそうは思わなかったらしい。
冷ややかな目を梶木に向けた。
「立ち入り禁止の場所にいるのは、あなたも同じでしょう?」
その言葉に僕ははっと顔を上げる。
梶木はいたずらっぽい笑みを浮かべ、肩を竦めた。
「そういうこと。お互い、共犯ってことで黙っていてくれるかな?」
芝居がかった所作だ。彼はパレットや筆を置き、立ち上がる。そのとき、机からぽろぽろと絵具が落ちたが、彼が気にする様子はなかった。
どうも彼は灰桐さんにアピールしたいようで、わざわざこちらに寄ってくる。
軽く手を広げながら、大仰に言葉を紡いだ。
「僕は部長だからね、こういうルール違反をすべきじゃない。だけど、コンクールの〆切が近いのも事実でさ。美術部はしばらく部活動禁止って言われたんだけど、そうも言ってられないだろ? 僕の絵は、期待されているわけだし」
そこで彼は、ちらりとキャンバスに目を向けた。
どこかの山道を、女子生徒が歩いている絵だ。まだ途中なせいか、妙にのっぺりした印象を受ける。
彼は灰桐さんにしか意識していないため、僕は黙っていた。しかし、肝心の灰桐さんも何も言わない。無表情で彼の話を聞き流している。
梶木はそれを聞き入っている、と勘違いしたようだ。
さらに嬉しそうに言葉を重ねた。
「ここまで熱心なのも僕くらいなんだけどね。最近は、ずっと夜までひとりで残ってて。先生にはほどほどにしろ、なんて注意されるんだけど。昨日もつい夢中になってしまってね……」
彼はぺらぺらと機嫌よく話している。
どうも彼は、灰桐さんに「すごーい!」なんて言ってもらいたいらしい。
肝心の灰桐さんは、ただただ焼け跡に目を向けるばかりで、梶木の言葉に耳を傾ける様子はない。それどころか、不愉快そうに眉をひそめていた。
灰桐さんは明らかに気分を害している。うるさい、と思っている。それに梶木は気付かない。
あぁ勘弁してほしい。灰桐さんの機嫌を損ねるのはやめてほしい。
思わず、僕は途中で口出しをしてしまった。
「あ、あー。でも、梶木くんってすごいよね。いっつも表彰されたりしてさ」
「あぁいや。そんなことはないよ」
梶木は微笑みを浮かべる。が、内心で『なんだよ、お前。すっこんでろよ』と悪態をついていた。せっかくフォローを入れているのに。
別にそれで興味が出たわけじゃないだろうが、灰桐さんが僕に目を向けた。
「だれ」
……おおっとぉ。
今度は灰桐さんが空気を凍らせる。あそこまで、『俺のことはもちろん知ってるよな?』という空気を出していた梶木に、それはひどい。灰桐さんらしいけど。
放っておくわけにもいかず、僕はさらにフォローを重ねた。
「な、なに言ってんの。美術部の梶木くんだって。ほら、よくコンクールで入賞しててさ、始業式や終業式でもしょっちゅう表彰されてるでしょ。ポスターとか、一階の廊下にも貼ってあるし」
「……?」
僕の懸命な説明虚しく、灰桐さんは腑に落ちないようだった。
あぁこれ、本当に知らないな?
梶木は校内ではかなりの有名人なのだが、灰桐さんは覚えていないようだ。人に興味がない彼女らしいと言えばらしいけれど……。
「いやいや、僕は大したことはしてないよ。全部たまたまただから」
彼は爽やかな笑みを浮かべ、照れたように頭を掻いた。
どうも、灰桐さんの「だれ」はポーズだと思ったようで、『あぁ、なるほど。その体で気を惹く感じ?』と解釈していた。
梶木の方も、「自分のことは知っていて当然」という気持ちが強い。知らないわけがない、と思っている。自己顕示欲の塊なようで、さっきからそういう声がバンバン流れ込んでくる。
こういう人、苦手なんだよな……。
何より、灰桐さんの地雷をガンガン踏み抜きそうだ。それが一番困る。
僕はひとりでハラハラしていたが、梶木は自慢話を手仕舞いにしてくれたようだ。
そうだ、と楽しそうに扉を指差す。
「でも、驚いたよ。あの扉の開け方を知っているなんてさ。部内でも知っている人は数少ないんだけど。だれかから教えてもらったのかい」
梶木自身も、さっきの方法で出入りしているのだろう。美術部は活動停止と言っていたし、鍵は彼も借りられない。この手段を取らざるを得ないようだ。
ただ、このやり方は人に教わったものではない。
「えぇ。人から聞いたわ」
しかし、灰桐さんはさらりと嘘を吐く。多分、説明するのが面倒なんだろう。
「そっか。これをほかの人に教えるのは、できれば控えてほしいな。その人にも伝えてもらえるかな。先生方にバレて、直されるのはもったいないんだよね。何せ、便利だから」
彼は冗談めいて言っているが、内心は穏やかではない。頭の中で、だれが灰桐さんに教えたのか、犯人捜しをしている。見つけたら、ただではおかない、とも。
灰桐さんから名前を聞き出さないのは、プライドが邪魔しているらしい。
「後藤たちも知っていたのに?」
灰桐さんの言葉に、梶木の身体がぴたりと止まる。表情も徐々に失せていって、心の中で『なんであいつらの名前が』『なんでこの女は知っている?』と繰り返し始めた。
彼の動揺はずっと心の中で渦巻いていたが、表情は取り繕っている。
薄い笑みを浮かべたまま、まぁ、と小さく呟いた。
「まぁ、そうだね。一番知られたくない奴らだったんだけど。注意したかったけど、彼らのような人種は何を言っても無駄だから。それはわかるだろ?」
ほとほと困り果てた、と言わんばかりに頭を振る。
「…………?」
しかし、僕はどうにも気になった。
後藤たちに対して、彼が抱く感情は生半可なものではなかったからだ。
『あんなゴミどもの名前を、こんなところで聴くなんて。あぁ不愉快だ。思い出すだけで反吐が出る』
強い憎しみ、苛立ちを覚えている。心から見下している。
自分のテリトリーである美術室、それを後藤たちのような人種に侵されるのが、我慢ならないようだ。かといって注意もできず、屈辱とともに歯がゆい思いをしていたらしい。
梶木の心情は曇ったままだったが、表には出さないよう努めている。
「でも、わざわざここに何の用? 入部希望ってわけじゃないよね?」
梶木は冗談めかして、至極真っ当な疑問をぶつけた。
表情は変わっていないが、唇の動きが少し硬い。視線の動きも不自然だ。
どうも、後藤の名前を出したせいで警戒されているらしい。
僕は柔和な顔を意識しつつ、口を開く。
「いや、昨日ここで火事があったじゃない? 野次馬根性で恥ずかしいんだけど、どんなふうになってるか、見てみたくて」
僕の返答に、梶木は「なるほどね」と爽やかに笑って見せた。
しかし、心では『お前には聞いてないんだよ』と文句を言っていて、げんなりする。裏表がある人は、これがあるから嫌だ。僕だって好きで代弁してるんじゃないよ。
けどこういうタイプなら、いかにもやりようがある。
「まぁでも、後藤たちにも困ったもんだよね。よりによって、学校で吸わなくてもいいだろうに」
僕が呆れたように言うと、梶木はククっと笑った。
人を見下すような表情が見え隠れしている。
彼は隠しているつもりだろうけど、つつけばこうして出てきてしまう。
「本当に。吸ってることも周りにバレバレだったし……、うん、さすがにどうかと思うね。あれがなければ、僕もこんなふうにコソコソと絵を描かなくて済んだのに」
言葉の途中で一呼吸を置いた。どうも、口の滑りがよくなりすぎて、汚い言葉を使いそうになったようだ。この場には灰桐さんがいる。彼女に見栄を張って、慌てて取り繕ったらしい。
しかし、心の中では後藤たちに対する罵詈雑言が飛び交っている。
それにうんざりはするが、火事のことは聞きやすくなった。
流れに乗ったわけではないだろうけど、灰桐さんが質問を口にする。
「後藤たちがここを喫煙所代わりにしていたのを、あなたは知っていたのよね。先生にそのことを報告した人が何人もいたそうだけど、あなたもそのひとり?」
佐野先生は「お前たちが煙草を吸っていた、と何人もの生徒が言ってきた」と後藤たちに突き付けていた。
偶然、目撃する可能性が高いのは、美術室をよく使用する美術部員。それこそ、さっきの開け方をして、うっかり見てしまった……、なんてこともあったのかもしれない。
梶木はまたも大仰に「ご名答」なんて手を広げた。
「僕や、ほかの美術部員が、だね。こそこそ吸っているだけなら、目には余ったけど、好きにさせていた。けれど、今回の件はさすがにね」
苦笑いを浮かべ、彼は焼け跡に目を向ける。
後藤たちに対する、憎しみの声が強くなる。今の口調はそれほどでもないが、実際は腹立たしくて仕方ないようだ。
それを隠しながらも、梶木は話を続ける。
「もし放っておいたら、美術部に喫煙の疑いが掛かるかもしれない。そんな冤罪はごめんだ。だから、先生方に報告させてもらったってわけさ」
梶木の言葉は、理にかなっているように思う。
たとえば、僕が後藤たちの喫煙現場を見たとしても、きっと先生たちに報告はしない。バレたときが怖いし、そもそも関わり合いたくない。実害がないなら、見て見ぬふりをする。
しかし、梶木たちは見て見ぬふりができなくなった。放っておけば、自分たちに実害があるかもしれない。
だから、多少のリスクを覚悟してでも報告した。
「ふうん」
灰桐さんはそう声を上げたあと、静かに質問を重ねる。
「なら、あなたは心当たりがあるかしら。『昨日の昼休み、後藤たちが美術室で煙草を吸っていた』、と証言した人がいる。美術部員の中にいそうだけれど……、あなた、何か知らない?」
「あぁ。知ってるよ」
「え」
あっさりとした返答に、僕はつい声を上げてしまう。
何せ、この事件でそれは大きな肝だ。
後藤たちは「自分たちは昨日、美術室には行ってない」と証言したが、「昨日、後藤たちが美術室で煙草を吸っていた」という証言に阻まれた。矛盾が生じている。
後藤たちが嘘の証言をしている、と考えるのが妥当だ。
けれど、僕から見ると後藤たちは嘘を吐いていない。
この証言者が嘘を吐いているのか、何か誤解をしているのか、それとも後藤たちが思い違いをしているのか。
食い違いの理由を知るためにも、その証言者の話を聞きたい。
「それは、だれ?」
灰桐さんは静かに尋ねた。僕はにわかに緊張する。
梶木は何の躊躇いもなく、自身を指差した。
「僕だよ。僕が見たんだ。昨日、後藤たちが煙草を吸っているのを見たのは、僕だ」
「…………」
彼が、あの証言をした張本人。
灰桐さんがちらりと僕を見るのがわかった。
当然、僕は彼の顔をまじまじと見る。
あの証言は、どういうつもりで言ったのか。何を考えていたのか。僕が彼を見れば、すぐに読み取れる。
梶木の真意を測ろうと、彼を見て――。
「………………」
声が遠くなっていく。
さっきまでハッキリと聞こえた心の声に、ノイズが走り始める。
彼の動きは目で追える。しかし、感情が伝わってこない。膜が張ってあるかのように、ぼやけて聞こえ、見通せなかった。
梶木を見ていても、聞こえてくるのは雑なノイズ音のみ。
理解した。
灰桐さんも僕の表情を見て、悟ったのだろう。
特に気にせず、そのまま話を進めた。
「あなたが先生に報告したのね? 『昨日の昼休み、美術室で後藤たちが煙草を吸っていた』って。あなたが、証言したのね」
「そうだよ。なんでそんなに念押しするかな。……まさかと思うけど、君たち。後藤たちの仲間じゃないよな」
「そう見える?」
「見えないけど」
ぺらぺらと口にしたのを後悔したのか、梶木の表情がわずかに曇る。
もし今、心の声が聞こえれば、後悔で大騒ぎだったかもしれない。
安心させたいわけではないが、僕が言葉を付け足した。
「今回の火事が、どんなふうに起こったか興味あるだけだよ。退屈しのぎっていうか。こんなこと、滅多に起きないからさ」
「ふうん……、まぁそれならいいんだけどね」
まるきり信用したわけではないだろうが、梶木の表情は徐々に落ち着きを取り戻した。
気を取り直すように咳ばらいをする。
「それにしても。ははあ、意外と俗っぽいんだね」
その言葉は灰桐さんに向けられている。
下げるようなことを言ったのは、自分の優位性を保ちたいからだろうか。
そのプライドには辟易するが、灰桐さんが気にする様子はない。
さて。
どうしたものだろうか。
心の声が聞こえなくなった今、僕はほとんど戦力にならない。
かといって、灰桐さんも話術は数少ない苦手分野だ。さりげなく情報を引き出すなんて、彼女にはできない。
だが、目の前の男が、この事件の鍵を握っている。
なぜあのような証言をしたのか。
後藤たち、梶木、両名に思い違いがなければ、梶木が嘘を吐いている可能性は高い。
しかし当然、ここで「あれは嘘の証言ではないか」と尋ねることはしない。僕たちには「後藤たちが嘘を吐いていない」と証明することはできない。僕が心を読めるから、と言っても一笑に付されるだけだ。
おかしな質問をすれば、変に警戒される。
さぁ、どう訊いたものか。
僕が考えあぐねていると、灰桐さんが先に口を開いた。
それがかなりの直球だったものだから、ちょっとヒヤッとする。
「あなたは彼らの喫煙現場を見たんでしょう? どんなふうに吸っていたのか、教えてほしいのだけれど」
「まるで僕が尋問されているみたいだなぁ。むしろ、僕は被害者なんだけど」
灰桐さんの物言いに、梶木が苦笑する。灰桐さんは「気に障ったなら謝るわ」と全く申し訳なくなさそうに言った。
梶木も灰桐さんはこういう人だ、とそろそろ理解してきたのか、すんなりと話す。
「別に特別なことはなかったけどなぁ。あいつら、いつもあそこの机に腰掛けて、三人で煙草を吸ってるんだ。昨日も同じように吸ってたよ」
彼が指差す先は、一番奥の長テーブルだ。机に座るのは行儀悪く感じるが、煙草を吸っている時点で行儀も何もない。
「あなたは、それをどうやって確認したの? さっきの手法で扉を開けたら、後藤たちには気付かれるでしょう?」
後藤たちは見られたことに気付いていなかった。
しかし外からは、彼らの姿は確認できない。
梶木は扉を指差し、あっさりと答える。
「扉に擦りガラスがついてるだろ? あそこ、欠けている部分があるんだよ。そこから中が覗き込めるようになってる。後藤たちと鉢合わせすると面倒だから、いつもそこから確認してから扉を開けてる」
「…………」
念のため確認すると、確かに欠けている部分があった。顔を思い切り近付けると、中が見えるようになっている。
灰桐さんは自分の目で見てから、もう一度、梶木に問いかけた。
「あなたは一度、ここで後藤たちがいるのを確認して、引き返したってこと? そのあと、また美術室に来ていたけれど」
彼女が言っているのは、火事が起きたときのことだ。梶木が階段から上ってきて、僕たち野次馬をかき分けていった。
彼はあのとき、既に一度美術室に来ていたことになる。
梶木は指で顎を擦った。
「そうだね。あのとき、美術室に用があったから、昼休みに来た。外から確認したらあいつらが煙草を吸っていたから、あとで来よう、と引き返した。で、戻ってきたら、あの火事だ。びっくりしたよ」
苦笑して見せる。
どこまでが本当かわからないが、彼の発言におかしな箇所は見られない。変わらず、心の声はノイズで聞こえないけれど。
「吸殻をゴミ箱に捨てる場面は見た?」
「見ていたら、いくら何でも放置はしないよ」
梶木はオーバーに笑う。冗談だと思ったらしい。
「僕もあいつらも、特に変わったことはしてないけどなぁ。あいつらはいつもどおり煙草を吸ってて、僕は絡まれるのが嫌だったから、用を後回しにした。普段どおりだよ」
普段どおり。それがたまたま、運悪く火事に繋がっただけ。
彼はそう主張している。
後藤たちの証言がなければ、それでこの話は終わりになるはずだった。
「…………」
灰桐さんは、黙って焼け跡に近寄っていく。
梶木には一言もなかったので、彼は明らかにむっとした。しかし、結局は何も言わずにキャンバスに戻っていく。
僕も灰桐さんの元に向かう。
灰桐さんは、まさしく火が上がった場所にしゃがみこんでいた。床にぺたぺたと触れている。焦げ付いているのは壁とゴミ箱くらいだが、火事の現場、という感じがした。
火で焙られた壁は、炎の形に焦げ付いているので、近くで見ると迫力がある。それはぐにゃぐにゃに変形したゴミ箱も同じで、昨日見た光景がフラッシュバックする。
「この中に煙草が捨てられて、それが原因で出火した」
灰桐さんはゴミ箱を覗き込み、ぽつりと呟く。
「さすがに、中身も煙草もなくなってるわね」
彼女の言うとおり、ゴミ箱の中身は空っぽだ。中はすっかり真っ黒に変色しており、不気味な生き物が口を開けているかのようだ。
「まぁそうだろうね。この中で発火したっていうのは、間違いなさそうだけど」
僕たちは、燃えている様をこの目で見ている。
灰桐さんは「それはそうだけど」と言いながら、形の変わったゴミ箱を指でなぞった。
彼女は梶木に聞かせないためか、声を潜めた。
それどころか、内緒話をするように、こちらに顔を近付けてくる。長い黒髪がさらさらと揺れ、彼女の綺麗な顔がすぐそばにあった。
この距離は至極緊張するが、それを表に出さないように努め、彼女の言葉を待つ。
「出火原因が煙草とは限らない」
その言葉に驚いて、僕は目を見開く。しかし、すぐに首を振った。
「いや、それは疑わなくていいんじゃない? 後藤たちの煙草が原因かどうかは、現状じゃわからない。だけど、吸殻も見つかったらしいしさ。そこは確定してもいいと思うんだけど」
「わたしたちが見たのは、ゴミ箱が燃えるところまでだもの。煙草が原因で燃えたかどうかは、確定させるべきじゃないと思うわ」
「そうかな……。じゃあ、こんな場所でどうやって火が起きたっていうの?」
それこそ、昨日はほかの生徒も同じ疑問にぶつかっていた。家庭科室や理科室ならともかく、なんで美術部室で火事が? と。
僕の問いに、灰桐さんは軽く首を振る。
「それは何とも言えない。わたしはただ、確定させたくないって言っているだけ」
そういうことらしい。
僕がそこで視線に気付き、ぱっと顔を上げる。すると、梶木と目が合った。あからさまに面白くなさそうな顔だ。
未だに心の声にはノイズが走っているが、それでも表情から「なんでお前みたいな奴が」と聞こえてきそうだ。
僕みたいな奴が灰桐さんと話せているのが、不快なんだろう。梶木は灰桐さんを気に入っている。彼女の質問攻めに素直に答えたのも、好感を持ってほしかったからだ。
そう睨まないでほしい。扱いとしては五十歩百歩だろうし。
僕が彼から嫌な視線を受けていると、灰桐さんはすくっと立ち上がった。これ以上は見るべきところもない、と判断したらしい。
再び梶木に顔を向ける。
その瞬間、梶木は嘘くさい微笑みに顔を切り替えた。
「後藤たちが、吸殻は土手に捨てていた、と言っていたらしいのだけど。あなた、知ってる?」
「あぁ……。一度だけ、見たことあるな。ほら、すぐ下だよ。窓から見える。紙に包んで、放り投げてたみたいだ」
梶木が窓を指差すので、僕たちは窓際に移動する。
窓から外を見下ろした。
うちの高校の周りは田んぼが多い。校舎のすぐ近くにも水路が通っている。それによって、ちょっとした土手ができていた。
僕たちのいる旧校舎は、学校の敷地の端にある。なので、田んぼや水路、それでできた土手がここからでもよく見えた。ちょうど、犬の散歩中のおばあさんが通っていく。
土手には雑草が多く、何かが落ちていても気付きにくい。距離も近い。ここから投げれば、捨てるのは容易だろう。
ただ、よくやるなぁ、という感想が浮かんだ。
「ここまでモラルの欠けた人も珍しいわね」
灰桐さんがぼそりと呟く。僕も同意見だ。
何も考えなければ、ごみを捨てるには確かにちょうどいい。美術室で吸い終わったあと、そのまま窓から投げ捨てられる。吸殻は雑草の中にまぎれる。
後藤たちは「ゴミ箱に捨てるほど、俺たちもバカじゃない」と言っていたが、土手も十分に頭が悪いと思う。もしここで火が回れば、ボヤじゃ済まないだろうに。
そもそも、人としてダメだ。
とにかく、位置はわかった。
窓から離れ、さっきと同じ場所に戻ろうとする。
「――うわっ」
すると突然、足が滑った。
上靴がきゅっと音を鳴らしたかと思うと、急に足元が覚束なくなる。そのまま視界が後ろにひっくり返った。妙な浮遊感に焦り、慌てて手を伸ばすが、何も掴めない。
そのまま、あぁこれは転ぶ――と、覚悟したところで、視界の動きがぴたりと止まった。代わりに、背中に熱とやわらかい感触がある。
目をパチパチさせてから振り返ると、すぐそばに灰桐さんの顔があった。長い髪が僕の肩に触れている。
「何してるの、佐々木くん」
僕の顔を覗き込み、灰桐さんが問いかけてくる。
どうやら、足を滑らせた僕を彼女が抱き留めてくれたらしい。
慌てて、彼女から離れる。
「ご、ごめん灰桐さん。床が滑って……」
急いで謝るが、彼女は気にしていないようだ。「確かにここ、滑るわね」と床に上靴を這わしている。きゅっ、きゅっ、と音を立てた。
何もないところで転ぶほど、僕もどんくさくはない。なんだろう、と思って灰桐さんと同じように床を鳴らしていると、梶木の声が飛んできた。
「あぁ。そこは昨日、画溶液をこぼしたんだ。だから滑るかもしれない」
素っ気なく言い放つ。機嫌の悪さが前面に出ていた。
画溶液って、油絵具と混ぜるやつだっけ? これだけ滑るってことは、かなりの量をこぼしたんじゃないだろうか。どんくさいのは彼の方かもしれない。
それに、機嫌が悪くなられても困る。元はと言えば梶木のせいじゃないか。
「もういいかな? そろそろ、絵に集中したいんだけど」
今ので完全に気分を害したのか、それとも警戒を強くしたのか。
あからさまに追い払おうとしている。
灰桐さんは元よりそのつもりだったのか、何も言わずに扉へ向かった。
そこで慌てて、梶木は安っぽい笑みで付け加えた。
「放課後はいつもここにいるから。もし、何か訊きたいことがあれば、いつでも来てよ。それと、扉を閉めるときは――」
彼は明らかに灰桐さんだけに言っていたのに、彼女は最後まで聞かずに出て行ってしまった。
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