えげつない夜のために 第四話 ノロ教授
九木十郎
4-1 小さく溜息を吐いた
目覚ましが鳴った。
そして
下着姿のあられもない格好だ。
腹に掛けていたはずの毛布は蹴飛ばしてベッドの下に落ちており、寝間着がわりのTシャツも完全に捲れ上がってへそ丸出しの状態だった。
道理で腹が冷えると思った。
が、今はそんなコトは問題ではなかった。
目覚ましは掛けていなかったはず。
何しろ帰って来たのは明け方だったのだ。
アレの始末を着け、取り敢えずヤツの張った結界を再度取り繕うのに思いの他手間取ってしまった。
散らかしたまま後回しにするほどズボラではないし、まさか血みどろな現場を、誰もが出入り自由な状態で放って置く訳にはいかない。
思わぬ完徹を埋め合わせる為に本日は自主休校の予定で、昼過ぎまで眠る予定だったのである。
「誰だタイマー入れたのは」
叫びはしたものの下手人は知れている。この部屋でそんなことをする輩は一匹しか居ない。
「デコピン出てこいっ。また勝手に目覚まし弄ったな」
にゃあと鳴き声は聞こえたが姿は見えない。
己の腹が空いたので餌をよこせと催促しているのだ。
やることだけやって鳴き声だけ返し、姿は眩ましたままなどと確信犯にも程がある。
妙な知恵ばかり付けやがってと腹を立て、もう一度吠えたらどしんと部屋が揺れた。
隣人がまた壁を叩いたらしい。
「うるせえ」と薄い壁越しに怒声が聞こえてきた。
こんなしょうもない事で諍いを起こす訳にもいかない。
聞こえよがしな舌打ちの後に台所に出向き、冷蔵庫の中から中身のまだ残っているカリカリを皿の上に出した後、再びベッドの上にひっくり返った。
「あたしは寝るからな。二度と起こすな」
毛布にくるまり二度寝しようとしたら今度はスマホが鳴った。
見れば学校からで本日は欠席なのか、如何なる理由でそうなのかとお伺いがあり、女性特有の体調不良ですと返事をしてそのまま切った。
休むと上司に連絡はしたのに、何故本人が派遣先より詰問されるのか。
何という縦割り行政かと憤慨した。
苛立ちもそのままに目を瞑ってそのまま安息の園に落ちて行こうするのだが、どういう訳だが睡魔は遠く旅立ってしまい戻って来そうにも無い。
それでもしばらくは未練がましく、何度も寝返りをうちながら無駄な足掻きを繰り返した。
小一時間も経った頃、どうにも安息は訪れそうもないと悟ると諦めてベッドから抜け出し、冷蔵庫からペットボトルのアイスコーヒーを取り出した。
一息で半リットルほどを飲み干す。
げふ、と一息吐いた後に「やれやれ」と肩を落とした。
食事を終え、本棚の上で惰眠を貪っていたほぼ真っ黒な毛むくじゃらであったが、ぴょんと飛び降りて来ると足元にすり寄ってきて「にゃあ」と鳴いた。
眠るのではなかったのかと問うているのだ。
「やかましいキサマのせいだ。すっかり目が冴えちまった、この責任どうとってくれるんだ」
掴まえようとするとするりと逃げる。
「ふざけるな」と悪態をついた。
ひとしきりの呪詛を唱えた後、眠れないなら食事でもするかと諦めて、再び冷蔵庫のドアを開けた。
よく考えたら、昨夜夕刻に茶漬けとモロキュウを食べたきり何も口にしていない。
ど真ん中に鎮座している昨日買ってきた惣菜に手を出す気分では無く、厚切りにした多量のベーコンと何個かの卵とで、フライパンから溢れそうなサイズの巨大なベーコンエッグを作り上げた。
最初はパンに乗せられるサイズにするつもりだったのだが、何故かこうなってしまった。
まぁいいかと諦めてナイフで切り分けると、何枚ものトーストと何個ものトマト、そして新しく開封したパック入りの牛乳とを消費しながら、取り敢えず全部を胃の腑に収めた。
分け前を欲しそうにしていたデコピンが最後までじっとこっちを見ていた。
が、素知らぬ振りだ。
皿の上が空っぽになると今度は恨めしげに「にゃあ」と鳴いた。
「飯はもうあげただろ。それ以上食ったら豚になるよ」
食後の珈琲はホットと決めているので、食器を洗いがてらドリップケットルに水を入れ火にかけ、珈琲豆と手挽きミルの準備を始めた。
「ちょっと根を詰めすぎたかね。
あんたはどっか行ってたから知らないだろうけれど、次の赴任地がもう決まってんだ。後片付けは手早く済ませないと。
あぁ?やかましい、きっついものはきっついんだよ。
ドカチンの建機だって夜はお休みだ。ノンストップで仕事出来るか。
アンタだってあたしと同じ屍人形のくせに。
その小さな頭蓋骨の中に猫以外何種類もの脳ミソをムリクリねじ込んだクリーチャー、なに上目線でモノ言ってる。
訳知り顔で御託並べるな」
端から見れば猫相手の独り言にも見えるが、そうじゃない。そもそもコイツは猫ですらなく、脳で会話するネコモドキでしかないのだ。
そして本人の気が向いたときだけ、しかも気の向いた相手にしか通じないというのがまた腹立たしかった。
ごりごりと手回しのミルで豆を挽き、専用ケットルのお湯が沸いたのでペーパーフィルターと三つ穴のドリッパーを用意して珈琲カップへ直に乗せた。
サーバーは要らない。
一杯だけなのでこれで充分だ。
「別に焦ってなんかないさ。
被害の規模から言えばいつものレベルだよ。
アレも平均よりちょっと上くらいで大したこと無かったし。
でもだからといって丸きりスッキリさっぱりって訳じゃない。
学校の下らん体面とやらに配慮した挙げ句、予定外の肉塊がごろごろ出来上ったとなっちゃ話は別なんだよ。
お子様達の泣き顔や取り乱す様は飽き飽きなんだよ。
まぁ何時ものように処置して、みんな直ぐに忘れっちまうんだけどね」
キコカは足元に再びやって来たデコピンを見下ろしてふんと鼻息を荒くした。
その合間にもじっと金色の目が見上げ続けていた。
「いや思い出すなんて事はない。確かに無意識で封印しているだけだから、記憶が完全に消えて無くなっている訳じゃあないさ。
でも有り得ないね。
無理にこじ開けて其処を覗き込んだら『戻って来られない』から。
完全に扉を開いてしまった者はみんな発狂したって聞いてる、って前に話さなかったっけ。聞いてない?
聞く気が無くてスルーしてただけだろ」
件の出来事を見たり聞いたりした記憶は、処置によって無かったことにされる。
記憶の齟齬や出来事の辻褄が合わないことは多々残るものだが、人間の脳ミソなんて適当なもので、日常とかけ離れたモノは自分勝手に解釈して、都合良く、無理矢理納得してしまうものなのである。
無意識の領域に掛けた暗示が解けることはない。
解けないように本人が自分自身に鍵をかけるからだ。
心が壊れないよう自分で自分を守っているからだ。
そして人と人の無意識は全て繋がっている。
集団無意識というヤツで、そこには人類発祥以来全ての知恵と知識が詰まっているのだそうだ。
ちょうど無数のパソコンをネット回線でつなぎ、全てを一つのグリットコンピュータとして使うように、だ。
そこには消えた忘れたと思っている記憶も含め、あらゆる知識全てが保存されている。
だからそこを覗き込むことが出来れば、有史以来の人類の知恵と真理の全てを手にすることが出来るのだという。
だが知った途端、その人物の人格理性記憶の全てが呑み込まれ溶けて霧散してしまうのだそうだ。
ちょうどコップ一杯の真水を海にこぼしてしまえば、二度とソレを真水として汲み上げることが出来ないように。
ひとつまみの塩が溶けて消え去るにも似ている。
だからあの特別製のクスリと特別の言葉で編み上げられた暗示をかければ、もう外に漏れ出てくることはない。
そして万が一にでも封が解けたらそれこそ全てが終了だ。
当人の人格はあっさりと崩壊するだけの話なのである。
全てを受け止めて耐えるにはヒトの自我では足りないらしい。
フィルターへ空でお湯を通した後にカップの中のお湯を捨て再びドリッパーをセット。引いた豆をフィルターの中に入れた。
少量のお湯を注ぎ二〇秒ほど蒸らした後は、小刻みにお湯を垂らしてゆくだけだ。
「でも珍しいね。あんたがそんな話に興味を持つなんて。普段は我関せずのくせにさ」
煎れ終わった豆とフィルターを三角コーナーに捨てるとカップを取った。
やはりこの香りがいいと思った。キッチンに立ったまま一口飲む。
「人間なんていつかはくたばっちまうんだ。少し早いか遅いかの違いがあるだけで。それに思い出が残っていなくったって、全てが消えちゃう訳でもないし」
今日は休むと決めたものの、明日からは本格的な後始末が待っている。
キコカは小さく溜息を吐いた。
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