第2話 此方より彼方へ
「~~♪~~♪」
飲食店と思しき店内に、鼻歌を歌いながら掃除をする女性が一人、四人掛けのテーブルを、布巾を用いて拭いている。
それだけなら、何の違和感も無い普通の掃除だが、女性の動きに合わせ、他のテーブル全ても独りでに拭かれていく様は、いささか違和感の強いものになってしまっている。
ふう、と、女性が動きを止め、指を鳴らせば、まるで手品のようにテーブルの上にあった布巾達が空中に解けて消えた。
「《よし、お掃除終わり、あとは夜までにお料理の仕込みを済ませるだけね》」
そう言って女性が奥へ歩き出したと同時、カラン、という鈴の音と共に、店の扉が開かれる。
「《あら? まだ準備中だけれど、どなたかしら?》」
「営業前にすまないアージェ、何分、少々厄介なことになっていてな」
扉に爪を掛けつつ入ってきたのは、人型の昆虫といった体の男、ギラファだった。
「あらギラファちゃん、日本語で挨拶なんて珍しいわね、どういう風の吹き回しかしら?」
踵を返し、入り口まで移動してきた女性、アージェは、同じように日本語でそう問いかけつつも、大体の事情は掴めたといった表情でギラファの後ろへ視線を向ける。
「初めまして、私はアージェ、この酒場『銀月亭』の店主をしているわ」
視線の先、ギラファの背後へ隠れるように寄り添っていた影が、一瞬びくりと震えながら顔を出す。
「あー、どうも初めましてっす、功刀・蜜希っていいます」
告げた名前に、一瞬だけアージェは驚いたような顔を見せたが、それはすぐに満面の笑みへと変わった。
「あら、あらあら、なるほどねぇ、ギラファちゃんが厄介っていうわけね」
「……??」
困惑する蜜希へ手招きしつつ、アージェがテーブルの一つを指さして告げる。
「そっちの話も聞きたいし、そこに座って待っていてくれるかしら? 営業時間前だけれど、軽い飲み物くらいはごちそうするわよ?」
●
「なるほどね、そこをギラファちゃんに助けてもらったわけね」
「そうっすね、あの時ギラファさんが居なかったら、今頃蜥蜴のお腹の中だったっす」
アージェと名乗った女性にサーブされた紅茶を飲みつつ状況説明すること10分。一通り語り終えた自分は、息を吐きつつ椅子の背もたれへと体を預ける。
「それで結局の所、ここは一体どこなんすか?」
まぁ何となく予想はついてるというか、認めたく無いだけで分かってはいるんすけどね……
だからこそ、誰かほかの人の口から断言してもらうことで、納得と諦めを得るしかないのである。
「そうね、蜜希ちゃんも薄々分かってるでしょうけれど、ここは、貴女の居た世界ではないわ。……そうね、そっちの流行りで言うなら、異世界って所かしら?」
「あ――、やっぱりそうなんすね……って、ん?」
アージェさんの告げた言葉に、何やら引っ掛かりを覚えた。
異世界であるということではない、その直前の言葉だ。
「……こっちの流行り?」
まるで、自分の居た世界のことをよく知っている、それも、最近の流行りというのなら、現在進行形で自分の居た世界の情報を入手しているということになる。
「ふふ、意外と注意深いのね、そう、私はこっちの世界にいながら、定期的に貴女の居た世界……そうね、地球と呼びましょうか、地球側の情報を知ることができるの」
「……は?」
あまりにも突拍子もない発言に、思わず開いた口が塞がらない。
ちょっっとまって!? どういうことっすか!?
見れば、横でギラファさんが肩を竦めていた。
「……やれやれ、まずは軽い説明からさせてもらうが、君の様に此方の世界へ何らかの理由でやってきた人々を、此方では異境の民と呼んでいる。
そして、呼び名があることからも分かるだろうが、異境の民は時折といった頻度で此方の世界へとやって来ている」
ギラファさんの爪がアージェさんを指さし、さらに言葉を続ける。
「そこにいるアージェは、そうした異境の民の専門家でな、彼らを地球へと送り返す役割も担っている」
ちょっと待て、と自分は右手を前に突き出した。
「え? 帰れるんすか? そんなにあっさり?」
「ええ、多くの異境の民の人達は、此方での記憶を消すことを条件に地球へ送り届けて居るわね」
「ええ……、何というか、異世界ってそんなに簡単に行き来できていいもんなんすか?」
「……まあ、普通はダメね、少なくとも、こっちの世界の人を地球に送るには、それこそ世界規模での準備と儀式が必要になるわ」
そう言ってアージェさんが指を鳴らすと、淡く光る糸が浮かびあがり、指の動きに合わせて空中に図を描き出す。
……ファンタジー極まってきたっすね
よく考えると横に座るギラファさんの存在だけでお釣りが来るほどファンタジーなのだが、やはりこうした不可思議現象を目の当たりにするとより実感が湧いてくるものだ。
そう考えていると、光の糸は二つの地球儀を上下に並べた様な立体図を作り出す。
「上の円が蜜希ちゃんの居た地球、下の円がこっちの世界ね。この二つは異なる時空に存在していて、基本的に交わることはないの」
けれど、とアージェが指を鳴らすと、二つの世界を模した球がゆっくりと上下に動き出す。
「この二つの世界はいつも同じ座標にとどまっている訳では無くて、一定の周期性を持って浮き沈みを繰り返しているの、そして――」
二つの球体が異なる周期で揺れていく中、不意に、地球側の下端とこちらの世界側の上端が接触する。
「大体五年周期くらいで、こうして二つの世界に接点が生じるのだけれど、この時、地球側からこちら側へ落とし穴の様に一方通行の門が発生することがあるのよ。」
「一方通行だから、地球から此方へは来れたとしても、此方から地球へ行くことはできない、落差数百メートルもある滝の上流から滝壺へ落ちることは簡単でも、それをバタフライで登りきることは人間業じゃないでしょう?」
「いや高さ数百の滝から落ちたら人は死ぬと思うんすけど、まぁ言わんとしてることは分かったっす」
「でも、だとしたら向こうには帰れないってことになると思うんすけど?」
そうだ、アージェは先程、自分の様な者を地球へ送り返していると言っていた。しかし、今の説明を聞く限りそれは不可能なように思える。
「そうね、普通の手段では帰れない、けど、私には普通じゃない手段があるの」
そう言ってアージェは二つの模造の内、地球側を引き寄せると、そこから一本の糸を自分へと伸ばしてきた。
「さっきから見せている通り、私は自分の魔力で紡いだ糸を操ることができるの、そして、その本質は『紡ぎ、編み、繋げる』こと」
地球側から伸びた糸、それが自分の手首へと結びつくと、ピンと糸が張り、僅かに模造へ引っ張られるような張力が掛かる。
「元居た世界だもの、蜜希ちゃんと地球には強い『縁』があるわ、それはこちらに来ていても完全に切れることはない。
それをより強固に結び付け、引き寄せることで、蜜希ちゃんを地球側へ引っ張り上げる、と、簡単に言うとそんな感じね」
指の音が響き、模造が手編みのセーターの糸を解くように消えていく。
しばしその光景に目を奪われていたが、アージェが咳ばらいをする音に意識をそちらへ戻す。
「この繋がりはそう簡単に消えるものじゃない、少なくとも数年は私の力で向こうに返してあげられる。――それを踏まえた上で、貴女に問うわ」
先程までとは違う、まるで心の奥底を見透かされている様な声音に、思わず体が強張る。
一息
「今すぐ向こうへ戻るか、しばらく此方に留まるか……蜜希ちゃん、貴女自身は、どうしたいのかしら?」
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