スミレの花が咲くように

sid

第1話 受粉

なんて綺麗な人なんだ。


 帰路に着く鈍行列車に揺られ、男は一人の窓際に立つ女性に目を奪われた。

 明るい髪色に、色白な肌の端正な顔立ちをした女性だった。それは、男が子供の頃から追い求めてきた女性の幻想そのものであり、男は一瞬にして胸が嫌に暖かくなるのを感じた。

 次の駅まではまだ時間がある。彼女が降りるのはどの駅だろうか。ひょっとしたら次の駅で降りてしまうかもしれない。

 そうなればもう二度と会うことはできないだろう。ならいっそ、後をつけてみようか。欲望に任せて盗撮でもしてみようか。

 男は様々な非道を考えてはみたものの、その場から動くことはできなかった。

 というより、そもそも声をかける勇気すら男には無かった。

 そうしてただ時間と風景だけが流れていき、気づけば次が自分の最寄駅という所まで来ていた。

 女性はまだ降りてはいない。男はただそれが嬉しかった。まだあの人と同じ空間に居られる。たまにチラリと女性の方を見ては、誤魔化すように外の風景を眺めるといったことを繰り返していた。

 何度か目が合いはしたが、特に怪しまれる素振りはない。

 列車は最寄り駅に到着した。ドアが開き、外の空気が車内に充満するのを感じる。…降りたくない。が、降りなければ列車は隣町へ行ってしまう。男は重苦しい足を踏み出し列車を降りり、名残惜しそうに女性の方を見た。

 …居ない。

 居ない、ということは…まさか。

列車を降り、改札の方に目をやる。

 そこにはあの麗しい人が居た。男は歓喜に打ち震えた。女性は立ち止まってスマホをいじっていた。

 後をつけようなんて考えはしなかった。あの人と同じ町に住んでいた。その事実だけで男は十分に幸福だった。

 やけに改札を出る足取りが軽い。女性を脇目に、男は意気揚々と駅を後にした。

 空は夕暮れ色に染まり、夜の訪れを知らせている。

 …あんな人が彼女だったらいいな。

 いや、付き合えなくていい。たまにちょっと会って、何気ない会話ができたらそれでいい。

 男はそんなことを考えながら、薄暗い歩道を歩いていた。

 無論、それが叶わない願いであることは分かっていた。しかし、淡い願望を抱いてしまう。

 男は一人で暮らしている。友達は居ない。

大学生活にうまく馴染めることもなければ、バイトも転々としている、そんな生活だった。

 女に愛されたい。というより、誰かに愛されたいのだ。

 居てもいいと言ってほしい、誰かに甘えたい、「おかえり」を言ってくれる人がほしい。

 …一度暖まった心が、泥水のように冷たくなっていくのを感じた。

 きっと今日も、叶わない愛情を呪いながら、気絶するように、逃げるように眠るんだろう。

 玄関ドアに鍵を差し、ふと歩いてきた道を見た。

 何故だか夕暮れ色の道路が、いつもより暖かく見えた。

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