善悪と倫理の境界

ウェン

第1章

第1話 ー期待の新任教師・淵上綾人ー


 世の中には努力が報われる人間が極小数いる。そして、その裏で努力が報われない人間が山ほどいる。


 私は後者だった。


 当たり前だ。特別な才能もなく、全てを捨てるような勢いでがむしゃらに努力出来るほど熱中出来る事がなかった。

 大半の人間がそうだろう。

 何かを始めようとして、夢を見て、現実を知り、手を止め、気付いたら立ち止まっている。

 その現状が嫌で再び何かを始めようと試みるが……の繰り返し。

 努力が報われる、若しくは才能に溢れているような、俗に言う成功者の言葉を鵜呑みにし夢を見る。夢を実現できるだけの能力も努力も出来ないくせに。

 夢を見る権利だけは誰にでもある。

 そして夢を見る権利は誰でも利用出来る。




 …………………………




 私はその日初めて本物に出会った。


 私は。毎日をただ消化するだけの日々を送っていた。

 疲れるほどしていない努力に疲れ、人付き合いに疲れ、仕事に疲れ、楽しみもなく、人生にお迎えが来るまでの日々をただ消化する。

 大人になったら大人の楽しみがあると思っていた時期もあった。

 努力もせず生産性のない日々を続ける社会のはみ出し者のような私に世間は甘くない。

「公務員だから」という理由で食いっぱぐれる事はないが、職場の同僚や上司からの視線は痛い。

 思春期の子供の面倒を見て良いような人間じゃないと自覚する年齢に達する頃には、身動きが取れなくなっていた。

 言い訳の理由ばかりを並べ、怠惰な自分を正当化するのに時間を使う。典型的なダメ人間だ。

 そんな私でも教壇に立てば偉そうに生徒に授業をする。

 授業を真面目に聞いてる生徒は数える程しかいないだろうが問題はない。

 私は何も考えず与えられた仕事をこなすだけ。何も考えたくないのだ。無意味である人生に今更意味を見出したくないのだ。ならば虚無でいい。動く屍でいい。私の人生に生気は必要ない。


 キーンコーンカーンコーン。


 授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。


「それでは最後に宿題ですね。今日やったところなので、えーっと……問題集の156頁から157頁の大問3までやってきてください」


 生徒達から軽いブーイングが聞こえる。

 私だって毎授業毎に課題など出したくない。君達も面倒だろうが、チェックする私とて面倒なのだ。君達に興味がなかろうと、仕事として教壇に立っている以上は義務として宿題を強制しなければならない。


「起立、礼」


 担当クラスの日直の号令。

 私も生徒もつまらない授業から解放される合図。

 授業担当しているだけのクラスに長々といるのはばつが悪い。基本的にさっさと職員室に戻るのだが、今日だけは珍しく生徒に声をかけられた。


「並木先生、今日から新しい先生が転任したって噂ホント?」


 荒船莉奈。一年E組。出席番号2番。

 話しかけてきたのはスクールカースト上位に位置するような不真面目な女生徒。学校生活に不自由がないのに学校へ文句を言いサボる不良生徒。生まれ持った顔と容量の良さで何事をも乗り切れる私が一番嫌いなタイプの人間だ。


「……らしいな。私達もまだ直接の面識はないから断言は出来ないよ」


 秋になるが荒船とは初めて直接喋ったかもしれない。が、長話をするつもりはない。

 二言だけ返し、私は教室を後にした。

 彼女に言われ気付いたが、学校中が転任してくる先生の話題で持ち切りだった。

 職員室へ戻る道中も廊下で駄弁る生徒達の話題の七割程度を占めていた。

 何故こうも噂になっているのか。理由は大きく二つ。

 転任する時期がおかしいのと、超ハイスペックイケメンだということ。

 噂が噂を呼び、どうやら生徒間で転任の先生は『東京大学卒、心理学専攻、元読者モデル、サッカー国体出場選手、マルチリンガル』というハイパースペック人間になっている。

 創作物の中でしか見かけないような人物像になってしまっている。これには流石に同情する。

 高校生という年代は良くも悪くも純粋だ。こんなに期待されていては実物を見た時、生徒達は皆落胆するだろう。

 勝手に期待しといて勝手に落胆される。あまりにも可愛そうだ。

 だが、私のそんな心配も杞憂に終わった。


 時は進み、放課後。噂の先生をこの目で初めて見た。


「初めまして。淵上綾人です」


 短く名前だけを名乗った先生はあまりにも雰囲気と顔が良かった。

 あぁ、この先生なら噂がどう転んでも大丈夫だろうと思わせる何かを直感的に感じた。


「何か色々噂になってますけど、多分大体本当なんでよろしくお願いします」


 ふざけたようにはにかんでいるが、本当でも嘘でも何方でも問題ない。嘘であっても本当だと思わせて見せよう、そんな自信が見え隠れしている。

 あまりにも若くエネルギーに溢れる淵上には誰もが期待しているのが見てとれた。

 この先生ならありとあらゆる問題を解決してくれそうな期待。

 学校が抱える問題なんて大小兼ねたら数え切れないだろう。それを淵上先生なら……なんてどうしてそう楽観的な表情が出来るのだろうか。

 私は淵上以上に周囲の先生全員に不安を抱いた。

 淵上に対する意識がどうもおかしいとそう感じてしまった。

 淵上が意図的にそうしているのかわからないが、噂が真実ならそれくらいの人身掌握は簡単にやってのけるのかもしれない。

 私は彼を不気味だと感じ、関わらないようにした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る