日課
業 藍衣
第1話
毎朝一時間、軽く汗を流してシャワーを浴びて家を出る。
そんな事を、陸上部をしていた中学生の頃から数えれば十年間以上、毎日欠かさず続けていたので、出張先に来てまでも走らずにいたら何だか気持ちが悪くてその日も走ることにした。
早朝会議が七時からあることを逆算したひろしは、朝5時にホテルを出発する。
冬の朝は日の出時間も遅く、まだ辺りは真っ暗だ。
ホテル前で準備体操をするのは何だか気が進まなかったので、近くの公園へと向かう。
ホテル前の大通りから少し歩いて、道を一本入った所にぽつんとあるのを、昨夜ホテルへの道すがら見つけ、目星をつけておいたのだ。
暖かいホテルから出て、ゆっくりと歩いているせいか、頬に当たる外気は何だか刺すような痛みを感じさせたので、両手で口と鼻を覆い、「は~っ」と息をはいてあたためる。すると、立ち上る息は白く、外気温の低さを思わせた。
小さなブランコと砂場だけのこじんまりとしたもので、申し訳程度に植えられた植樹の傍に二人掛けのベンチが設置してある。
ひろしが公園へと足を踏み入れると、先客がいたようで、話し声が聞こえてくる。
その声へと視線を移すと、ぼんやりとした白い街灯の光が照らす公園のベンチに、二人の老婆がちょこんと座りぼそぼそと会話をしている。
お揃いなのだろうか、黒いダウンに灰色のズボン、白い靴を履いて、足が悪いのだろうか、ベンチの傍にはこれもお揃いの菊の花柄の手押し車が置いてある。
ふと老婆と視線があったひろしは、軽く会釈をして挨拶をする。
「おはようございます」
しかし、二人から返事が返ることはなく、しばらく黙ったあとまたぼそぼそと会話を始めた。
聞こえなかったのかな?
まぁこんな朝早くに知らない男に声を掛けられれば、警戒をする事もあるだろう。
ひろしはそんな風に気持ちを切り替えて、さっさと準備体操を終わらせて公園を出るべく、屈伸やアキレス腱を伸ばしはじめる。
しかし、老人の朝は早いと聞いていたけれど、寒い冬の朝、それもこんな暗いうちからなんだろうと、ひろしはその老婆達をいぶかしく思ったが、日課の為とは言え、こんな時間から走る自分も端から見ればおかしいかもなと思い至ったひろしは、ククッと苦笑する。
そのとたんにまた老婆の会話が止まったので、ひろしは何だか勘違いさせたかと思い、軽く頭を下げて謝意を示し、老婆達へと視線を戻すと、二人の老婆は無表情のままただひろしを見つめているようだ。
その目は、まるで驚い時のような感じに大きく開かれていたが、その中に置かれた瞳は虚空を写しているかのようだった。
その不気味さにひろしは、首の後ろ辺りから背中に掛けてをぞわぞわとしたものが 走るものを感じ、ああこれは何かヤバイものかもしれないと思い、再度軽く老婆へと会釈をすると、その場をすぐにでも離れるべく、全速力で公園を離れ、走りはじめる。
普段なら身体を慣らすためにゆっくりとしたスタートをするのだが、そんな事を言ってはいられないと、必死に地面を蹴り、足を前へ前へと進める。
段々と息も上がって来るが、そんな事を言っていられないと、あの公園から一歩でも遠くへ行く考えばかりが頭を埋めつくし、ひろしは日課のジョギングではなく、全速力で早朝の街を疾走していく。
恐怖と緊張、そして慣れない道を全速疾走した事がたたったのか、ひろしの足は悲鳴を上げるように痙攣しはじめる。
寒い冬の朝にも関わらず、全身から大汗をかき、下着がぐっしょりと濡れて肌に張り付く感覚が気持ち悪い。
公園から一気に大通りに出て、一直線にひたすら走ったひろしはもう大丈夫だろうと、うしろを振り向くと、そこにはぼんやりとした白い光の街灯が等間隔で大通りを照らしているばかりで、車通りもなく、静かな夜明け前の暗闇が広がっているだけだった。
そんな光景に安心したひろしはその場で足を止める。
いくら走り慣れているとはいえ、朝一から全速力を出したひろしの息は荒く、両ひざに手を付いて、まるで深く頭を下げるようにして地面を見ていると、何やら酸っぱいものがこみ上げてくる。
さすがに夕食から何時間も経っていたからか、吐き出したモノは水分ばかりで、口から粘性のある唾液が糸を引いてゆっくりと地面に落ち、道路に広がっていくのをただ、何も考えられず視界におさめ、ひろしは息を整えはじめる。
ゆっくり、ゆっくりと呼吸をするひろしの身体からはモウモウと煙のように湯気が立ち上っていた。
「いっ…一体なんだったんだ……まぁ、ここまで来れば……だいじょう……」
そこまで言ったひろしの視線の先に、菊の花柄の手押し車と白い靴があらわれる。
反射的に顔を上げたひろしの前に先程の老婆が無表情でひと言
「お前、見えとるんか?」
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