第8話 とある従者と主人の会話
ノーズブラック領に嫁いで早いものでもうすぐひと月になる。
学院にいたころ以来の魔道具学の研究ができる!と喜び勇んでいたのもつかの間、私は一つの壁にぶつかっていた。
「素材になる魔獣が……手に入らないわね……。」
「まあ、学院とは全く異なる環境ですからねぇ。ここは。」
羽ペンを力なく机に転がす私の傍ら、呑気なマルゥの言葉が部屋に響いた。
「うぅ……機材についてはお高いものが多いから私物で当面は工面しつつ、必要に応じてオスカーさまに相談すればいいかと思っていたけれど、まさか
学院にいたころは付近に魔獣が多数生息する魔の森があったので、比較的魔道具の素材である魔獣の素体が手に入りやすかった。
一般の学生は気軽に立ち入ることは出来ずとも、討伐の任務を受けたソルディアの面々が狩ってきた魔獣はそのままもらえたし、必要な素体があれば魔法騎士団に依頼をすることも出来たからだ。
今思えば、学院で研究をするのならば比較的学院で取れやすい魔獣を材料にする機会が多かったのは当たり前だ。
王都から遠く離れたこのノーズブラック領で取れる魔獣の性質が、学院と全く異なることも。
「こうなったらこの地の魔獣の研究を一から進めるしかないけれども……そもそも屋敷に籠りっぱなしだと魔獣についての知識も深まらないし……。」
以前のシャンプーについてはすでに相談があったため、生産と流通に向けてすでに話が動いているらしい。
王都で既にハイレグシア商会が売っているものとの権利問題などもあったと聞くが、そこはワイマンさんがうまく整えたとか。
執事としてだけでなく、外部との調整役としても優秀らしい。
「幸い
「それでしたらカナンさま。旦那さまにご相談してみたらいかがですか?」
「相談……オスカーさまに?」
「ええ。旦那さまは領主として魔獣の討伐にもたびたび出向かれているのでしょう?巡回に同行させてほしいとか、そうでなくともこの領で出くわされる魔獣について教えてほしいとご相談すればよいと思います!」
マルゥの言葉は理にかなっている。
実際その土地に棲まう魔獣について聞くのならば、土地の主人……或いは実際に前線で魔獣と交戦経験がある相手に聞くのが一番だ。
その両方を兼ね備えているオスカー=ノーズブラック辺境伯。尋ねるにこれ以上適している相手はいないと言えよう。
「でもねぇ……。いきなり『魔獣について教えてくださいな』なんて突撃しに行けないわよ。夫婦ではあるけれども、仮面夫婦みたいなものなんだから。」
そう、そもそもの縁談の条件そのものが『夫婦間は不干渉』『家のことは基本家令に任せること』『妻としての役割は求めない。求めるのは領土に如何に役立つか』だ。
それを分かったうえで、むしろ条件的に丁度いいと縁談を受けたのはこちら。
事実、基本的には夫婦不干渉という言葉を守るべく、そして何より研究の基盤を整えるべく。
このひと月は時間がかち合った時に昼食を共にするくらいのことしかしていない。
いわば同じ家に住まうぎりぎりビジネスパートナー以上友人未満の関係。
何の成果もない状態でただ頼みに行くだけ……というのは正直言ってためらいがあった。
「そうはいいますけれどね、カナンお嬢さま……じゃなかった、カナン奥さま?このまま材料が偏って研究が滞るのは、奥さまもですがそれ以上に旦那さまが困るのでは?」
「うっ、」
正論をつかれて一瞬言いよどむ。その隙を見逃すマルゥではない。
「そもそも研究には環境面の把握が必要だと常々仰っているのは当のカナンさまです。それを整えないまま突っ走るのは暗雲に突き当たるだけで……。」
「あ~~、分かってる、分かってるわ!」
過去に私が学院で研究の土台もロクに固めないまま出された研究成果をやり込めた時のことを引き合いに出されれば、白旗を挙げるしかない。
ええ、もちろん。土台なくして研究為さずなんてこと、他でもない私自身が一番よく分かってます。
「でも、食事の時間もあの人ほっとんど何も話しかけてこないのよ!?こちらが天気のことや研究のことやお仕事がお忙しいか伺っても一言かえってくればいい方なのに!」
あの状態でこちらからお願いをして首を縦に振らせようなどと、私にはハードルが高すぎる。
その胸中を正しく理解したのか、マルゥはしたり顔でうなずいた。
「ええ、ええ。分かっていらっしゃるのでしたら構いません。マルゥはカナンさまのためならいくらでも動きますから。どうぞこのマルゥにご命令を。」
「マルゥ!!」
感極まって抱き着けば、くすくすと笑いとともに揺れる彼女の肩の振動が伝わってくる。
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