初恋

小夜樹

第1話

 初恋、皆どのような思いを持っているだろうか。初恋は甘酸っぱい味だとよく言うが、後味も果たして甘酸っぱいだろうか?私の場合は、甘酸っぱかった。淡い味のまま、静かに口の中で消えていくようだった。今ではあの胸の高鳴りや、高揚感が懐かしいものとしか思えなくなってしまったが、時々、本当に時々だけれど、あの頃に戻ってみたいと思ってしまう時があるのだ。今日みたいによく晴れた、気持ちの良い午後はそんな回想に耽るのも悪くはないだろう。

 あれは、中学生になった時のことだった。慣れない教室の雰囲気と、若干の不安と期待を抱えて新生活が始まろうとしていた時に、私は初めて恋に落ちた。衝撃的だったわけではない。当時はそれが恋だなんて分からなかった。毎日彼のことを見ていた。目が勝手に彼のことを追っていたし、授業中も半分くらいは彼のことを考えていた。綺麗な顔をしていた。私の席から見える、彼の後頭部と僅かな横顔は私を虜にした。彼の困ったような控えめな笑顔と、本を読んでいるときに見せる、集中しつつも感情がほんの少し透けているような、そんな顔がたまらなく好きだった。こんなことは初めてだったから、当時の友達に「それ、恋だよー」と笑われた時、あ、これが恋なんだ、と思った。これが、恋。その時の納得して何かが落ちたような、ストンというあの感じを、今でも覚えている。

 彼の話をしてみよう。彼の内面的なところは、今でもよく分からない。その理解できない何かに、最初私は惹かれたのかもしれない。傍から見れば、大人しくて無害な性格に見えるだろう。実際一緒に学校生活を送る上では、その認識で間違いはなかったし、支障もなかった。ただ私の考えは、少し違う。彼はただ、臆病だっただけだ。自分が否定されるのが怖くて、控えめにいただけだったと私は思う。もしかしたら、大人しい人の多くにこのことが言えるかもしれない。でも私にはそう思うに至った、ある根拠となる記憶がある。

 あれは、夏休み前の高校一年生の時の放課後だった。みんな部活に行ったり、他の人は帰ったり、教室の中には彼しかいなかった。私は忘れ物を取りに、教室に向かった。教室のドアの窓から、彼がいるのが見えた。本を読んでるみたいだった。私は、他の人がいないのを確認すると、彼に話しかけるチャンスだと思った。その時は、彼と話したことなんてほとんどなかったけれど、周りに人がいないならいける、と思ったのだろう。私は、彼に気付かれないよう、なるべく音を立てないように教室に入り、彼に近いた。今思えば、驚かせて警戒を強めてしまう行為だと思うが、とにかく私は後ろから、気づかれないように話しかけることに成功した。

「何、読んでるの?」

 これを聞かれた人はどれくらいいるだろうか。正直、本を読んでいる人にとっては、あまりいい質問とは言えない。まあ、読書に耽っている人にとっては、何を言われようと妨害されるのだから、大差ないだろうと思う人もいるかもしれないけれど、これを聞かれると表紙を見せるなりタイトルを答えた後に、何とも言えない妙な間があってお互いにき不味い思いをすることになる。ただしこれが当てはまらない場合というのが存在する。質問した側が、その本を知っていたり、その作者が大好きだったりした場合だ。幸運と言うべきなのかは分からないが、私たちは偶然このケースに当てはまった。普通だったら、この後、同じ趣味を持つものを見つけた時の興奮と喜びを伝えあった後に、その本についての話で盛り上がるのかもしれないが、私たちの場合はそれとも違った。

「これ」

 と見せられた見覚えのある表紙について、何かを言う前に、私は彼の表情に釘付けになってしまった。彼は涙を流していた。そして彼自身それに気づいていないように見えた。もしかしたら気づいてないふりをしていたのかもしれない。どちらにせよ、私はすぐに立ち去ろうとした。本を読んでいる時の中でも、涙を流すほどの場面で外から話しかけられる時の、相手に対する苛立ちを知っていたから。

「あ、それ良いよね。邪魔してごめん、じゃあ」

せめて私もあなたと同じだと言うことを伝えてから去ろうとした時、彼に呼び止められた。彼は少し突っかかりながらも、食い気味に言った。

「そ、それ、本当?よかったら次から一緒に読もうよ」

 その時は焦りと喜びと、何を言われたかいまいち理解できなかったせいで、何を言ったか覚えていない。でもその次の日から、私と彼は特に話すわけでもなく、ただ隣で本を黙々と読むだけの関係になった。でも、この件で一番重要なのは、彼が自分の感情を表に出していたことにある。私は、彼があの時以上に感情をあらわにしているのを見たことがない。でも、あれ以来私は彼の表情を注意深く見るようになった。隣で本を読む彼の顔を盗み見ると、僅かだが押し殺し切れていない感情が顔に滲み出しているのが分かるようになった。それから、彼は感受性がとても豊かだということに気付いた。些細なこと、例えば先生が一回名前を呼び忘れた時とか、でも傷ついているのが私でも分かったし、何より私は彼ほど表情をクルクル変えながら、読書をする人を知らない。とは言っても、その表情は控えめなものであったのだけれど。

 彼との奇妙で淡くて、そして曖昧な関係と時間について話そう。あの出来事のあった次の日から、ただ同じ空間で読書をするだけという、私たちの関係が始まった。私は好きな相手が隣にいるわけで、本に集中できる訳もなく、彼の顔を見ることばかりを考えていた。幸い彼はそれに気付かなかった、もしくは気付かないふりをしてくれたから、私たちの関係がすぐに壊れることはなかった。でも、彼が表情豊かに読書していたことを考えると、恐らく気付いていなかったのだろう。そして、言ってしまえば、私たちがしていたことはそれだけなのだ。私は好きな人の顔を眺めることができる。でも、一体彼は私に何を求めていたのだろうか。その疑問が浮かんでくるまで、そう時間はかからなかった。一週間も経たぬうちに、私は彼に尋ねていた。

「ねえ、なんでこんなことしてるの?」

「……僕は、多分仲間が欲しいだけで……ごめんね、利用してるだけといえばそうかもしれない」

 別に私に責めてるつもりは毛頭無かったし、彼もそれを分かっていたと思うけれど、彼は臆病な生き物だ。予防線を張ったのだろう。一回分かってしまえば、彼ほど単純で分かりやすい人間はいないようにその時は思えた。この時私は、臆病で、口下手で、姑息な彼のことが愛おしくて堪らなくなってしまった。

 しかし結局彼とはその後、特に話すようなことは何もなく、学年が上がりクラスが離れると同時に関係が終わった。一年の冬頃には一緒に本を読んでいたものの、私の興味のほとんどは紙の上のインクにあった。彼としたことは、所謂恋人っぽいものではなかったけれど、あの時間は恋人のそれだった。彼といるとあれほど高鳴っていた私の心臓も、その頃にはゆったりとしたリズムを刻むようになった。つまり、私が言いたいのは、彼との距離はあれで正解だったということ。もし私が彼に正面から告白して、彼がそれを受け止めたとしても、上手くは行っていなかったと私は思う。だから卒業式の日、彼に「ありがとう」と「さようなら」を言われたときに初めて私は失恋した。彼は私が何を思って一緒にいたのか分かっていたけれど、それに応えていなかった。そして私が彼と過ごした時間は単にお互い満たされたふりをしていただけのおままごとだったということ。もちろん彼に悪気はなかったけれど、彼と恋愛的に距離を縮められたと、心のどこかで信じていた私は裏切られたような気持ちになって、その時初めて

 言っていた通り、彼は仲間が、理解者が、ただ隣にいてくれる誰かが欲しかったのだろう。私は彼じゃなきゃダメだったけど、彼は言ってしまえば誰でもよかった。

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初恋 小夜樹 @sayo_itsuki

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