第12話
朝、じゅんが起きた時にはりんはすでに動いていた。じゅんはりんの夜具に手を入れてみたけれど、そこにぬくもりはなかった。冷えた夜具だ。りんは一体どれくらい寝たというのだろう。
「姉さん、おはよう」
「おはよう、おじゅん」
にこやかに振り返るりんの目は赤い。それほど休んだようには見えなかった。
「ねえ、今日からあたしが一人で売りに行くわ。姉さんはその間に休んで」
起き上がりながら言うと、りんは驚いて目を瞬かせた。
「でも、おじゅん一人じゃ大変でしょう?」
「作って売って、姉さんの方が大変よ。それに、姉さんの手を空けないと品物が作れないでしょう? もっと数を売りたいなら、二人が別に動くしかないわ」
いずれはそれも考えていた。しかし、まだ早いとりんは思うのかもしれない。
じゅんが頼りないから心配なのだろう。
「私なら大丈夫よ?」
困ったように眉を下げてしまうりんに、じゅんはもどかしい気持ちを抱えた。
「姉さん、あたし、ちゃんとできるわ。もっと信じて任せてよ」
りんの負担を軽くしたい。そのためにじゅんが今できることはこれだけなのだ。
じゅんが強く言ったから、りんは渋々折れた。
「わかったわ。でも、一緒に行って先に帰るってことでいいかしら? 屋台を動かすのは二人がかりの方がいいでしょう? 帰りも迎えに行くから」
それでも、ずっと立ちっぱなしでいるよりは休めるだろう。じゅんはそれで納得した。
「うん。でも、行きだけでいいわ。帰りは売れて商品もなくなっているから、屋台を引くのに気を遣わないし」
「でも――」
「平気よ。それよりも姉さん、ちゃんと家で休んで、無理しちゃ駄目よ」
そう言うと、りんは苦笑した。じゅんのことはとことん心配するくせに、りんは自分のことには無頓着だ。そんなに丈夫ではないのに。
じゅんに任せておけば安心だと、りんに思ってもらえるようになりたかった。
二人でいつものように屋台を引き、広小路に着く。この時、勘助が天麩羅を揚げながら目配せしてきた。何事かと思うと、女の子と母親がいた。それは昨日、花咲饅頭を買ってくれた親子だ。
「ああ、来た来たっ」
女の子が嬉しそうに母親の袖を引く。母親は笑顔で姉妹に問いかけてきた。
「昨日のお饅頭が綺麗で美味しかったから、今日も買いに来たのよ。あるかしら?」
「ありがとうございますっ」
じゅんは力いっぱい頭を下げ、りんは屋台の被せを外しにかかる。
「ただいまご用意しますね」
台の上に並んだ花咲饅頭は、それこそ満開であった。母娘は嬉しそうに笑みを零す。
「じゃあ、六つくださいな」
「はい、ありがとうございます」
六つの饅頭を竹皮に包んで渡すと、女の子がそれを大事そうに受け取る。頬を染め、饅頭を抱き絞めそうな勢いだったので、母親がそっと言う。
「お饅頭が潰れないように持ってね」
「うんっ」
母親は姉妹に軽く頭を下げてから女の子を連れて帰っていく。その姿を見送ると、じゅんは胸がぽかぽかとあたたかくなった。
「あんなに喜んでもらえてよかったわね、姉さん」
「ええ。嬉しいわね」
客の声を直に聞けるのは嬉しい。こういうことがあると、りんもたまには見世に立ちたいと思うだろうか。
その後、りんは早めに帰ると言っていたわりには長くいた。客がちらほらと来ていたから、それを放って帰りづらかったのだ。一時(約二時間)ほどしてようやく帰る。
「おりんちゃんが先に帰るたぁ珍しいな」
勘助にそんなことを言われた。
「なぁに、勘助さんはあたしだけじゃ不満なのかしら?」
「いやいや、おじゅんちゃんみてぇな別嬪さん相手に不満なんてあるわけねぇじゃねぇか。おりんちゃんは仕込みに帰ったのかい?」
などと勘助はおどけるが、本音を言うとりんがいなくて寂しいのはじゅんの方だ。いつでも一緒の姉妹が離れている。心細いなんて、りんには言いたくないけれど。
「そうよ。姉さんはすぐに根を詰めるから、無理にでも帰さないとちっとも休まないし」
「そういや、ちょいと疲れた顔をしていたかもな」
勘助にまでそう見えるのなら、やはり疲れは溜まっている。見世に立たないようにしてよかったはずなのだ。寂しくとも、心細くとも、そこはりんのためにじゅんが頑張るところだ。
じゅんは、よし、と声に出して気合を入れると、高らかに呼び込みを始めた。
「美味しいお饅頭はいかがですかっ。ここでしか買えない、可愛らしい花の咲いたお饅頭ですよっ」
りんがいない分、じゅんの負担も大きい。たくさん売りたいと欲張るせいもある。いつもよりも一時粘った。時の鐘が聞こえないふりをした。隣の勘助は半時(約一時間)前に見世仕舞いをして帰っている。それでも、じゅんは全部売りきってりんを安心させたかった。これなら大丈夫だと、りんが体を休めてくれるように。
今日も花咲饅頭の方が先に売り切れた。田楽があと少し、五本残っている。せめてあと二本は売れたら帰ろうかと思った矢先、夕暮れ時にのっそりと平太郎が現れた。
「お前な、いつまで突っ立ってんだよ? 今に暮れ六つ(午後六時頃)だぞ。柄の悪ぃのだって出てくるような時に、女一人ぼうっとしやがって、馬鹿かお前は」
朝から働き詰めのじゅんが、どうしてこの遊び人に小言を言われなくてはならないのか。腹立たしいを通り越して相手をする気にもなれなかった。ぷい、とそっぽを向くと、平太郎は屋台の裏側に回り込んできた。
「何よ、邪魔しに来たの?」
「俺はそんなに暇じゃねぇよ」
そうだろうか。こんなところまで来るのだから暇だろうに。言い返してやろうとしたら、平太郎は屋台の上の田楽に目をやった。
「これが売れるまで帰らねぇつもりか?」
「そうよ。あと少しだもの」
また馬鹿だとでも言われるかと、じゅんは身構えた。しかし、平太郎は軽く息を吐くとじゅんに顔を向けないままで呟いた。
「じゃあ、俺が買ってやる。帰るぞ」
「え?」
「おりん姉ちゃんが、今日からおじゅんが一人で見世に立つことになったんだって心配してたぞ。それなのに、お前の帰りが遅かったら気が気じゃねぇ。そこんとこ、わかってんのか?」
平太郎の言うことは、悔しいけれど正しかった。平太郎のくせに。
じゅんは何も言えず、グッと言葉に詰まる。
りんの性格からして、家ではらはらとじゅんの心配をしていたことだろう。売り切りたいからといって、いつまでも帰らなかったら、りんの心労は増すばかりなのだ。それではりんを休ませたとは言えない。
「――買わなくていい。わかったわ、帰る」
売れなかったのは残念だが、仕方ない。前は徳次が売れ残った饅頭を買ってくれた。今度は平太郎だ。売れなかったからといって知り合いに助けてもらうばかりではいけない。毎回こんなことはしていられないのだから。
じゅんが呟くと、平太郎はおもむろに台の上の田楽に手を伸ばし、竹串をつまんで大口を開け、ひと口でぱくりと田楽を食べた。
「あっ」
柔らかい豆腐だから、すぐに咀嚼して呑み込む。そうして、平太郎はにやりと笑った。
「うん、美味い。おりん姉ちゃんは料理上手だからな。おじゅんと違って」
「ひと言余計なのよ」
いちいち突っかかる男だ。しかし、りんの田楽を褒められたのは嬉しい。
平太郎はその調子で三串の田楽を食べた。その上で無理やり銭を払う。
「あと二本は持って帰るからな」
「――ありがと」
いくら平太郎が相手でも、世話になったのだから礼を言う。ただ、普段が憎まれ口ばかりなので、素直に言うのは照れ臭かったし、言われた平太郎も唖然とした。その顔がまた癪だ。平太郎があんまりにも呆けるから、じゅんはムッとした。
「何よ」
「いやに素直だから驚いた」
足を踏んでやろうかと思ったが、そこは耐えた。せっかく礼を言ったのに、損をした気分である。ふくれっ面で片づけを始めると、平太郎が手を出してきた。
「手伝ってやる」
「要らないわ」
「そう怒んなよ」
じゅんは手を止め、平太郎に顔を向けた。平太郎は動きを止める。
「怒ってるわけじゃないわ。これはあたしの仕事、あたしがやることなの。毎日来るわけじゃないあんたをあてになんてしないわ。あんたはあんたの仕事をしなさいよ」
いつまでもふらふらと遊んでいる場合ではないはずなのだ。平太郎は跡取りなのだから、学ぶべきことは多くある。たまにこうして気まぐれで手助けをしてくれたとしても、それを頼りにはしたくない。
「じゃあ、毎日来てやろうか?」
「要らないって言ってるでしょ」
「素直になったかと思えば、そうでもねぇなぁ」
ため息交じりにぼやかれた。
平太郎は、善意に対してじゅんが思った以上に感謝してくれていないと感じただろうか。けれど、平太郎に手伝った分の報酬を支払うわけでもないのに甘えるのはおかしい。これはじゅんが一人でこなさなくてはならないことだ。
平太郎に手伝ってもらっていたのではりんが納得しない。自分が出ると言い出してまた同じことの繰り返しになる。
でもさ、と言って平太郎は少しだけ真面目な顔をした。
「今日だけは遅くなったから手伝わせろ。明日からは手を出さねぇから。お前も遅くならねぇようにちゃんと帰れ」
幼馴染の間柄だから気心が知れていて、つい本音をぶつけてしまうけれど、こうして落ち着いて返されると何も言えなくなる。
遊び歩いている平太郎だと思うから反発もしてしまうけれど、時にはじゅんが言い返せないほど真っ当なことを言う時もある。
今日はじゅんの方が旗色が悪い。うん、と小さく呟いた。
結局、平太郎が屋台を引くのを手伝ってくれて長屋に帰った。しかし、平太郎はりんに顔を見せることなく、気づけば背中を向けて遠ざかっていた。手にはしっかりと残りの田楽を持っている。
その背中を見ると、平太郎なりに心配して来てくれたのに、あまりに可愛げがなかったかもしれないという気がして、じゅんも少し反省した。
「ただいま、姉さん」
戸を開けながらじゅんが言うと、りんはサッと立ち上がって迎え入れてくれた。
「おかえりなさい。こんなに遅くまでお疲れ様。疲れたでしょう? ねえ、平太郎さんに会わなかった?」
「会ったわよ。姉さんを心配させるなって、さっさと帰れって言われたわ」
じゅんが売り上げの銭を手渡しながら苦虫を嚙み潰したような顔をしたせいか、りんが軽くそれを咎めるような目をした。
「おじゅんの帰りが遅くて心配だったのが平太郎さんにも伝わったの。平太郎さんもおじゅんのことを心配して様子を見に行ってくれたんだからね」
「わかってる。田楽も買ってくれたし」
わかっていると言うわりには可愛げがないとでも思っただろうか。りんは苦笑するが、とりあえずそれ以上うるさく言わなかった。
「じゃあ、夕餉にしましょう」
箱膳の上には鯵の塩焼き、金平牛蒡が載っている。
「このところ、忙しくてご飯もあり合わせだったから、今日はちゃんと作ったわ」
そんなことを言いながら、りんは竈にある鍋から味噌汁をよそう。じゅんは戸を閉めながら苦笑した。
「姉さん、ちゃんと休んだの? 無理しちゃ駄目って言うのに」
すると、りんは手を止めて微笑んだ。
「大丈夫。ゆっくりさせてもらったから」
「そう? それならいいけど」
りんが用意してくれた夕餉の膳を食べつつ、じゅんは今日の出来事をりんに話す。りんはにこやかに、うんうん、とうなずきながら聞いてくれた。
「前は田楽の方が売れていたのに、今はお饅頭の方がよく売れるの。味は同じなのに少しの工夫で随分と違うものね」
他所にはないというのが大きいのだ。どこにでもある饅頭を作っていて、それで目を留めてもらうのは難しい。特徴を出して、ここでしか買えないと思われなければ、客はわざわざ富屋を選んではくれないのだ。
「そうねぇ。もう少しお饅頭を増やしても売れると思う?」
りんが思案顔でそんなことを言う。
「うん。あってもいいと思うわ」
少し足りないと思う。だから、増えても売れるだろう。
じゅんはそう感じたから素直に答えた。
「じゃあ、明日から少し増やしてみるわね」
そんなやり取りをしてから、二人は休んだ。程よい疲れを感じながら。
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