第10話 蛇口
引っ越しをした。
特に職が変わったわけでもなく、転勤があったわけでもない。言ってみれば、ただの気分転換。周りの環境を変えたくなったから。というのが引っ越しの理由。
度々引っ越しをしているため、作業は慣れたものだし、余計な荷物も持っていないので、身軽なものだ。
数少ない荷物を押し入れにしまおうとして、そこに見慣れないものを見つけた。
蛇口、だ。
あの、水が出てくる、蛇口。
それが、押入れの隅に転がっていた。
前の住人の忘れ物だろうか?
荷物をしまうのに邪魔なため、その蛇口を押入れの外に一旦出し、片付けの作業を続ける。一息ついた時にはもう日も暮れていて、喉がカラカラに渇いていた。
「どっかの地域では蛇口からジュースが出るんだよな」
床に転がしてあった蛇口を拾い上げ、何となく手近な壁に押しあてる。
「ここからビールとか出てきてくれたら、最高なんだけどなぁ」
押し当てた力が強すぎたのか、蛇口は壁に貼り付いたように動かない。まるでそこに最初からあった蛇口のようにも見えて、面白半分に蛇口を捻ると……
「わっ!」
鼻腔を擽るのは、明らかにビールの香り。
慌てて蛇口を反対に捻って止め、濡れた床を指で触って舐めてみる。
……間違いない、ビールだ。
雑巾で濡れてしまった床を拭きながら、信じられない思いで蛇口を眺める。
その後、グラスを用意し心ゆくまでビールを堪能したのは、言うまでもない。
「ビールだけじゃなくて、コーヒーとかもでてきたりしたらいいなぁ」
なんて言いながら蛇口を捻ると、出てきたのは真っ黒な液体。コーヒーだった。
「なんだこの蛇口……神様からの贈り物か?!」
調子に乗って、色々なものを出してみた。ワイン、ウィスキーなどの酒類はもちろん、お茶からスープに至るまで。
「すごい……魔法の蛇口だ!」
魔法の蛇口を堪能しまくった月。
請求された水道使用料金に目を剥いた。
通常月を遥かに超える額だった。
すぐさま蛇口を壁から引き剥がし、押入れの隅へと押しやった。
今はまた、早々に引っ越しすることを考えている。
もちろん、あの蛇口はここに残したままで。
【終】
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