灰桐さんだけ聴こえない

一久けい

火のないところに

第1話

 ――人の気持ちがわかるようになりなさい。

 子供にそう諭す親は、それこそ人の気持ちがわかっていない。『人の気持ちがわかる人』の気持ちがわかっていない。

 人の気持ちがわかるようになる、というのは、悲劇だ。

 その子はもう、普通の人生を送れなくなる。

 むき出しの感情に焼かれ、蝕まれ、心はきっと擦り切れてしまう。

 他人を信用できなくなり。

 関係の構築を諦めるようになり。

 それでも集団から離れる勇気はなく、群れにいながら孤独に生きることになる。

 普通の人生だったら得られるはずの、友情や愛情はまるで別世界の出来事だ。

 人の気持ちなんて、わかってはいけない。わかるべきではない。

 だから、『人の気持ちがわかるようになりなさい』なんて言葉は、子供に言うべきじゃない。

 最初から素直に、『空気が読める人になりなさい』と言うべきだ。



 そんなことを、僕、佐々木直哉はひとり思う。

 昨夜、ニュース番組から聴こえてきたのだ。

 リビングで垂れ流されていたのをちらりと観ただけで、話の前後はわからない。

 親子がインタビューに答えている部分だけ、目に入った。

『やっぱりねぇ、人の気持ちがわかる子に育ってほしいですねえ』

 その瞬間、まじまじとその人を見てしまった。

 子供はまだ幼く、何もわからないような顔できょとんとしていた。そんな我が子を、母親は微笑ましく見つめている。

 何とも幸せそうだ。だからこそ、僕は「バカなことを」と思ってしまった。

 もし、彼女が望むように子が育ったとしよう。人の気持ちがわかる子になったとしよう。すると、その子には辛い人生しか待っていない。人の気持ちがわかるゆえに、息苦しくてやるせない人生だ。

 親が子の不幸を願ってどうする。

 僕はテレビの前で、勝手にひとりで反発していた。

 ……言うまでもなく、これは八つ当たりじみた揚げ足取りだ。

 ごくごく普通の目線で考えれば、人の気持ちがわかるのは素晴らしいことだし、親が子に願うのは自然と言える。

 僕のやっていることは、特殊な目線から「必ずしも、そうとは言えないんじゃないですか?」と横槍を入れているに過ぎない。

 しかし、偽らざる本音ではある。

 人生を楽しく過ごしたいのなら。

 こんなにも埃っぽい場所で、ひとりでお昼ご飯を食べたくなければ、そうならない方がいい。

 ここは旧校舎の最上階、そこからさらに上った場所。

 屋上前の踊り場だ。

 予備の机や椅子が積み上げられ、滅多に掃除されないせいで埃が積み重なっている。屋上に出る無機質な扉があるが、僕が知る限り、ここが開いたことはない。威嚇するように頑丈な鍵が取り付けられているからだ。

 何もない場所で、だれも近付かない。

 だからこそ、僕にとっては価値がある。

 ここならば、だれにも見られず、だれにも気を遣わず、ゆっくりと食事ができる。

 学校生活の中で、ひとりで昼食をとる生徒は嘲笑の的だ。どうしても見下される。憐れみや蔑みの対象となる。それだけは、避けたい。

 同時に、お昼休みの数十分間をだれかと過ごすのは、僕にとっては耐え難い苦痛だった。

 ひとりで過ごしたい。だけど、見られたくない。

 だから、こうして隠れている。

 机の陰に隠れ、埃に囲まれて弁当箱を開けていた。食事に適した環境とは言えない。けれど、もうすっかり慣れてしまった。

 秋はまだ過ごしやすいから、いい。夏や冬に比べれば、快適だとさえ思える。

「ごちそうさまでした」

 いつものように手を合わせ、空っぽの弁当箱を閉める。

 時間の調整も慣れたもので、これから教室に戻ればちょうどいい時間になるだろう。

 僕は弁当箱を片手に、階段を下りる。

 この行為は今まで何十回と繰り返してきて、すっかり身体に馴染んでいる。

 だからこそ、油断があった。

 昨日のテレビが尾を引いていたのか、周囲の確認を怠ってしまったのだ。階段を下りる前に、これは必ずしなくてはならないのに。横断歩道を渡る前に左右を確認するくらい、当たり前のことだったのに。

 僕が階段から下りるタイミングで、ちょうど生徒が通りかかってしまった。二人組の女子生徒だ。

 彼女らは僕を見て、明らかにぎょっとした。だれもいないと思っていた場所から、にゅっと男が現れたのだから、当然だ。

 目を見開き、びくっと腕が動く。そのまま一瞬だけ、全身の動きが固まる。ばちっと目が合うと、瞳がわずかに揺れる。眉の位置がほんの数ミリ、動いては戻った。

 けれど彼女たちは、何事もなかったように歩き出す。奥の教室へ消えていく。

「………………」

 ため息が漏れる。やってしまった、と心から思った。

 あの女子生徒たちは、僕に何かを言ったわけではない。ちょっとびっくりしただけで、露骨に嫌な顔をしたわけでも、内緒話をしたわけでもない。

 しかし、僕を見た。

 僕も見た。

 じゃあ、それだけで十分なのだ。

『うわ、何この人。こんなところでお弁当食べてるの? ひとりで? うーわ、気持ち悪。マジ無理』

『急に出てきてびっくりした……、変質者かと思った。いや、変質者か? こんな場所で独りご飯とか……、イジめられてんの? あーやだやだ。嫌なもん見ちゃった』

 そんな声が聞こえてくる。心の声だ。彼女たちが実際に口にしたわけではないが、確かに聞こえた。無言だろうが、顔に出てなかろうが関係ない。僕からすればわかりやすすぎる。

 わずかな身体の硬直、瞳の揺れ、唇の動き。眉の振動、頬のひくつき、一瞬の呼吸の乱れ。視線を戻す速度、腕の動作、ぎこちない足運び――。

 彼女たちの身体の動きが、雄弁に感情を語る。心の声を紡ぎ出す。

 驚きの奥に見えた、嘲笑や軽蔑の感情。嫌悪とわずかな恐怖心。入り混じった感情がすべて伝わってくる。

 目は口ほどに物を言う、なんて言葉があるが、とんでもない。人間に、おしゃべりじゃない箇所なんて存在しない。どの部位も声高に主張する。

 心の声に変換される。聞きたくなくても、聞こえてしまう。

「本当に油断した……」

 あんな声に晒されたくなくて、わざわざこんな場所で昼食をとっているのに。

 普段、この廊下は滅多に人が通らない。旧校舎には特別教室しかなく、特にこの三階は使われている教室も少ないからだ。

 だからって、人が通らないわけじゃないのに。注意すべきだったのに・

 再びため息を吐いていると、今度は僕の身体がビクっと動く。

 突然、聞き慣れないうえに大きな音が聞こえたからだ。

 けたたましいベルの音。

 耳障りな雑音が廊下をいっぱいに満たしている。

 なんだ? と周りを見回した。ベルは鳴り止むことなく、ずっと続いている。

「……火災報知器?」

 ジリリリリリ、と焦燥感を掻き立てる音だ。静かな廊下にいやに響く。

 これは、火災報知機の非常ベルだろうか。頭の中に、赤い円に「強く押す」と書かれたものが思い浮かぶ。

 火事?

 そう思うものの、実感は沸かない。本当に火事が起きているとは思いにくかった。どうせ火災報知器の誤作動じゃないだろうか。学校で火災だなんて、どうにも現実感がない。それならよっぽど、誤作動の方が馴染みがある。

 ベルのノイズはずっと響いているが、危機感は湧かなかった。きっとそのうち、誤作動を伝える放送が入るだろう。

 僕はいつもどおりのペースで、階段を下りていく。

 三階から二階に下りたところで、異変に気が付く。何やら騒がしい。

 二階廊下の最奥に位置する教室、その前。

 美術室の前に人だかりができていた。

 今も火災報知器は止まることなく、人だかりはざわざわと美術室を覗き込んでいる。

 何か起こっているのは明白だった。

 もしかして、これは誤作動ではないのか。本当に火事が起きているのだろうか。もしくは、それに準ずる何か。

 とにかく、事件が起こっている。

 僕は、野次馬が好きではない。事件を見る爛々とした目つき、内に秘めた昂揚感、興味本位の好奇心、無責任な煽り。彼らの心の声は、毒性が強い。気持ちがいいとは言えない。

 しかし、何かしらの事件があるなら、僕はそれを見ておきたい。

 僕自身は興味がなくても、この手の話を好む人を知っているからだ。

 僕は人だかりに近付いた。

 集まっているのは、僕と同じ二年生。見知った顔が並んでいる。彼らの手には筆記用具とスケッチブックがあるから、今から美術の授業なんだろう。

 彼らは一様に美術室を覗き込み、目を輝かせていた。口々に、「ヤバくね?」「先生呼んだ方がいいんじゃないの」「でももう火災報知器鳴ってるしさ」と騒ぎ立て、お祭りを見ているかのよう。時折、不安の表情を浮かべる人もいたが、それよりも興味や興奮が強く出ていた。

 僕はたくさんのブレザーにまぎれこみ、彼らと同じように美術室の中を見る。

 見慣れた光景だ。部屋の中は、木製の長机が等間隔に並べられ、座りづらい椅子がそれを取り囲んでいる。奥にはキャンバスが押し込まれ、棚にもたれかかっていた。

 棚の上は、バラバラの方向を向いた彫像が占拠している。雑多な印象が強く、いつもならぷぅんと絵具の臭いが漂っている。

 しかし、今は違う臭いで塗り潰されている。

 普段とは違う、明らかな異変がすべての印象を吹き飛ばす。

 火。

 火が上がっている。

 美術室の奥でごうごうと燃え上がり、容赦なく壁を黒く焦がしている。

 おかしなことに、火はゴミ箱から上がっていた。ゴミ箱の口から火が飛び出すのは、何かの冗談のような光景だった。

 ゴミ箱はプラスチックでできており、熱でどんどん変形していった。プラスチックの溶けた臭いと、焦げ臭さが入り混じり、不快な臭いを放っている。煙がもくもくとあがり、視界を徐々に灰色に染め上げていた。

 ゴミ箱は六十センチか七十センチくらいの、何の変哲もないゴミ箱だ。蓋は取り外されている。普段から美術室で見かけるゴミ箱だ。当然、今まで口から火を噴いたことはない。

 緊張感に欠ける光景だが、炎に違いはない。

 今はまだ、炎はゴミ箱の中にとどまり、勢いも壁を焦がす程度。

 しかし、ほかに燃え移ったら事だ。美術室は、燃えやすいものでいっぱいだ。

 これは間違いなく、火事だ。

 火災報知器は正常な働きをしている。

 けれど、目の前で火が上がっているというのに、不思議と危機感はなかった。焦りを抱かないのだ。放っておけば、きっと大きな火災になるというのに。

 学校の中での火事、というのに現実感を覚えないからだろうか。このまま見ていれば、いずれ消えていくのではないか、とさえ思った。

 どう考えても現実逃避だ。目の前の危険を受け止めきれず、目を逸らしているだけ。

 けれど、そんなふうに思っているのは、僕だけじゃなかった。

 周りは火事だ火事だ、やばいやばいと騒ぐものの、誰ひとり避難する気配はない。重く受け止める気はさらさらない。楽しむ感覚が圧倒的に強かった。

 ちらりと横を見ると、そこにいる人の心の声が伝ってくる。

『うわぁ、めちゃくちゃ燃えてんじゃん。これまずいんじゃないの? このまま燃えていったら、学校休みになったりするかなぁ』

 内容は実にのんきなもの。けれど、この場にいる人は大体似たり寄ったりのことを考えていた。

 この光景をただ純粋に面白がっている。本気で危機感を抱く人は、だれひとりとしていなかった。

 しかし、火の勢いが留まらないことを悟ると、わずかに焦りの色が見え始める。ひとりが焦るとさっと伝染し、興奮が緊張に変化していく。ざわめきに不安の声が混じった。

 このまま放っておけば、きっとまずいことになる。

 だれもがそう感じつつも、動けなかった。

 行動するのは勇気がいる。全員が保留の選択をしているのに、自分が最初に声を上げることに抵抗があるのだ。僕らはいつもそうだ。だれかが動いてくれれば、自分も動けるのに。そう思いながら、ただじっと待っている。

 そのときだった。

 階段から、男子生徒が勢い良く駆け上がってきたのだ。

 血相を変えて、人だかりの前に飛び出してくる。声に怒気を含ませ、こちらに駆け寄った。そのまま人だかりに突っ込む。

「どいてくれ! どけ! 邪魔だ!」

 人だかりをかき分けて、彼は美術室の中に入っていく。

 だれかが「梶木じゃん」と呟くのが聞こえた。 

 あぁ、と僕も思う。

 見覚えのある顔だと思ったが、それもそのはずだ。彼――梶木は、うちの高校では有名人だ。美術部の部長で、非常に絵が上手い。コンクールで受賞しては、始業式や終業式でしょっちゅう表彰されている。彼も二年生だ。

 僕は話したことはないけれど。

 彼の顔はよく見えなかったので、心の声は聞こえなかった。

 梶木が火元に近付くのを見て、野次馬が色めき立った。何をするつもりだ、と野次馬の気持ちが再燃し、梶木の行動を見守る。無責任に面白がっていた。

 梶木の行動は迅速だった。

 彼は燃え盛るゴミ箱を相手に、ブレザーを脱ぎながら近付いていく。そこで予想がついた。ブレザーで火元を叩き、鎮火を図るつもりだ。

 しかし、彼は炎の前に立ったにも関わらず、すぐには行動に移らなかった。身体を揺すりながら、火を見つめている。

 やはり、炎を目の当たりにすると恐怖を覚えるのだろうか。

 確かに、ここにいるだけで空気が熱い。遠く離れているのに、確かな熱を感じる。目前にすれば、より実感するだろう。それに立ち向かおうと言うのなら、なおさらだ。

 梶木は意を決したようにブレザーを火に叩きつけた。ばんばん、と音を立て、必死で腕を振るう。炎は叩かれるたびに一瞬弱くなるが、嘲笑うように一際大きくなった。

 火の勢いは止まらない。

 いくら梶木がブレザーで叩こうとも、全く意味がなかった。ますます火勢は盛り上がる。叩いた瞬間に、火の先がぐわぁっと広がり、ブレザーにちろちろと触れた。

 このままでは、彼のブレザーにも燃え移るのではないか。

 不安と興奮が、野次馬の目に宿る。

 いくら何でもあれでは無理だ。叩いて消火するには、火が強くなりすぎた。

「くそ! くそ!」

 梶木は苛立ちながらも、懸命にブレザーを叩きつけていた。

 そこに、「お前たち、そこをどきなさい!」と野太い声が割り込んでくる。

 振り返ると、強面の男性が消火器を抱えていた。体育教師の佐野先生だ。厳つく、四角い顔をした四十代の男性で、太い腕が今は頼もしい。生徒指導の担当でもあるため、声には威圧感があった。

 佐野先生の言葉に、僕たちは一斉に道を開ける。

 佐野先生は勢いよく突っ込み、未だ火に立ち向かう梶木に声を張り上げた。

「梶木! どいてろ!」

 梶木がはっとした顔で振り返る。素早く離れると、佐野先生は消火器を構えた。

 シュゴオオ、という噴射音が響く。消火器からは、薄いピンク色の煙が一気に噴き出して、ゴミ箱に絡みついた。炎は暴れていたが、覆い被さるように煙がまとわりつく。火の勢いは一気に削がれ、やがて消火剤に呑まれていった。

 あっという間に火は消えた。

 美術室の中はピンク色の煙が充満し、外にまで漂ってくる。前にいた人が、手を振って払いのける仕草をした。独特な臭いが僕の方まで届く。

 床にもくっきりと、消火剤の跡が残っていた。一部分がピンク色に染まっている。

 その中心には、炎を吐いていたゴミ箱が転がっていた。口が真っ黒に焦げ付き、歪な形へと変わっている。こちらも、消火剤がまとわりついていた。

 だが、火は消えた。

 完全に鎮火され、ほっとした空気が流れる。佐野先生の顔は強張ったままだったが、それでも肩の力は抜けていた。

 彼の横顔が見えて、心の声が聞こえてくる。

『よくわからないが、とにかく大きな火事にならなくてよかった。めちゃくちゃ焦った。大事にならなくてよかった』『なんでこんなことに。このあとの処理、絶対めんどくせえだろ。今日は早く帰りたいのに……』という、ふたつの気持ちが見て取れた。

 彼は安堵の息を吐いていたが、我に返って顔を上げる。こちらに近付き、乱暴に手を振った。

「ほら、お前ら。もうチャイム鳴るぞ。さっさと教室に戻れ!」

「せんせー、あたしたち、次美術なんですけどー」

「あー、美術の奴らも一旦待機! とにかく、教室に戻ってくれ」

 そう言われてしまえば、僕たちも戻らざるを得ない。名残惜しく踵を返す。

 野次馬は、事の鎮静化に明らかにガッカリしていていた。見ている最中は徐々に不安が大きくなっていたのに、終わってしまえば「もう終わりなのか」と不満げだ。

 彼らは、もっと大きな事件に発展するのを期待していたのだ。あくまで、自分たちに危険がない程度に。

 あーあ、もう終わりか。もっと派手にやってくれればよかったのに。学校休めるくらいにさ。つまんねー。せめて旧校舎くらい燃えてくんないと。佐野も余計なことをしてくれたよなー。だれだよ火災報知器押したやつ。

「…………」

 無責任な心の声が、さっきから飛び交っている。品のないむき出しの感情は、それなりに堪えた。

 しかし、そんな感情の中に一際大きく、だれもが疑問に思っていることがある。

『なぜ、美術室で火事が?』

 実際に、口に出している人もいる。何がどうとか意見を言っているが、正解が出てくる気配はない。

 たとえばこれが、家庭科室や理科室なら、火災の原因も想像がついた。あの場所には火種が溢れるほど存在している。

 しかし、火災が起きたのは美術室だ。

 なぜ美術室で?

 僕はそっと振り返る。

 美術室の中には、まだ梶木と佐野先生が残っていた。

 火が消えたことにより、壁に残った焼け跡がよく見えた。炎の形に黒く変色してまっている。生々しい傷跡のようだ。

 ついさっきの出来事なのに、現実感が希薄になっていく。さっきまで本当に、火が上がっていたのか。幻のようにさえ感じた。それを否定するように、火事の跡は残っているけれど。

 黒く焦げたゴミ箱の前で、梶木は立ち尽くしている。

 彼の背中に、佐野先生が「梶木、ケガはないか?」と声を掛けていた。彼の「あ、はい……」と掠れた返事は聞こえたが、彼の表情はここからでは見えない。

 僕は前に向き直る。

 後ろを向くと、ほかの人の顔がよく見えてしまう。どうしても、心の声が伝わった。これ以上、醜い感情に晒されるのが嫌で、目線を下げる。顔を見ないようにしながら、教室に戻る集団に混じった。

 なのに再び顔を上げたのは、気になる名前が聞こえたからだ。

「あれ、灰桐さんじゃん。あの人も野次馬してたのか。意外だなー」

 前の男子生徒が、小声で隣に話しかけている。彼らの目は右方に向けられていた。僕もつられて視線を動かす。

 綺麗な横顔だった。

 切れ長の目にぱっちりとした二重瞼、形のいい鼻、艶やかな唇。異様なまでに整った顔立ちだ。透き通った白い肌に視線が吸い寄せられる。長い黒髪は艶があり、腰の位置でさらさらと揺れていた。

 表情には一切感情を表さず、だれもが冷たい印象を持つだろう。ぞっとするほど綺麗、という表現がここまで似合う人はいない。

 線は細いが背は高く、長い脚はすらりとしている。黒いタイツが色っぽかった。上はブレザーを着ているが、その下にはしっかりとセーターを着込んでいる。

 彼女の名前は、灰桐(はいとう)宮子。

 彼女を見られるだけで、僕は嬉しい気持ちになる。あぁ、灰桐さんだ、と心が躍る。

 けれど、今回に限っては残念だった。

 だって、そうだろう。

 灰桐さんが見ていたなら、僕がわざわざ見なくてもよかった。わざわざ野次馬になった必要がなくなる。このあとのことを考えて、勝手にそわそわしていたのに。

 僕が肩を落としていると、男子生徒たちがひそひそと会話を続けるのが聞こえた。

「灰桐さんって何も興味なさそうな顔してっけど、こういうことには興味あんのな。案外、ゴシップ好きだったりして」

「はあ。なにお前、あの人好きなの? めちゃくちゃ美人だけどおっかないじゃん。愛想悪いしさ」

「だからいいんだろ。ちょっと俺行ってくるわ。今なら上手く話せる気がする」

 男子生徒はウキウキしながら、灰桐さんに近付く。

 そして、「灰桐さん」と無遠慮に彼女の肩を叩いた。

 僕は「ひっ」と声を上げそうになる。

 灰桐さんはゆっくりと振り返り、無感情な視線を彼に突き刺す。温度を感じさせない瞳に、男子生徒は怯んだようだ。若干の躊躇いを見せたものの、彼は引きつった笑みで軽快に口を開いた。

「灰桐さんもさっきの火事見てたの? すごかったねー、本当にびっくりした。灰桐さんはなんで……」

「あなた、だれ?」

 不快そうに、灰桐さんは眉をひそめた。

 彼女は存在感がどこか希薄で、落ち着きのある声に抑揚はない。けれど、その表情ひとつで、えも言われぬ迫力を放つ。

 率直に言って、怖い。

 だが、男子生徒は負けなかった。笑みをさらに深いものにすると、大げさな手ぶりで明るい声を出す。

「じょ、冗談きついなー、灰桐さん! 去年いっしょのクラスだったのに! 俺だよ、田中! よく話しかけてたでしょー?」

「……?」

 冗談として受け長そうとしたのに、灰桐さんはそれを許さない。

 黙って、わずかに首を傾げる。しばらく男子生徒の顔を見つめた。けれど結局、ぽつりと「わからないわ」と告げる。

 これは本当に覚えてない? そう悟った男子生徒はごにょごにょと何事か呟いたが、そこからは何もできなかった。

 灰桐さんは彼を置いて、そのまま歩いて行ってしまう。

 男子生徒は呆然と立ち尽くし、彼女を見送った。

 思わず彼の横顔を見てしまう。心の声が流れ込んできた。

『マジかよ……、俺、そんなに印象ない……? 本当に覚えてないの? 少しは脈ありだと思ってたのに……』

 僕は彼から目を逸らし、いやぁ無理でしょう……、と心の中で呟く。

 あそこまで人に興味がない人間を、僕は見たことがない。あの姿勢は彼に対してだけではない。普段からあの調子だ。

 ただ、灰桐さんがどれだけ人に興味がなくても、僕は彼女に惹かれる。目で追ってしまう。それは、彼女が花では例えられないほど美しい、というのももちろんあるけれど。

 それ以上に。

 僕にとって特別だからだ。

 灰桐さんが廊下を曲がる。

 そのとき、彼女の横顔がはっきりと見えた。

 顔を見れば、僕はその人の心の声が読める。読めてしまう。僕はそんなもの、一切見たくないっていうのに、否が応でも声が聞こえてしまう。

 今だってそう。他人の顔を見れば、どんどん声が聞こえてくる。雪崩れ込んでくる。振り返って廊下を歩く人の顔を見れば、揃いも揃って例外なく心の声が聞こえるだろう。

 けれど、灰桐さんだけは。

 どれだけ眺めていても、ずっと静寂を保っていた。

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