残暑の夜

古井論理

祖父が死んだ夜のこと

 これは、祖父が死んだ夜の話。秋口というにはあまりに蒸し暑い、しかしどこか肌寒さを感じる夜だったと思う。


 僕はそろそろ明けようという夜に、葬儀場の仮眠スペースで一睡もせず過ごしていた。同じように夜通し起きている見覚えなどほとんどない親戚たちと、「喪主なのだから」という理由で次の夜にすることになった通夜に備えて少しでも眠るよう言われた母がいびきを立てる布団の間にある隙間を見ていて、僕は突然布団を敷こうと思いついた。祖父の骸が収められた棺に枕を向けて布団を敷きながら、頭の中では祖父の死に触発され取っ散らかった思考を強引に片付けようと動き回る。


剛志つよしにーちゃん、一緒に風呂はいろ」


 従弟の孝之たかゆきが、今しがた僕が敷き終わった布団の隣の床に座り僕を神妙な面持ちで見つめた。視界の隅で彼の両親と私の母が少し驚いた表情を浮かべるのを認め、僕はうなずいてそれに応じる。


「わかったよ」


 僕の言葉を確認するが早いか、孝之は僕が敷き終わった布団を横切って仮眠室を出ていく。葬儀場の反対側にある浴室スペースへと向かう孝之を追って、僕はバスタオルと着替えを取った。




 葬儀場の風呂場というのは、思っていたよりも明るく新しかった。綺麗ではあっても少し古さを感じさせる廊下とは裏腹に、アンバランスなほどに。その脱衣所で待っていた孝之はすでにブリーフ以外を脱ぎ、汗が染みついた半ズボンとTシャツを洗濯籠に放り込んだ後だった。


「にーちゃんって中学二年生だっけ」


 シャツ越しの視界で、孝之が指を折りながら尋ねる。


「いいや、三年生だよ。高校受験まであと半年くらいだね」


 言いながらシャツを丸めて後ろ手に洗濯籠へと落とし、黙ってしまった孝之がいつの間にかブリーフを脱いで、風呂に入る準備を整えていることに気づいた。


「そっか」


 孝之はもう数えなおす指を止めて、少し目線を下げた。


「来年には、もう中学生なのにね」


 孝之がこぼした声が、頭の奥に渦巻く何かを突き刺す。


「こんな……とき、にはね、僕は。何も思いつかないんだと思っていたよ」


 思いつくままに言葉を絞り出していた僕の唇は、そこで理屈に追いつかれ動きを止めた。とりあえず風呂に入らなければ。


 僕は手早く夏物のジーンズを脱ごうとして、ベルトを緩める。そして下着と一緒に一気に脱いだ塊から下着を取り出し、洗濯籠に放り込む。流れるように風呂場のドアを開け、無言のまま体を洗い、そして大きめのバスタブに二人で浸かった。


「そういえばお爺ちゃんの亡骸ってどうなるの?」


 口を開いた孝之が、ぽつりと言葉を吐き出した。


「明日の昼過ぎには火葬もとっくに終わって骨壺に収まっているんじゃないかな」


 僕はそう言ってから、もう少しオブラートに包むべきだったかもしれないと思った。 孝之はそういう話をしたかったわけではないかもしれない。それがわからないまま答えたのはまずかったような気がする。


「……」


 黙ってしまった孝之に、僕は問いかける。


「何が気になるの?」


 孝之の手が少し震えているのがわかった。僕は話を変えようと考えを巡らせたが、こんな時に限って適切な話題というものは出てこない。僕の視線が上の方を向き始めて、数分が経っただろうか。


「にーちゃん、僕はお爺ちゃんが消えるのが怖い」


 孝之がそう言った。


「それは物理的な意味で、形がなくなるってこと?」


「うん、生きた証っていうかそういうものが消えてしまうわけだし」


 即答した孝之に、僕は一般論的な答えを考えた。


「まあ……僕たちが生きてお爺ちゃんのことを覚えていれば消えないよ」


 孝之は「そうじゃなくて」と言ってから考えこんで、肩を水面下に沈めた。


「形、もっと言えばお爺ちゃんの体はお爺ちゃんの人生そのものじゃない?それが燃えて塵と灰と煙になって、この世界に限りなく薄められていくのが怖いんだよ」


 孝之はそう言って、さらに湯船に体を沈める。


「まあそれはそうだね。人はいつか消えるものだからね、そういうものだと思って諦めるしかない。私たちは生き物だから、いずれは土に還らないといけないんだよ。その人を覚えている人の記憶の中にしか存在できなくなる日が絶対に来てしまう。それを薄めるために、遺骨を残しておくんだと思うよ」


 孝之は納得しかねるといった表情で考え込んでしまった。


「散骨よりはまだ形に残るものがあるし、いいんじゃないかな」


 僕が言うと、孝之はうなずいた。


「散骨は絶対嫌なんだよ。写真以外に何も残らないし、会った気になれる場所もどこにもない。……確かに骨壺に残るものがある分まだマシだね」


 しばし沈黙した後、浴槽を出て体を拭きながら祖父の記憶を呼び覚まして初めて僕は先ほどの会話に奇妙な既視感を覚え始めた。


「そういえばこんな話、三年前にお爺ちゃんと遊びに行った時にもしなかったっけ」


「そうだっけ?」


 孝之のバスタオルを動かす手が止まる。


「そうそう。ウサギがいっぱいいた動物園に行った時なんだけどさ、なんかお爺ちゃんが似たような話をしたような気がするんだよ。ウサギの寿命の話から始まった気がする」


「ああ、そういえばしたね。結局どういう話になったんだっけ」


「思い出せないけどなんかさっきの話と似たような感じだった気がするんだよね」


「ええっと……どうだったかな」


 夜の終わりに入った風呂の中で僕たちが考え込んだ議題は、その場限りのこういう与太話が好きだった祖父の記憶をリバイバル上映する場になっていたのかもしれない。この記憶がかなり鮮明に頭にしみついて離れないうちは、僕はいつでも祖父が死んだ日の夜のことを思い出せるのだと思う。

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