小説の文章とは

 物語、とりわけエンターテインメントの作品を創作する場合、漫画やアニメや実写映画などに比べて、小説は比較的書きやすいと考える人たちがいます。

 文字だけだから簡単だと思うようです。


 漫画は絵で表現するものであり、時には色を塗ります。

 アニメーションは動かすために膨大な数の絵を必要としますし、音声や音楽や効果音も付けなくてはなりません。

 実写の映画やドラマは、俳優や衣装メイクやカメラ撮影など、専門的な知識と技術を持つ人が力を合わせて作るものです。

 その点、小説は一人で完成させることができ、パソコン一台、または原稿用紙と鉛筆があればどこでも執筆できるため、手軽そうに見えるかも知れません。

 中には、日本語はほとんどの日本人は話せるし読み書きできるのだから、小説は誰にでも書けると思う人すらいるようです。


 しかし、それは大きな勘違いです。

 日本語が使えることと、小説の文章が書けることは同じではありません。

 その二つを同一視するのは、走るのは誰でもできるからオリンピックのマラソン競技に出場するのはたやすいとか、歌は誰でも歌えるから歌手になって人を感動させるのは大したことではないと言うようなものです。

 小説を書く難しさはどこにあるのか、ここでは特に文章に注目して語ってみようと思います。



 さて、日本語が読み書きできる能力と小説を書ける能力は違うことを述べるのに、よい材料があります。

 大学などの入学試験です。

 試験問題の現代文には、大抵の場合、評論などの論説的文章と小説が出題されます。

 なぜ、片方だけ、または片方を二つではなく、この二種類の組み合わせなのでしょうか。

 それは、この二つは全く別な書き方をされているからです。


 小説や詩などの文章を、ここでは文芸的文章と呼ぶことにします。

 文芸的文章は、論説的文章と大きく異なります。

 具体例を挙げて説明しましょう。


  明けぬれば 暮るるものとは 知りながら なほうらめしき 朝ぼらけかな

 (夜が明ければやがて日が暮れてまた夜が来ると分かっていますが、それでもあなたの家を出て我が家に帰らなければならない夜明けが恨めしいです。)


 百人一首の一つです。

 夜に女の家を訪れ、翌朝帰宅した男が女に贈った歌で、要するに、「また今夜会えると分かっていても離れたくないくらいあなたが好きだ」と言いたいのです。

 しかし、どこにも「あなたが好きだ」と書いてありません。


  大江山おおえやま いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず あま橋立はしだて

 (大江山や生野を通っていく道は遠いので、今母がいる天の橋立の辺りには行ったことがなく、手紙も見ていません。)


 これも百人一首からです。

 作者の小式部内侍こしきぶのないし和泉式部いずみしきぶの娘です。

 「君の和歌は歌人として高名なお母上が作っているのではないか」と知り合いがからかったところ、その場で即座にこの歌をみました。

 「私の歌は自分で作っています!」と実力を見せているのです。

 しかし、どこにも「母の代作だいさくではありません」という言葉は見えません。


 このように、文芸的文章というのは、言いたいことをはっきりと言葉にして伝えないのです。

 婉曲えんきょくな表現という言葉がありますが、言葉にされてはいないけれど分かるように書くのです。

 読者には想像して察する能力が求められます。


 これは論説的文章とは全く違います。

 評論などは主張をはっきり書いてその理由を説明し、想定される反論や疑問を論理的に否定します。


 私たちが日常生活で読み書きしている文章は、基本的にはこの論説的文章です。

 会社の業績報告書で、「今年度の我が社の売り上げは、はっきり金額を書いていませんが、想像をふくらませてご理解ください」と書くでしょうか。

 または「明日の旅行の目的地と宿泊場所は、はっきり書きませんでしたが、配った冊子をよく読んで察してください」と言われますか。


 一方、小説は、以下のような文章が珍しくありません。


 「そんな……」

  彼女はまじまじと私を見つめ、はっとして視線をそらし、うなだれた。


 言葉にされなかった「……」の部分で彼女は何を言いかけたのか、「まじまじと見つめた」理由、「視線をそらし、うなだれた」わけ、この時の彼女の気持ちや考えを、作者ははっきり書かないけれど、前後の文脈の中で読者が想像できるように書くのです。


 また、ある女性はやさしい人だと読者に伝えたいとします。


 一、「彼女はやさしいな」「ああ、そうだな」

 二、友達や家族がそばにおらず一人ぼっちだった子供に、彼女は声をかけて自分のテーブルに誘い、ケーキを食べさせてあげた。


 二のように表現するのが小説の基本的な書き方です。

 一のように言葉ではっきり書くのではなく、エピソードや行動で表現するのです。


 なぜ文芸作品ではこうした婉曲な表現をするのでしょうか。


 想像してください。


 一、彼は言った。「あなたが好きです」女は答えた。「私も」

 二、男は手を伸ばし、女の手をそっと握った。女はびくりと体を震わせたが、ぎゅっと男の手を握り返した。黙ったまま、二人は手をつないで歩いていった。


 一、母親は言った。「あなたは大切な娘よ」

 二、熱が出たから学校を早退したと電話で母に言ったら、仕事が忙しいはずなのに駆け付けてきてあれこれ看病してくれた。


 どちらが「お互いの好きな気持ちが通じ合った」「母から大切に思われている」と実感するでしょうか。

 状況によりますが、二の方が心が震えませんか。


 これは、その時の彼等の気持ちを自分のことのように想像するからです。

 言葉で言われたり書かれたりしたことは、頭では理解できても、心に届かないことがあります。

 口にはされないけれど態度や表情や行動に表れている相手の思いを自分で発見した方が、驚きや喜びといった感情が引き起こされ、より強く感動したり実感したりするのです。


 松尾芭蕉ばしょうは言いました。

「言いおおせてなにかある。」

 全部言ってしまってどうするの、という意味です。


 俳句の核心のところは、言葉にしないのです。

 読者に頭を使って想像させるように作るのです。


 小説も同様です。

 とりわけ、主人公や登場人物たちの魅力や感情を伝える時や、読者に彼等を愛したり共感したりしてほしい時は、読者に自分で気付かせるように仕向けます。

 小説はテーマを直接言葉にするかわりにエピソードで伝えようとした文章なのです。


 気持ちや考えを言葉にすることはとても大切です。

 はっきり言葉にしないと伝わらないことがあるから、人類は言葉を発明したのです。

 会社の売上高や一日の行動予定のような「数字」や「事実」がその代表です。

 言葉で伝えれば、誰でも分かります。


 一方、登場人物の「心情」はエピソードや行動で示す方がよく伝わる場合があります。

 人の心は複雑で、さまざまな感情や思惑おもわくが混じり合っていて、愛や憎悪、嫉妬しっとや遠慮といった言葉一つでずばりと言い切れるとは限りません。

 心や感情は目に見えませんから、そもそも言葉で語るよりも察する方に私たちは慣れています。

 しかし、ほのめかすやり方だと正しく読み取れない人が出る可能性があり、人によって解釈の違いが生まれることもあります。

 そこが面白さであり、難しさなのです。


 言葉にする方が多くの人に事実を確実に伝えるのには有利です。

 論説的文章を読み書きする能力は、人が生きていくのに欠かせません。

 一方で、はっきり言葉にされないものを想像して理解する能力も、人には必要なのです。

 だからこそ、大学の入学試験に両方の文章が出題されるのだと思います。



 さて、文芸的文章とはどういうものか述べましたが、厳密に言うと、小説の全ての部分が「想像して察してもらう」書き方をされているわけではありません。


 一二八五年、壇ノ浦の戦いで平家は滅びた。


 こうした事実を察してもらうのは不可能です。

 ゆえに、事実をぼかさずはっきりと書くこともあります。

 私はそれを「説明」と呼んでいます。


 これに対し、はっきり書かずに言いたいことをほのめかす書き方を「描写」と呼んでいます。

 これは私の言い方で、描写という言葉の辞書に載っている意味とは違いますのでご注意ください。


 具体例を挙げましょう。


 一、夏が来たぞ!

 二、目には青葉 山ほととぎす 初鰹はつがつお


 一、彼女は大変な美人だった。

 二、登場した瞬間、彼女は大広間の視線をひとめにした。漆黒しっこくの質素な喪服もふくが一瞬で他の女性たちの豪華な衣装を百年の流行遅れに変え、つつましげに伏せられたまなざしは満面の笑顔よりも人々の心臓の鼓動を激しくさせた。男たちはそろって驚愕と讃嘆さんたんと興味の表情を浮かべ、女たちは連れのほほのゆるみ具合ともらした溜め息の大きさに比例して眉をつり上げた。


 上記二例で、一が「説明」、二が「描写」です。

 小説はこの両方を駆使くしして書かれています。


 「説明」は、物語の理解や進行に必要な情報を手早く正確に読者に与えるために使います。

 対して「描写」は、読者に実感してほしい、深く認識してほしい時に使います。


 書き手としても読み手としても重要なのは、何をどこまで読み取ってよいのかを判断する力です。

 とりわけ「描写」に関しては、はっきり書かれていないことを読み取る力と同時に、あくまでも本文にそくして想像してよい範囲を限定し、作者が意図していないことを勝手に読み取らない力も問われるのです。

 どういう材料が提供されていて、何がほのめかされていて、どこからは読者の嗜好しこうや想像に任せているのかを自覚して制御せいぎょする技術が書き手には求められます。


 ライトノベルが小説らしくないと言われることがあるのは、「描写」するのではなく、登場人物の感情や主人公の考えをそのままずばりと書いてしまう文体の作品が多いからでしょう。

 分かりやすくはなりますが、読者が考えたり読み取ったりする必要がないため、小説の醍醐味だいごみである「行間を読む」楽しさはなくなってしまいます。



 以上の通り、小説とは読者に読み取ってもらえるように、察してもらうように書くものです。

 漫画や映像作品など、絵のあるメディアでは、「描写」の内容を絵で伝えます。

 しかし、文字しか使えない小説では、全てを文章で表現しなければなりません。

 はっきり書かないけれど、言いたいことに読者が気付くように、情景が頭に浮かび、登場人物の気持ちを想像してもらえるように、言葉をつづらなければならないのです。 


 挿絵さしえがなく、どこにも「盛大なパーティ」とか「人々は興奮し熱気に包まれている」といった言葉がなくても、読者がその場の光景を思い浮かべ雰囲気を感じ取れるように書くのが小説の基本です。

 彼女が主人公に恋をしていて、主人公が困惑していて、友人がそれを面白がっていることを、内心独白や台詞ではっきり言葉にしなくても分かるように書かなくてはなりません。


 普段の生活では、レポートや報告書や感想文など、論説的文章を書く機会は多いですが、文芸的文章を書く機会はほとんどありません。

 文芸的文章をうまく書けるようになるにはどうしたらよいのでしょうか。


 想像してください。

 オペラをたことのない人が、オペラの楽譜を渡されて歌ったとします。

 オペラらしく歌えるでしょうか。

 演歌や日本の民謡に詳しいからと、そういう風に歌ったら、聞いた人は上手だねとほめてくれるでしょうか。


 答えは明らかです。

 オペラにはオペラの歌い方があります。

 それを知らずに、または無視して歌っても、オペラらしくなりません。


 同様に、小説にも小説らしい文体というものがあります。

 それは小説を読まなければ分からないですし、身に付くこともありません。

 素晴らしい物語を思い付く才能があっても、小説を知らない人が小説の文章を書くことはできません。

 文章に限らず、構成や始め方や終わらせ方、見せ場の作り方、登場人物の描き方、テーマの掘り下げ方など、小説の特徴を知らずに小説らしいものは書けないのです。


 読書家の人は学ばなくても小説の文章が自然と書けます。

 体にみ付いているのですね。

 しかし、普段小説を読まない人には簡単なことではないのです。


 結局、小説らしいものを書くには、小説をたくさん読み、小説というものをよく知り、慣れなければなりません。

 同時に、はっきりずばりと言葉で述べるのではなく、直接的な言葉を使わない遠回しな言い方や伝え方ができないかと考える癖をつけることで、文芸的文章のような婉曲な表現が自然と頭に浮かぶようになってくるのだろうと思います。

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