けもの

秋永真琴

けもの

 麻耶まやさんが美術室に来るのは久しぶりだった。

「描いてる」

 嬉しそうに言って、空いている椅子を引き寄せ、俺の左横に座る。

 俺は唇をぎゅっと引き結んで、あえて麻耶さんのほうをあまり見ず、キャンバスに向かい続ける。でも、それはポーズに過ぎなかった。さっきまで絵の中にいた俺は、すでにここに戻っていて、身体の左半分で麻耶さんの存在を意識するばかりだった。

「またうまくなったわ、しんくん」

 やや低めの、ゆっくりと発せられる声が、俺の耳に染み込んでくる。

「いいわね。その空と海の境目の色とか、とてもいい」

 語尾に自然に「わ」をつける女子を、俺は十七年の人生で他に知らない。麻耶さんにはよく似合っていた。

 麻耶さんが指摘したのは、確かに自分でもよく描けたと思っていたところだ。嬉しいはずだった。なのに、喜ぶのが悔しかった。そうやって、ほしい言葉をひとつもらっただけで、これまで溜めこんできた憤りや苛立ちがたちまち蒸発してしまいそうになる。

 だから俺は、

「どうも」

 と短く応えながら、気の抜けた手数だけの筆を走らせる。

 初夏の陽射しが、放課後の美術室を白く染めている。

 俺が絵を描いている。麻耶さんがそれを見ている。

 情けなくて嫌だけど、このまま時間が止まればいいと、俺は思ってしまう。


     *


 この人と美術部で過ごした一年と少しが、俺のいままでの高校生活のすべてだ。

 部活勧誘の日に、美術室の前を通りがかったことが俺の運命を決めた。廊下に展示された巨大な絵には、竜巻のような激しい桜吹雪に埋もれそうになる、豊かな黒髪の少女が描かれていた。その凜とした横顔に、俺は目を奪われて立ち尽くしたのだ。

 

 観てくれてありがとう、嬉しいわ。新入生ですか

 

 美術室の中からあらわれた上級生の女子をひと目見て、絵に描かれているのはこの人だとわかった。描いたのもこの人自身だと直感した。

 

 自分の中にね、絵を描くために生まれてきたけものがいるの。それに気づいてしまった以上は、けものに従うしかなかったわ

 

 部活の説明が終わってからの雑談で、新入生の俺にそう断言した山田やまだ麻耶という人のそばにいるには、俺も絵を描き始めるしかなかった。

 まったくの初心者からのスタートだったけど、箸にも棒にもかからないということはなかったのは幸いだった。それはとりあえず、麻耶さんと同じ地平に立って、同じ言語で話す資格を得られることだった。

 

 わたしたちは幸福ね、けものを棲まわせることができて

 

 去年、県でもっとも権威がある学生美術展に、初めて描き上げた俺の絵が入選した。麻耶さんは特選だった。他に入選した先輩もいるのだが、


 わたしと同じけものを飼っているのは、慎くんだけだと思ってる


 そう言って、麻耶さんはふわりと微笑んだ。その声も表情も、俺はいつでも、ついさっきのことのように思い出すことができる。

 

 慎くんはきっと、わたしよりうまくなるわ

 

 そうも言われて、俺は「いや、そんな」とか何とか、締まらない返事をしたと思う。それはさすがにお世辞だ。小学生のときから絵画教室に通い、その才能を磨いてきた麻耶さんに、高校デビューの俺が追いつけるはずがない。

 でも、その夢想は甘やかだった。

 もし麻耶さんと本当に肩を並べることができたら、そのとき初めて告げられる気持ちを、俺は胸に秘めている。描け、絵を描け、と、内側から駆り立ててくるけものが俺にもいるとしたら、のことだろう。

 夢想は清らかで美しい段階では終わらなかった。

 ほとばしる妄想に突き動かされて、することをした後は、自分への嫌悪で身体が震えた。それでも、やめることはできなかった。俺のけものは麻耶さんを激しく欲していた。その心も身体も。


     *


「慎くん」

 麻耶さんが、俺の名前を呼んだ。

 手を動かしながら、俺はその後の言葉を全身で待つ。

 しかし――

「お邪魔しまぁす」

 本当に邪魔な挨拶とともにドアが開いて、俺と麻耶さんの時間は終わった。

 谷口たにぐちが、いつもの如才ない笑顔を浮かべている。

「山田、やっぱりここ! 川辺かわべくん、入っていい?」

 俺が「ダメ」と言ったらどうするんだろう、この男は。

 たぶん「えー、わかった」と言って、笑顔のまま、その場に立ち続ける気がする。僕は他人の言葉をそのまま受け止める純真な人間です、意地悪を言われても気づきませんって感じで。そういう人だと、俺はこの麻耶さんの同級生のことを思っている。

「どうぞ」

 と、俺は言った。絵を描く手は止まっていた。

「どうしたの、谷口」

 麻耶さんが谷口に訊く。

「こっちが『どうしたの』だよ。山田、なかなか自習室に戻ってこないから」

「ごめんなさい。少し顔を出すだけのつもりだったんだけど」

「見とれちゃったんだ、これに」

 俺の絵を目線で示して、谷口はにやりとする。麻耶さんも微笑んで、

「いい絵になりそうでしょう」

「うん。濃いと思う」

 面白いものや変わっているものを「濃い」と称するのは、谷口の口癖だ。俺がそんなこともわかるくらい、麻耶さんはこの男といっしょにいる。同じ予備校のクラスに通い始めてから急速に仲よくなったらしい。

「山田は本当に川辺くんが好きだね」

「ええ。好きよ」

 麻耶さんはてらいなく肯定する。

 谷口は「おぉ」と冷やかすような声を上げる。

 俺は奥歯を噛みしめて、ふたりのやりとりを黙って聞いている。何を言っても、きっと死ぬほど後悔するだろう。そんな言葉しか、俺からは出てこないだろう。

「そろそろやるよ、山田。はい立って」

「そうね」

 麻耶さんは椅子から腰を上げて、俺に済まなさそうに微笑んだ。

「じゃあ、行くわ」

「がんばってね、川辺くん。高二の夏は最後の楽園だよ」

 よくわからないことを言って、谷口は俺の肩を撫でるように叩く。

 ふたりは美術室を出て行った。

 ひとりに戻った俺は、深く息を吐いた。

 身体の中で暴れ回るけものが外へ飛び出しそうになるのを、全身に力を篭めて防いだ――そんな疲労に包まれている。それは本来、絵を描くときに持ってくるべき状態だった。今日はもう、絵の中の住人になれる気がしなかった。


     *


 麻耶さんはあっさりと受験生になってしまった。

 美大や、芸術学部がある私大は目指さず、地元の国立大学を狙うらしい。それはいい。家の事情とか、いろいろ理由はある。

 でも、三年生になって完全に休部状態になるとは思わなかった。

 いい絵を描くのは片手間でできることではないけれど、それでも、運動部や吹奏楽部などの活動に比べれば、受験勉強との両立は可能ではないか。

「描いてください」と、俺はお願いしたのだ。

 俺をここまで連れてきた人に――俺が勝手についてきただけと言われたらそれまでだけど――離れられたら困る。同じところにいてほしかった。そのために、俺はここまで来たのだ。


 ごめんね。顔は出すから。慎くんのこと、応援してるわ


 そんな言葉を聞きたいのではなかった。だから俺はつい、言ってしまった。

「けものから逃げるんですか」と。

 怒られるならよかった。嫌われるなら、つらいけど納得はできた。

 でも、麻耶さんは大きく目を見ひらいて、しばらく凍りついたように動きを止め、やがて絞り出すように、


 そうなのかな


 と言った。

 

 うん――そうかもしれないわね


 麻耶さんは透明な微笑みを浮かべた。いや、それは透明じゃなく、虚無だったのかもしれない。とてもきれいな虚無だった。

 俺は致命的な失敗を犯したような気がした。


     *

 

 一生描き続けるのなら、高三の一年間くらい筆を置いても問題ない――そんな考え方もあるだろう。でも、俺はなんとなくわかってしまった。

 麻耶さんはもう戻ってこない。

 あの人のけものは、ふいに寿命を迎えたのだ。

 麻耶さんがそれをわかってしまったことを、俺はわかってしまったのだった。

 俺は、キャンバスをに目をやった。

 この絵はもうじき完成するだろう。そのとき、俺のけものは、麻耶さんのけものの後を追って滅びるのだろうか。それとも。

 どちらを望んでいるのか、それは俺自身にもわからない。

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けもの 秋永真琴 @makoto_akinaga

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