禁じられた旋律 10/豹変

 研究所地下1階。

 柳田副長からの密命を受けた神室倫道、堂上久重、安倍清十郎、氷川龍士の四人は、踊り場から勢いよく出ると、無機質で寒々しい通路に出た。

 多くの部屋の扉は開け放たれ、廊下には大量の書類が散乱し、通路の最奥にある大型のエレベーターへと続いている。

 この光景は、研究所内の混乱を如実にょじつに物語っていた。

 人の気配はするものの、廊下には研究員の姿は見えず、研究室らしき部屋の大きく開いた扉の向こうから、何人かの声が漏れ聞こえてきた。


「地下1階って言っても、だいぶ階段を下りてきたな」

「ああ、結構深かったな」


 軽く息を切らした久重の言葉に、倫道も同意する。

 折り返しとなる中間の踊り場を何度も駆け抜け、ようやく扉のある踊り場にたどり着いたのだ。

 彼らの体感では、ビルの3階分ほど駆け下りてきたように感じられた。

 

「あそこの扉……」


 注意深く周囲の様子を窺っていた清十郎が、右手を軽く上げ、大きく開かれた部屋の扉を指差す。

 どうやら、その扉の奥から人の声が漏れ出しているようだ。


「よし、では――、おい! 氷川。まて――」


 清十郎は、これからの行動を共有しようと、倫道と久重たちに目配せをしたが、氷川龍士は視線を合わせず、扉へと歩いていく。

 いつも消極的だった龍士が、自分から先頭に立って扉へと歩を進める。

 そんな彼の姿に、清十郎はもとより、久重、倫道も戸惑いを隠せなかった。


「おい、龍士……」


 かけられた声にも反応せず、1人先行する龍士。

 戸惑いながらも、3人は彼を追うように、龍士が入った部屋へと続く。

 

 そして―― 目の前に広がる光景に、言葉を詰まらせた。


 100畳はゆうに超えた広さ。いや、テニスコート2面分以上はあるだろうかという広大な部屋。

 壁面から中央部にかけて、多くの機器、そして机や書棚が整然と並べられており、まさに研究室といった様相である。

 計測器や、何に使うのか見当もつかない機械が所狭しと並ぶ光景は、彼らの想像していた通りだった。

 しかし、倫道たちが目を奪われたのは、扉から入って部屋の正面。

 床から天井まで全面ガラス張りとなっており、その先に広がる巨大な空間が、彼らに驚愕きょうがくを与えたのだ。


「おい! 君たちは何者だ?」


 異様な部屋の雰囲気に呆然としていた倫道は、部屋の隅から声をかけられ、びくりと肩を震わせた。

 白衣を着た研究員が入室してきた彼らへ声を荒げたが、一番近くにいた清十郎が至って冷静に対応した。


「特務魔導部隊所属、安倍清十郎伍長であります。我々は翡翠島防衛の任を受け、先ほど到着いたしました。今は皆さん…… 職員の方の避難誘導のため、所内を回っています」

「外部の兵士? 特務…… 魔導部隊?」


 眼鏡をかけた研究員は、わずかに思案した後、何かに気づいたように両目を大きく見開き、一気に捲し立てた。


「ここは一般の警備兵も入室禁止の場所だ! 限られた人間しか入れない。軍の機密情報がある。直ちに退出するのだ!」

「それでは一緒に――」

「黙れ! 一刻も早く出ていきなさい!」

「ちょ、ちょっと――」

「早く出ていくんだ!」


 話は終わりとばかりに、清十郎へ背を向け、元の場所に戻り資料を箱に詰め始めた。

 取り付く島もない研究員の態度に、たじろぐ倫道たち。

 ししかし、龍士だけは冷たい光を目に宿し、書類整理に勤しんでいる研究員へ近づいた。

 背後へ近づく龍士に気づいた研究員は、苛立ちを露わにして振り返り、言葉をぶつけた。


「出てけと言っ――」


 言い終わる前に、龍士の右手が研究員の喉を掴み、そのまま勢いよく壁に打ち付けた。


「がっ……」

「ここの責任者…… いや、翡翠島研究所の所長、笹岡はどこだ?」


 尋常ではない殺気を纏い、前髪の奥で龍士の憤怒にも似た炎が瞳に宿っている。

 左手で研究員の首を締め上げながら、残った右手で腰のホルスターから短銃を引き抜くと、ゴリっと音がするほど強くこめかみに突きつけた。


「ひっ――」

「早く言え。時間がない」


 ゆっくりと親指で撃鉄を上げ、銃口をこめかみに捻りつける。

 研究者は、首を絞められ赤紫色になった顔を硬直させ、目尻に涙を浮かべながら小刻みに震えた。


「しょ、所長は…… した、下に……」


 首を締め上げられ苦しげに言葉を紡ぐと、ブルブルと震える右手を上げ、ある箇所を指差した。

 指先が示した場所は、全面ガラスに覆われた壁。その一番右端にある鉄製の扉であった。


「くっ…… 苦し…… がっ……」

「ふん……」


 指された先を確認した龍士は、この情報が真実かどうか判断するべく、研究員を一瞥いちべつした。

 締め上げられ、さらに顔色が紫色から土気色に変色した姿に、本心を感じ取ったのだろう。左手から力を抜くと、研究員はその場に崩れ落ちた。


「ガハッ⁈ ゴホッ…… ゴホホッ……」

「早くこの場から立ち去れ」

「ひっ! はっ、はい!」


 苦しげに咳き込む研究員の額に銃口を突きつけると、研究員は何度も頷き、這う這うの体ほうほうのていで部屋から飛び出していった。


 目の前で起こった衝撃的な出来事に、倫道、清十郎、久重は完全に動きを止めていた。

 研究員が自分たちの横を通り過ぎ、背を向けている龍士に、倫道が思わず声をかける。


「おっ、おい……」

「………………」


 しかし、龍士はその声に全く反応せず、研究員が指差した扉へ小走りで向かっていった。

 

「……おい、龍士⁈」


 久重も声をかけるが、まるで耳に届いていないかのように、何の反応もない。やがて龍士は鉄扉を引き開け、その先へ進んでいく。


「おい! 待って……」

「龍士!」

「一体どうしたんだ……」


 久重が声をかけると同時に龍士の後を追う。倫道と清十郎も後に続いた。


 分厚く重い鉄扉をくぐると、小さな踊り場から階下へ繋がる階段が伸びていた。

 3人は目の前の光景に足を止める。


 階下は約10メートルほどの深さ。

 部屋の広さも、先ほどの研究室とほぼ同じくらい広い。

 中央に置かれたのは、軍用トラックほどの大きさを持つドーム型の機械のような物体。それには大小さまざまなパイプやケーブルが取り付けられ、天井、床、壁へと延びている。

 まるで機械仕掛けの巨大な心臓を連想させる光景だった。


「なっ、何だこりゃぁ……」


 どこか禍々まがまがしさを感じさせる雰囲気に、思わず驚きの言葉を漏らす久重。

 清十郎と倫道も、固唾かたずを呑んだ。


「なるほど…… ガラス張りのこの部屋は、階下の様子を見るためのものか……」


 清十郎の呟きに、倫道が後ろを振り返り、改めて全面に張られたガラスを見る。


「気が付かなかったが、随分と厚みがあるガラスだな。それにこの扉も…… まるで爆風でも防ぐ様な……」

 

 倫道の言葉に、久重と清十郎はある単語が頭に浮かんだ。


『実験室』


 ここは研究所だ。多くの実験や検証を行うのは当然だろう。だから研究施設なのだ。

 軍の機密と言っていた。兵器の開発などを手がけているのかもしれない。

 そのような設備や部屋があるのは、ある意味当然のことなのだ。


 しかし、3人は何かを感じ取っていた。

 扉を開けた途端、明らかに空気が変わった。

 まとわりつくように、彼らの体を重くする。

 言いようのない嫌悪感、忌避感を本能的に感じ取り、心臓の鼓動が早くなる。そして、先ほどから鼻を突く異臭が漂っている。

 化学的に合成された薬品などの臭い。その中に、僅かだが生臭さも感じる。

 不快な感覚だ。

 鼻が慣れてくると、その生臭さの正体に、嫌な予感を抱き始めた。


「血の臭いだ……」


 3人がその正体に気がついた時、階下で怒鳴り声が聞こえた。


「おい貴様! ここで何をしている⁈」

「止まれ!」


 既に階下に降りていた龍士に対して、2人の警備兵が銃を構え警告を発する。しかし、龍士は無人の野を行くが如く、銃を構えた警備兵へと近づいていく。


「止まれと言っている! これ以上近づくと――」

「俺の邪魔をするな‼︎」


 警備兵は、警告を言い終わる前に龍士により銃を取り上げられ、その銃座で頭を殴られ失神した。

 まさに一瞬の出来事。

 慌てたもう1人の警備兵が引き金を引こうとした瞬間、腹部に凄まじい衝撃を受け、そのまま意識を失った。

 龍士の回し蹴りが警備兵の鳩尾みぞおちに入ったのだ。


 2人の警備兵を無力化し、辺りを見渡した龍士は、別の部屋へ繋がる扉を開けて闇の中へ消えていった。

 龍士の豹変ひょうへんぶりに、3人は呆然と立ち尽くしていた。


「あっ⁉︎ ぼーっとしている場合じゃない! 龍士を追わないと!」

「おっ、おう!」

「そっ、そうだな」

 

 倫道が声をかけ、走り出す。

 久重と清十郎も勢いよく階段を駆け下りていく。


「あいつ、どうしちまったんだ?」

「本当に『アレ』は、俺たちの知っている氷川龍士なのか?」

「ああ、俺も信じられない…… でも、今はそんなこと言っている場合じゃない! とにかく止めないと」


 各々が心情を吐露する。

 今まで一緒に生活してきた同僚の余りの変貌に、心が追いついていかないのだ。しかし、今はそんな時ではないと、倫道が2人を叱咤する。

 今は戦場、与えられた任務がある。そして、どんな理由があるにせよ、同期の暴走を止めなければならないのだと。

 

 勢いよくフロアに降りると、倒れている警備兵の様子を確認する。


「良かった。生きてる……」

 

 失神しているだけと分かり、皆が一様にほっと胸をなど下ろす。

 静かに息をしている警備兵たちを壁際にもたれかけさせ、3人は龍士が消えていった扉をくぐっていった。

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