第31話 逃げ帰れ!

 大会本戦に、メグリは同行していなかった。

 ランには詳しく話さなかったが、急な予定が入ったらしい。


「ゴメンねゴメンね! イドちゃんとお仕事の話することになっちゃったの。放送は録画しとくから、帰ったらすぐ見るからねー!」


 と、それはそれは熱烈に抱きしめながら謝られたのが出発前のこと。

 早めに切り上げられたら途中からでも応援にくるとのことだったが、試合が終わって控え室に戻ってもメグリからのメッセージは届いていなかったので、仕事とやらはまだ片付いていないようだ。


 ……寂しい気持ちもあるが、仕方ない。

 しかし、誰も迎えに来ないというのはどういうことだろうか。


 予定ではスタジアムに長居せず、さっさと車に乗って屋敷へ帰ることになっていた。ところが、いつまで待っても運転手からの連絡が来ないのだ。

 控え室を出ると、大勢の人間が行き来しているから、一人ぼっちで出ていくのは非常に心許ないのだが……と、所在なくしていると、バーチャルキャラクターの天使が出現した。


『通話のリクエストがございます。お繋ぎしますか?』


 ようやく連絡が来たのか、と了承すると、ホログラムが天使から通話相手へと変化する。

 車の運転手――ではなく、オキに。


『ザザ……ラ、ん様。……ザザッ……緊急事態です。何者かが、貴方様を狙っております』


 老執事は固い声で告げた。

 通信が安定しておらず、ホログラムが時折オバケみたいに歪むのが不安を増幅させる。


「何者かって……もしかして、警務隊?」

『……おそらくは。申し訳ありませんが、メグリ様は助けに向かうことができません。一刻も早くお逃げください』

「う、うん。じゃあ、モルフィング……」


 モルフィングすれば空を飛べるし、壁もすり抜けられるし、肉眼で見えなくなる。

 だからデバイスを使おうとしたのだが、オキはそれを制止した。


『スタジアム内のモルフェウス・ネットワークは外界と分断されている上、強力なセキュリティがかかっています。敷地内でのイレギュラーなモルフィングは、それを行っただけで拘束される仕組みです。なので、生身のままでお逃げください。安全な方法はこちらから指示いたしますので』

「わかり、ました」


 従わないという選択肢はなかった。


 ランは指示を受けた後、控え室に直結しているエレベーターに乗り込んだ。

 瞳を閉じて言われたことを反芻しているうちに、エレベーターが動きだす。体にGがかかり、弱まって、逆方向のGを経て関係者用エントランスへと到着。ゆっくりと扉が開いて…………――


 停電ッ!


 まるで見計らったように、照明が一斉に落ちた。

 昼間とはいえ、大きな窓があるわけでもない屋内は意外なほど暗くて、試合後の選手が一喜一憂したり足早に立ち去ろうとしていたのが凍りつく。


『エレベーターが止まると電気が消えますので、その隙に脱出を』


 オキの言っていた通りだ。

 目を瞑って暗がりに慣らしておいたランは、不自由なくエントランスを縦断する。


 小さな子どもが素早く駆け抜ける気配に、誰かが驚いた声を上げた。

 それに釣られて別の女性が叫ぶ。

 するとまた別の男が苛立ったように怒鳴った。


 暗闇の中、ハチの巣をつついたように騒ぎは広がる。

 スタッフや警備員が訓練された動きで立ち回り、電源もさほど間を置かずに復旧したので怪我人などは出なかったものの、連鎖的に広がった混乱に乗じてスタジアムの外へと出た者がいることには誰も気付かなかった。


「あれオキさんがやったのかな……っとと」


 このまま外門も通過してしまおう、と思ったところで急ブレーキ。

 門の両脇に立っていた守衛らしい男。彼らと目が合った途端、悪寒が背筋を撫でたのだ。男たちはこちらを見止めるや、門の守りを放棄して向かってくる。


『門は敵が張っている可能性がございます。その場合は、塀を越えねばなりません』


 忠告されていたのに、警務隊の制服が見えないからと油断してしまった。

 歯噛みしながら、スタジアムを囲む常緑樹林へと飛び込んだ。完璧に整備された林は見通しが良く足場もすっきりしているので逃げ場としては心許ないが、多少は障害物の役目をはたしてくれるだろう。


 ランは野兎みたいに木立の間を走り抜けながら、シャツのボタンに指をかけた。


 オキ曰く、塀の高さは場所にもよるが平均すると約四メートル。スベスベに磨かれたコンクリートで、よじ登れそうな凹凸はない。さらに上部には装飾に見せかけた忍び返しが設えられており、敷地内に入ってこようとするものを鋼刃で斬り裂いてくれようと待ち構えている。

 ……が、あくまでも侵入者に向けた備えだ。

 出ていく者がいることを、想定してはいない。


「……ごめんなさいっ!」


 メグリに謝りながら、塀に向かって跳んだ。

 ゴム底のスニーカーで壁を踏み、二段ジャンプで高さを稼ぐ。まだ手は届かない――ので、脱いだシャツを放った。

 はためく白布がバサッと伸びて、忍び返しに引っかかる。外出用に、と用意してもらった上等なシャツはズタズタになるが、それを手掛かりによじ登ることで、ランは身長の三倍にもなろうかという高い塀の上にまで到達することに成功した。

 拍子に作動させてしまったのか警報が鳴り響くが、何を今さら。

 無視して向こう側に飛び降りて、ボロ布が転がるみたいな受け身を取って衝撃を殺すと、ホルダーに仕舞っていたカードを取り出して首元に当てる。


 ――モルフィング・イン。

 ――オプション発動、【隠密ステルス】。


 敷地外に出たら、即座にモルフィングする算段だった。

 現実世界と重複するようにして展開されたモルフェウスの電脳空間へと転移して、ランは改めて周囲を見回した。

 どこまでも続く高い塀と、それに平行して伸びる車道をまばらに自動車が行き交っている。敵らしい気配といえば塀の内側で喚いている守衛風の男たちだけで、危険が遠のいたような気もするが、いつ新手が現れるかわからない。

 グズグズしてはいられないが、ここからどう逃げたものか。オキは「いったん待機するように」と言っていたが……と。


 突然、目の前の空間が歪んだかと思うと、魔法のように電脳サングラスが出現した。空中に浮かんだままのそれは、メグリは愛用している物と同じデザインである。

 サングラスは電脳体らしく、仮想ボディのランでも掴むことができた。


『スゴイやない……ゴホン。お見事です、ラン様』


 ためしに着けてみたらオキの声が聞こえてきた。


『ここから先は私がナビゲーションいたしますので、【隠密】の探知阻害も合わせれば、道中で敵と遭遇する危険は低いでしょう。ただし、遠隔では関与できないトラブルもあり得ますので、ゆめゆめ油断なされませんように』


 レンズ越しに、マップが表示される。

 地図中央ではハイロースタジアムのロゴがデカデカと自己主張しており、傍にはランの顔写真を使ったアイコン。アイコンからは赤色の線が伸びて、複雑に曲がりくねった果てにGOOLの文字があった。


「あれ。ここって、屋敷じゃない?」

『いか様。屋敷の近辺は特に厳しく監視されておりますので、ひとまずはこちらのセーフハウスへ避難していただきます』

「ん……それもそっか」


 スラムでも、敵に追われている時に最も危険なのはねぐらの近くだった。

 どこへ逃げようとも、いつかはそこへ帰ってくると保証されている場所なのだから当然である。


 納得したところで。

 そこから先は、地道な工程だった。

 ルートに沿って進んでいき、オキが一時停止や迂回を指示する。その指示というのが非常に事細かなのだ。


「ラン様。その三叉路の手前で5秒待機した後、2秒以内に横断してください」

「ラン様。ビルの二階の窓枠ギリギリ上の高さを保って前進してください。赤いビルの前では可能な限り壁にくっつくように……ああ、しかし。壁をすり抜けて中へ入ってはなりませんよ」


 等々。

 パトロールしている警務官や監視カメラの位置、その他ランは気付きもしなかった脅威に至るまで、オキは事前に答えを教わっているかのように的確に、先手先手を打って進路を誘導する。

 ランも警戒を怠りはしなかったが、特に手をわずらわせることもなく、かつてスラムから逃亡するためにモルフィングした際にはさんざん苦労したのが嘘のように、平穏無事なままゴール地点にまでたどり着くことができた。

 ……できた、のだが。


「……ここ?」


 マップに示された位置にあったのは、古ぼけたマンションだった。

 歓楽街に隣接する、ホテルやらオフィスビルやら背の高い建物が無秩序に乱立している区画に紛れ込んだ五階建て。

 元は純白であったろう外壁は黒ずんでおり、退廃的な印象はランの暮らしていたスラム街の建物とよく似ている。


『二階のC番室です。誰かに見られる前に、お早く』


 近寄りがたい雰囲気を感じつつも、急かされるままランは空中からマンションの二階に入る。A、B、と印が振られたドアの三番目まで来たところで、バタンッ! と音を立ててドアが開いた。

 印を確認すると、Cと書いてあるから、ここが目的地なのだろう。

 覗いてみても中は無人で、廊下が伸びているのしか見えない。

 恐るおそる、足を踏み入れる。


【警告】【電脳環境の喪失】【仮想ボディを維持できません】【安全装置起動】――――【モルフィング・アウト】


 突然のアラート。

 デバイスが緊急停止し、ランの肉体は強制的に電脳から現実世界へと引き戻されてしまった。

 復活した重力に引かれて玄関に尻餅をつく。

 バタンッ! とドアが、開いた時と同じく勝手に閉まった。


「っ!? ……だまされた?」


 ノブを掴んでも、びくともしない。

 鍵をかけられ、モルフィングも封じられて、完全な袋のネズミであった。

 嫌な想像が脳内を駆け巡り、血の気が引いていく。


「どうしよう。に、逃げ……」

「――そう怖がらんでもええよ」


 奥から、若い女性の声がした。

 独特な訛りをしている。


「早よう入って来ぃ。ちゃーんと説明したるさかい」

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