第9話


 僕は固まった。信じられない状況に、声が出ない。


「別に俺も来たくなかったんだけどよ。部の活動も終わったし、母親が塾に通えってうるせえんだよ」


「え、で、でも悠人はスポーツ推薦で高校に行くんじゃ、」


 悠人は頭を掻く。


「ああ、あれな。そうするかもしれねえんだけどよ、学力を上げといて損は無いってうるせえんだわ。サッカーも終わって俺も退屈してた所だし? それにお前がこの塾に居るって聞いたからな。お前が居れば安心だし、退屈せずに済みそうだからよ」


 悠人が、すれ違いざまに僕の耳元で囁いた。


「大丈夫だ、安心しろ。お前が俺に虐められてるってことは誰にも言わねえよ。お前が、俺の言う通りにしてればな」


 中三の夏休みが始まった。僕史上最高の夏休みになる筈が、僕史上最低の夏休みになるかもしれなかった。



 8月に入った。各地で花火大会や夏祭りが開催され、夏本番が始まった空気が広がっている。


 僕は週5で塾に通い、残りの2日は勉強しながら友達と遊んだ。塾で知り合った子と遊ぶこともある。ただ遊ぶ相手の中に、将吾は入っていなかった。


 コンビニでの一件以来将吾とは関係が悪くなってしまった。あの日のことを将吾は根に持っていて、学校でも僕とあまり話そうとしない。授業中や移動教室、体育でペアを作る時など、僕のパートナーはいつも将吾だったのに……。


 だから僕は、卓球部の宮下や陸上部の今野、部活に入っていない飯田と一緒に居ることが多くなった。将吾のことが気にならないかと言えば、嘘になる。何故なら将吾はあの日以来不良やクラスの一軍勢と一緒に居ることが多くなったからだ。


 将吾は不良や一軍達と共に廊下を闊歩し、所謂陰キャラと呼ばれる者達に怒鳴ったり暴行を加えたりした。


 前に将吾が3組の中村にかつあげしている場面に出くわした。将吾は中村の制服の襟元を引き寄せ、任侠映画ばりに目を見開き、「さっさと出せ、イジメんぞおい?」と言っていた。僕は何だか怖いと同時に気恥ずかしさを覚えた。元々の将吾はそんなことをするタイプでは無かったからだ。


 かつあげされていた中村は僕が1年の頃同じクラスで、よく教室で一緒に居た。将吾はそれを知っている筈だった。


 僕は気付かない振りをしてその場から立ち去った。この世界では虐めを助けようとする者は、高確率で悪者になってしまう。予め人間は、暴力に屈するDNAが埋め込まれているのだ。僕が助けた所でその僕を助ける者は誰も居ないだろう。 


 不良みたいになった将吾が一番皆を驚かせたのは、終業式の日だった。左耳のピアスは少し前から開けていたが、その日将吾は髪を金髪に染めていた。黄色に近い頭が悪そうな金髪だ。


 その金髪をジェルで固め、後ろに流し気味にしていた。ライオンのたてがみに似ていた。シャツは第二ボタンまで開け、スボンはずるずると引き摺る。見事に変貌を遂げた将吾と不良達は、体育館で行われた終業式を途中で出て行き、校内をざわつかせた。その中に当然悠人も居た。


 将吾のことはさておき、塾ではまだトラブルは起きていない。悠人とはクラスが違い、僕は極力関わらないようにしている。悠人は持ち前のルックスと、相手を蔑み威圧感を与えるトークで、既にCクラスを掌握しようとしていた。


 トイレに行く度にCクラスの前を通るのだが、悠人は白の長テーブルの上に座り、大きな声で喋っていた。その光景が中学の教室と重なり、僕はそそくさとその場から立ち去る。暑くもないのに全身から嫌な汗が滲み出ていた。僕は悠人の周りに居る人に言いたかった。「そいつはヤバイ奴ですよ」、「関わるとロクなことがありませんよ」、「いずれその中から誰か虐められますよ」、と。


 反対に悠人がAクラスに遊びに来ることもある。「おい、淳史っ」。悠人は入口から大声で僕を呼ぶ。Aクラスに居るのはそれぞれの中学校で優等生ばかりなので、その声に皆はやや萎縮してしまう。僕は絶対に悠人をAクラスの教室に入れないようにしていた。虐めの話や虐めの行為をされてしまえば僕の塾ライフは瞬時に崩れ去ってしまう。それは絶対に阻止しなければならなかった。


「そっちに行くよ」


 その時の僕の反応速度たるや、きっと往年の名ディフェンダー、ファビオ・カンナバーロにも負けていない。それくらい悠人に干渉して欲しくなかったのだ。


「何だよ、そんなに俺に会いたかったのかよ。子犬みたいな奴だな」


 僕は悠人を勢いで廊下に連れ出す。何という馬鹿な勘違いだろうか。コイツは自分が好かれているとでも思っているのか。自分が虐めている相手から。頭がイカレているとしか思えなかった。


 僕達は非常階段の方に移動する。此処なら生徒は滅多に来ない。会話が誰かに聞かれる確率は少ないからだ。


「それで、どうしたの。何かあったの」


 悠人は階段に座る。僕は立ったままだ。悠人はおもむろにポケットに手を伸ばし、煙草とライターを取り出した。


「ちょ、此処は禁煙だよ。見つかったらヤバイよ」


 僕は周囲を見渡す。


「ああ? だからお前が居るんだろ。誰か入って来たらすぐに言えよ」


「分かった……」


 悠人が煙を吸い込んで、ふうぅ、と吐き出す。煙草の煙は空に向かって消えていく。そのままコイツも一緒に消えてはくれないだろうか。


「……」


 悠人は一服している時が一番静かだ。もう一生煙草を吸っていて貰いたいくらいだ。僕は生まれて初めて煙草に価値を見出した。世界に煙草がある意味が分かった。どれだけ癌になる人が居ても、どれだけ大気を汚染するとしても、喫煙率がもっと上がって欲しいと願った。


「ああ……、退屈だ」


 悠人が溢す。最早独り言に近かった。


「そうは思わねえか?」


 会話がこっちに飛んできた。ずっと1人で喋っていれば良かったのに。


「まあ、そうだね……。勉強なんて退屈なもんだよ」


「……」


 悠人は僕の顔をじっと見ている。


「それにしては、お前は楽しそうなんだよな」


「えっ。いやいや。そんなことないよ。勉強が楽しいわけないじゃない」


「……。へえ~」


「う、うん」


 退屈なのはこっちだった。僕にとってこの時間には何の意味も無い。僕を虐めているこの世で一番嫌いな奴と、何の生産性も無い会話をし、ただただ無駄な時間が過ぎていく。それだったら予習するか嫌いな筋トレをしている方がまだマシだった。


「ああ――、でもそういえば。塾に1人だけ良い女が居たな」


「え。そんな人居たっけ」


 僕は瞬時に頭を回転させた。何やら嫌な予感がした。


「ああ。居る。英語を受け持ってる、涼子とかいう女だ。アイツは良い。妙に色気があるし、あれはきっとEかFくらいある。この前谷間が見えたからな。お前も知ってるだろ」


 最悪だった。それは僕が最も恐れていたことの1つだった。涼ちゃんとコイツを近寄らせたくなかった。


 授業があるから物理的にそれは無理だとしても、悠人に涼ちゃんへの興味を抱いて欲しくなかった。僕は何とか涼ちゃんへの興味が失せるよう唆す。


「ああ、顔は分かるよ、僕も教えて貰ってるし。でもそんなに良い女かな? それだったら緒方さんの方が魅力的だと思うけど。なんかおばさん臭いし、雰囲気も悠人に合ってないよ。僕はあんまりタイプじゃないな」


「そうか?」


「うん、そう思う。何処にでも居そうなタイプって感じ」


「なんかあれだな」


「何?」


「お前が誰かを貶すなんて珍しいな」


「いやいや、そんなことないよっ、僕こう見えても毒舌だし。裏では色々言ってるよ」


「……お前、俺のこと言ってんじゃねえだろうな?」


 僕は全力で顔の前で手を振る。


「ないない。悠人は貶すとこなんて無いでしょ。言うんだったら他の奴だよ。――将吾とか」


 僕は適当に名前を出した。すると悠人が鼻で笑う。


「へえ、そうか。そういやあれ以来お前ら仲悪くなったんだってな。将吾も言ってたよ、何で淳史なんかと今まで仲良くしてたのかって」



「へ、へえ」

 僕は軽くショックだった。自分だって今会話の成り行きで将吾を落としたのに、僕は自分勝手な奴だ。でもそう感じたのだから仕方ない。


「それより悠人は緒方さんと付き合ってるじゃん。僕本当に羨ましいんだよね。実は1年の頃緒方さんのことちょっと好きだったんだよね。可愛いし、優しいし」


「はあ?」と悠人が笑う。


「アイツが優しい? 嘘だろ? ホームレスに唾吐き掛けるような奴だぜ。有り得ねえよ。お前が知ってるアイツなんて作り物だ」


「そ、そうなんだ……。いやでもさ、可愛いのは間違いないじゃん。皆言ってるよ、悠人と緒方さんが学年で一番のカップルだって。それ以外見当たらないよ」


「だから学年じゃなくて学校一だろ。そこ間違えんなよ。


 でもなあー、せいぜい学校の中での話なんだよな」


 悠人が煙草を地面に擦り付ける。それが様になっていて、僕はまた嫌な気持ちになった。外見が良いというのはそれだけで何でも絵になってしまう。


「良いじゃん。緒方さんを横に置いて歩けるなら最高だよ? 僕だったら鼻高々だね」


「お前と一緒にすんじゃねえよ」


「ご、ごめん」


「だってよ、他の中学の奴等なんて高校生とかと付き合ってるんだぜ? 大学生の女と付き合ってる奴も居るな。


 お前には分かんねえだろうけどよ、やっぱり中学生と高校・大学生じゃ女の肉付きが全然違えんだよ。俺も前に不良仲間の姉貴で高3の人が居て、ヤらして貰ったんだけどよ、麗子とは全然違ったわ。柔らけえし、アソコも熟してる。肉付きが良いとぶつかる時気持ち良いんだよ」


「う、羨ましいね」


 それは本心だった。


「だからよ、そろそろ乗り換えてえんだよ、もっと良い女に。あの涼子っていう女なら俺はアリなんだが何とかなんねえかな」


 僕は焦った。  


「あっ、ああっ、そういえばそうだ。あの先生彼氏が居るって聞いたことがあった。同じ大学の先輩で、確かアメフト部の主将とか言ってた気がする。もう2年も付き合ってるんだって。大学内でも有名なカップルらしいよ」


「へえー」


 悠人は立ち上がる。


「じゃあそろそろ他の男を試したい時期だな。――狙ってみるか」


「え? ちょ、ちょっと」


 悠人は戻って行く。僕のことは放っておいて、そのまま扉の向こうに消えて行った。


「何でそうなるんだよ」


 僕の独り言が階段に落ちた。今分かったのは、僕とアイツとじゃ思考回路が全然違うということだ。アメフト部で2年付き合っている男が居て、そろそろ他の男を試したい? どういう考えなんだ。お前みたいなチャラチャラした奴ならそうかもしれないが、涼ちゃんはどう考えてもそんなタイプじゃない。それに人から彼女を奪うことや、彼女を捨てることに何の躊躇いもないのか。まるで文房具を買い替えるみたいだった。虫唾が走る。


「でもどうしよう」


 何とかして涼ちゃんと悠人が接近するのを阻止しなければ。悠人にはこれまで色んなものを奪われている。将吾との友情、サッカー部、お金、教室での居場所、形がないものを含めればもっと沢山だ。人間としての尊厳や、少しだけあった自信など。


 これ以上悠人に何も奪われたくなかった。今の僕にとって涼ちゃんは一番大事だ。何か良い方法を探さなくてはならない。

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