3rd 少年とラファエル

第21話 歯磨きは勘弁

 予選を突破した選手向けのガイダンスを聞いた後、ランを乗せた車はスタジアムを出て、メグリの屋敷へと帰ることなく別の地区へと進路を向けた。


 カケン中央病院。


 体に悪いところがある、というわけではなくて、それを調べるためらしい。

 院内には警務隊が常駐しており、ランは制服姿を見かけるたびに縮こまってしまったが、襲われもしなければ殺気を受けることもなく、至極平和に検査は行われた。

 医師の問診を受け、得体の知れない器具を当てられたり機械の中に入れられたりして、全身を調べ回される。

 結果として大きな病気などはなかったものの、慢性的な栄養不足を指摘されたのは、スラム育ちならば致し方のないことだろう。その他には、予防接種の記録がなかったのでワクチンを注射されたのと、虫歯が見つかったので即日治療されることにもなった。


 試合後の半日を病院で費やして屋敷に戻り、それでランの記念すべきモルファイトデビュー初日は幕を下ろしたのだった。


   *


 スベスベとした木板の上で、ランは目を覚ました。

 体に絡みついていたタオルケットを傍らのベッドに放り上げ、うんと伸びをして窓からの朝日を浴びて、服を着替えてから部屋を後にする。

 丁寧に掃除されて塵一つ落ちていないような廊下を通り、洗面所へと入っていって、踏み台に上ると、自分専用の自動歯ブラシを手に取る。


 メグリの屋敷で寝起きするようになって、早くも四日。

 歯磨き、というのも最初は口内がスースーして落ち着かなかったが、すっかり習慣化してしまった。


「ラーンくん。おはよう」


 振動するブラシを歯に押し当てていたら、洗面所の入り口からメグリが顔を見せた。毎朝のことだが、髪のセットからメイクまでバッチリ完了していて隙がない。


「おはよ、ございます」

「ランくんってば、また床で寝たでしょう。ほっぺに痕が付いてる」

「ぁぅ……ベッドは、ふわふわしすぎで寝にくいから……」


 メグリは目聡くも頬にフローリングの痕が残っているの見つけて、指で突っついてくる。

 呆れが半分と、スキンシップを取る口実を得て愉快なのが半分といった声色であるが、ランにとっては咎められるのとどちらがマシかわからない。

 いい加減に居住まいが悪くなってきたが、今は歯を磨いている途中。逃げるに逃げられない理由があって……


「それにしても、歯磨き上手になったわね。お姉さんが仕上げしてあげなくてもいいくらいだわ」

「…………」


 感慨深げに呟くのが聞こえて、つい思い出してしまった。


 病院での検査で、軽症ながら虫歯が見つかり、その場で治療された。

 器具も技術も最先端だとかで、痛みもほとんどなく処置されたのだが、問題は屋敷に帰った後のこと。

 もう二度と虫歯なんて作らせないようにしなければ、とメグリが意気込んでしまったのだ。夕食後には買ってきた自動歯ブラシの使い方を教授されたが、不慣れで手つきが覚束ないと見るやソファに引き倒されて、そこからはある種の拷問であった。


「仕上げに磨いてあげる」と、仰向けに膝枕されて。

「ジッとして。お口を開けてくださーい」と、歯ブラシを突っ込まれ。

「こーら。そんな風に舌を動かされたら、お姉さん上手くできないわ」と、注意されたり。

「あっ、噛んじゃダメ」と、叱られてたり。


 ……なんだか、風呂で体を洗われるの以上に恥ずかしかった。


 膝枕の感触が良くないのか、それとも身動きできない状態でメグリを見上げ続けなければならないからか、あるいは口の中を弄られるという普通は起こらない経験のせいか。ランの語彙では説明できなかったが、とてつもなくイケナイことをされている気分にさせられた。

 とにかく、ああいうのは二度とゴメンだという想いで、真剣になって歯磨きを覚えたものだ。


「いつもは、いい人なんだけど……たまに、困る」


 それがランの切実な、メグリという人物の評であった。

 困るのはあくまで「たまに」だけなので、全体としてはプラスの印象の方が大きいのも、考えようによってはタチが悪いと言えるかもしれない。

 今朝もそれ以上はからかわれることもなく。

 朝食――炊きたての白米に日替わりの味噌スープ、白身の焼き魚に根菜の煮物とゴージャスな物が並んでいた――を済ませたら、二人連れ立って地下へと下りていく。


 ヒツルギ邸の地下は、“火天のウリエル”特注のトレーニングフロアになっていた。


 階段を降りると、壁に大鏡を設けた畳敷きの道場が広がっており、隣の部屋は筋トレ機具が揃ったジムがある。中でも豪勢なのは、モルフィング設備を有するコンピュータールームだ。

 屋敷のデジタル機器を一括管理していた個人用サーバーは、モルフェウス・ネットワークとは別の、独立した電脳空間を作り出せるように改造されている。これによって、外とは遮断された環境でモルファイトの訓練を行うことができるのだ。


「さあ! 大会の本選まで、あと十日よ。今日も頑張っていきましょう!」

「お、おー……」


 メグリに追従して、拳を上に挙げる。この四日でノッた方がいいことくらいは学んだが、このノリ自体はいまだによくわからない。


 ちなみに、大会のスケジュールをランが知ったのは、予選の後のガイダンスだった。

 本選開催は予選から二週間後、つまり今日から数えて残りは十日になる。何でも、会場となるハイロースタジアムで色々と準備が必要だったり、海外での予選を突破した選手が長距離移動しなければならないことを考慮して、間隔を開けているのだそうだ。


 本選は準決勝と決勝戦の二段階で、間に休息を一日挟みはするが、一日だけ。

 優勝するにしても敗退するにしても、この二週間に行う訓練で結果は決まると言っても過言ではない。


 ……間に合うのかな。

 たった二週間で何ができるのか、ランはなかなか自信を持てなかったが、メグリはいたって前向きだった。


「電脳空間での基本的な動き方を教えてきたけど、やっぱりランくんはセンスあるわね。もともとの運動神経がいいからかしら。覚えが早くて、わたしも楽しいわ」


 勝てるかどうか、なんて不安は微塵も感じさせず、毎日一緒に遊んでいるだけみたいな気楽さで道場の奥へと歩いていく。

 いつもならコンピュータールームから電脳空間へと入るのだが、今日は座学から始めるらしくプロジェクターを起動する。


「もう次のステップに進んじゃいましょう。基本動作に加えて、今日からはモルフィングオプションを使った立ち回り――特に武器についても教えていくわ 」


 と、メグリが指を鳴らしたのを合図に、ホログラムのアイコンが次々と眼前に映し出された。

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