第10話
「本当英語の成績上がったよね。塾に入ってきた頃は文法とか全然だったのに」
「そうかな? ありがとう。涼ちゃんの教え方が上手いんだよ」
「ええ、淳史君が褒めてくれるなんて珍しいね~。先生嬉しいな」
悠人が塾に入って来た。その中で不幸中の幸いだったのは、悠人は授業が終わると真っ先に帰ることだった。
それにより僕の居残りと、涼ちゃんとの「密会」が判明しない。悠人が馬鹿で良かった。そもそも入ってきたのが「母親に言われたから」という不良あるまじき理由なのだ。どうせすぐに帰って緒方とセックスしているか、不良仲間と原付きで騒音被害を撒き散らかしているかだろう。それの何が楽しいのだろうか。
「そういえば涼ちゃんさ」
「うん。何」
「僕以外の生徒ともよく話すの」
「ん~、そうだね。まんべんなく話そうとは思ってるよ。生徒を知るのも教育の1つだし。それによって接し方も教え方も変わるから」
「じゃあCクラスは? 誰か特別に話す子って居るの」
「Cクラスかあ。そうね……」
涼ちゃんは少し考えた。
「小澤君はよく喋るかな。1年の春から通ってくれているし。あとは真鍋さん。明るくてバレー部で活発な女の子なの。あとは……」
僕は息を呑む。
「そうだっ。最近入って来た悠人君! ちょっとヤンチャだけどいっぱい話してくれるよ」
「へえ~」
クソっ。と、僕は心の中で暴言を吐く。
何て手の早い奴なんだ。彼女が居る癖に。というか、女子は何でああいったヤンチャで不良っぽいのにすぐ引っ掛かるんだ? あんなのどう見たって危険じゃないか。絶対に女を大切にするタイプじゃないし。
「話が面白いんだよね。自分から色々話してくれるし、あ、そういえばあの子もサッカー部だって言ってたな。県の選抜に選ばれたりしてるんだって、淳史君知ってる?」
どう答えようか迷った。「知らない」と言って後から嘘がバレたら嫌だし、かといって本当のことは言いたくない。とすると……。
「うん、知ってるよ」
「ああ、やっぱりそうなんだ。上手い子って勝手に名前が知れ渡るもんね」
「うん。確かにサッカーは上手いよ、テクニックがある。……でもアイツが有名なのはサッカーでじゃないんだ」
僕は嘘を吐くことにした。
「アイツ、めちゃくちゃ女癖が悪いんだ。彼女を取っかえ引っかえしているし、二股や三股だって常習犯で。友達のお姉ちゃんともヤったって自慢してるくらいだから」
「そうなんだ」
何だかあんまり効果を感じない。僕は立て続けに言う。
「それにタチの悪い不良なんだ。免許を持ってないのに原付きを乗り回すし、その他の犯罪もいっぱいしてる。カツアゲでしょ、窃盗、恐喝、器物破損。マジでアイツの評判悪いからあんまり近付かない方が良いよ」
「そっかあ。淳史君がそんなに人を悪く言うなんてよっぽどなんだね」
この前悠人にも同じことを言われたばかりだった。僕は普段からあまり人の悪口を言わない。母さんの《人にやられて嫌なことはしちゃ駄目》の魔法が、こんな場面でも魔力を発揮している。
「そう、よっぽどなんだよ。だから涼ちゃん気を付けてね」
僕が言うと、涼ちゃんは悪戯っぽく僕の顔を覗き込んでくる。
「なに?」
「いや、淳史君がそんなに心配してくれるなんて嬉しいなあと思って」
僕を無関心を装う。
「別に。涼ちゃんには英語でお世話になってるからね。ただそれだけだよ」
「そっか……。焼きもち妬いてくれてるのかと思ったんだけどな」
「そんな訳ないじゃないかっ。何で僕が涼ちゃんに」
涼ちゃんは笑っている。ふふふ、と。
「そうだよね。分かってるよ」
涼ちゃんが立ち上がる。
「さ、今日はこの辺にしておきましょう。淳史君、また明日ね」
あっ、と僕が言う前に涼ちゃんは教室から出て行った。僕は今しがた言った言葉を後悔した。なんであんなことを言ってしまったのだろうかと。
人間とは不思議なもので、相手に好意がバレるのは嫌がるのに、好意が無いと思われるのも嫌なのだ。つまり非常に繊細で、どちらにも振れるような立ち位置をキープしようとする。面倒臭い生き物なのである。
帰りながら、僕は次会った時涼ちゃんと何を話そうかを考えた。極力涼ちゃんが興味がありそうな内容が良い。今だったらお盆とか花火とか旅行とか。前に涼ちゃんは犬が好きだって言ってから犬の話を出しても良いな。
僕は青じゃなく赤の看板のコンビニで、涼ちゃんがよく飲んでいるミルクティーを買って帰った。もしかしたら今、涼ちゃんもミルクティーを飲んでいるかもしれないと思いながら。
その1週間後。
その日も僕は塾に居残っていた。毎回居残るので、僕の英語の成績は塾内でもトップクラス。Åクラスの子達に僕が教える回数が増えているくらいだ。
勿論それでも僕は居残り勉強をする。理由はもう言うまでも無い。
「僕は柴犬が好きだな。主人に忠実だし、あの毛並みが好きなんだ。ふぁさふぁさして手触りが良いし」
「あ~、分かるぅ。私のお気に入りはね、王道だけどダックスフンドかな~。短い脚でとことこ歩くのが可愛いんだよねえ」
涼ちゃんは好きなことを話すと声がとろんとする。まるでたっぷり蜜の乗ったパンケーキみたいな声だ。そんな所も可愛い。
僕が言ったことで涼ちゃんが気分を害しているかと思っていたけど、全然そんなことはなかった。涼ちゃんは普段通りだった。それはそれでどうなのかと思わないでもないが、別に涼ちゃんを悲しませたいわけでもないし、良しとすることにした。
「他の犬だって脚は短いじゃん」
「ああ~、淳史君は分かってないなあ。ダックスフンドのあのバランスが良いんだよ。あれが黄金比率なの」
「全然分かんないよ」
「別に良いですよーだ」
僕は幸せだった。口を窄める涼ちゃんも可愛い。その涼ちゃんを独り占めしているこの状況が極上の幸福だった。
2人の間には甘ったるい雰囲気が流れる。これはもう付き合う直前のカップルではないか!
教室には西日が差し、太陽まで僕らを祝福してくれているようだ。全てが上手くいく気がしていた。悠人の虐めなんて気にすることないし、受験勉強は順調だし、将吾ともまた上手くやれるだろう。
……という幻想は、教室のドアが開かれる音で消滅した。いつだって僕から何かを奪うのはアイツしか居なかった。
「よう、淳史」
「ゆ、悠人」
僕は息が止まりそうになる。
「ど、どうして此処に」
悠人はとっくに帰った筈だった。1時間以上前に、誰より早く。
「いやあ忘れ物しちまってよ。それで取りに来たんだよ。あ、涼子先生。こんにちは」
「こんにちは。悠人君」
「先生俺さ、筆箱を忘れてるっぽいんだ。落とし物で届いてないか見て来てくれない」
「そうなの。良いよ。ちょっと待っててね」
涼ちゃんが教室から出て行く。僕は悠人と2人きりになった。
悠人が僕の近くまで歩いてくる。
「おいおい何だよ淳史。お前あの女と仲良いんじゃん。どっちかっつーと嫌いみたいなこと言ってさ。え?」
悠人は僕の前の席に座った。
「いや、その、最近喋るようになったんだ。悠人が良い女だって言ってたから僕も気になってさ」
「へえ~……、そうかよ」
悠人の顔をよく見られなかった。彼が笑っているのは分かるが、心の中では笑っていないだろう。彼は人を虐める時、恐喝する時、悪事を働く時にいつもこんな顔をしている。口元だけ笑って、目元には感情が無い。
「いや実はよ、ちょっと前にお前が塾から出て来る所を見たんだよ。その日も授業が終わった1時間以上後だった。だから俺は何かあるんじゃねえかと思ったわけよ。で、今日来てみたらこうだった」
「あ~、うん、ちょっと前から残り始めたからさ。その日も残ってたんだと思う」
「……。いやさ、別にお前を疑ってるんじゃないんだぜ? でもまあ一応確認するけどよ」
悠人は僕のテーブルに身体を乗せて来た。
「あの女は俺がモノにするって言ったよな? まさかそれをお前が横取りしようなんて思ってないよな? 淳史よお」
「まさかっ! そんなわけないよっ。僕が悠人の邪魔をしようだなんてっ」
悠人の笑顔が大きくなる。
「だよな? そうだよな? ああ~、悪い悪い。お前を疑うなんて俺はどうかしてたよ、何たって俺達は友達だからな! ああ~、良かった。じゃあお前は俺に協力してくれるんだよな?」
「え……」
僕は答えに詰まってしまう。
「ああん?」
急激に悠人の声のトーンが下がった。人を服従させる時の声。
「今お前俺の邪魔しないって言ったよな。今言った。それなのに俺に協力出来ねえって言うのか、ああっ!?」
高速で悠人の手が伸びて来て、僕のTシャツを掴んだ。左の鎖骨辺りに手が当たって痛む。
「す、する。協力するよ。するから」
悠人の顔が般若から仏に戻った。Tシャツを掴んでいた手が離される。
「だよな? 淳史サンキューな。もしお前が断ったりしたら、今までのことも全部バラして、お前をボコボコにしちまう所だったよ」
「は、はは……」
そこで、涼ちゃんが戻って来た。
「悠人君、もしかして忘れ物ってこれかな」
涼ちゃんは手に紺色の筆箱を手にしていた。側面に海外のサッカーチームのステッカーが貼ってある。
「ああ、そうそう。これこれ。先生ありがとね」
悠人は筆箱を受け取ったが帰ろうとしない。僕は一刻も早く帰って欲しかった。彼が何かを起こす前に。涼ちゃんに何かを言う前に。帰れ。帰れ。帰れ。帰れ。
「先生さ、淳史っていつも居残りしてんの」
「ええそうよ。淳史君は勉強熱心だから。ていうか2人って仲良いんだね。下の名前で呼び合うなんて」
「そりゃそうっすよー、だって俺と淳史は同じ中学だからさ。へえー、淳史いつも残ってんだ?」
僕は蛇に睨まれた蛙になっていた。ただ机のプリントを見て、問題を解く振りをしている。こめかみから汗が滴りそうになる。
僕は心の中で祈っていた。この時間よ、早く終われ。早く終われ。早く終われ。早く終われ。
「それでさ、先生。今淳史と話し合ってた所なんだけどさ、俺もこれから一緒に居残ることにしたから」
「そうなの?」
涼ちゃんが言う。僕ははっとして顔を上げた。悠人は意地悪い笑顔をしている。
「そうそう。俺英語の成績あんま良くないでしょ? で淳史は英語得意だし、先生教え方上手いし、一緒にやった方が勉強捗るかなーって話し合ってた所でさ。な、そうだろ? 淳史」
2人が僕の方を見ている。
「う、うん」
僕は小さく答えた。
「そうなんだ。ん~、私はどっちでも良いよ? 2人がそれで良いなら」
「うしっ、じゃあそれで決まりで! じゃあ先生明日からヨロシクね。俺と淳史は今日はもう帰るから。ほら、淳史。早く帰る準備しろ」
「え」
「何してんだって。早くしろよ」
「う、うん」
「じゃあね、先生ー」
「はーい、また明日ね」
塾から出た僕達は、国道沿いを歩く。悠人は僕の数メートル前に居た。
先程から彼が何も言わないのが怖かった。何も言わないし、顔も見えない。いつもの悠人は常に喋っているので、だからこそ怖かった。
10分くらい歩いて、悠人が公園の中に入って行く。僕はここがチャンスだと思い勇気を出して声を発する。
「あ、じゃ、じゃあ僕あっちだから」
悠人が振り向く。
「何言ってんだ。お前も来るんだよ」
「いや、でも」
「来い」
有無を言わせない声だった。僕は何も言い返せない。
ここは県内でも有数の広い公園だった。サッカーが出来るグラウンドがあり、芝生の一帯では休日に家族がボール遊びをしている。外周を回るランニングコースでは常に誰かがが走っていた。
悠人は何処かに向かって歩いている。広い公園の中でも、人が少ない方に進んでいく。
淡い水色で黄ばみが目立つ公衆便所が見えてきた。悠人がそこに向かって行く。僕が足を止める。悠人が振り返って言った。
「お前も来るんだよ。何遍も言わせんな」
2人でトイレの中に入った。悠人は、中に誰も居ないのを確認してから僕を殴り始めた。
「お前! 俺にっ、何嘘吐いてんだよ、ああっ!?」
顔を殴られる。胸を殴られる。お腹を蹴られる。僕は汚いトイレの床に投げ倒される。
「ご、ごめん。ごめんぅ……」
「ごめんじゃ、ねえんだよっ! お前は俺を馬鹿にしてたのか? 嘲笑ってたのか、おいっ、こら!」
「うっ。そんな、うぐっ、こと、うおえっ、してない、うえっ、よ」
「じゃあだったら何なんだよっ。何でお前はあの女と仲良くやってんだよ!」
「それは、本当に、ごえっ、たまたまで。がっ、悠人の、悠人の、ぐっ、邪魔なんて、しない、から。うごえっ」
「本当だな?! 絶対だぞ。今ここで誓え。俺の邪魔はしないと今誓えっ!」
悠人の両手が僕の胸倉を掴む。
「はい……。ち、誓います」
「絶対だからなっ!?」
「はい……、絶対に、邪魔を、しません」
「もう一度言えっ!」
「僕は、絶対に、悠人の邪魔を、しません……」
「テメエ、二度と俺の命令を無視するんじゃねえぞっ!」
悠人が僕の顔面を思い切り踏みつける。トイレから出て行った。
「痛い、痛いぃ……」
僕はトイレの床で蹲る。数十分その場から動けなかった。
終わったと思った。何もかもが終わった。
僕は僕のユートピアを見つけた。塾と涼ちゃんというユートピア。それがまた奪われ破壊されようとしている。
どうしていつもこうなるのか? どうして放っておいてくれないのか? どうしてああいう奴は平気で人を陥れ、蔑み、壊すのか?
顔面から流れる血と涙が止まらなかった。
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