第13話 感謝とお礼(3)
生きた心地がしない。
戦場以外でそんな事を思うなんて想像もしなかった。
私とスーちゃん、そしてカゲロウは、横に一列に並ばされ、直立不動に立っていた。
私は、肩を落とし、お腹の辺りで手を組み、顔を俯かせていたたまれない気持ちで、スーちゃんは、気まずそうに顔を背け、カゲロウは、鳥の巣のような髪のせいで目元は見えないが無精髭の生えた口元は引き攣っていた。
「で・・・っ」
黄色い傘をさした円卓に腰を下ろした女性、白と金色の混じった髪をお洒落にカールした清楚な顔立ちの女性、マダムが迫力のある笑顔を浮かべて私達を見つめる。
しかし、彼女の胸の内の感情が表情の通りでないことは私を含めて皆、分かっていた。
その証拠に彼女は、カゲロウが御機嫌取りにサービスで出したカモミールティーにもクッキーにも手を付けない。彼女の足元に座る黒い犬だけがジャーギーを美味しそうにしゃぶっていた。
和かに微笑むマダムの目が私を見る。
その目の奥はまったく笑っていない。
スーちゃんの目よりも赤く熱いものが激っている。
「何がどうなってそうなったのかしら?・・エガオちゃん?」
私は、思わずビクッと身体を震わせた。
マダムが怒っている理由・・それは今の私の状態にあった。
粘りのあるトロミ剤を塗りたくったようにベトついた髪と肌、鼻を摘みたくなるくらいの濃縮された甘い香り、
全身にサラダ油を被ってもこうはならない。
「ねえ、何でこうなったの・・エガオちゃん?」
口調はとても優しい。
とても優しいのに私は心の底から震え上がった。
見習い時代に"鬼"と揶揄されたグルフィン卿に鍛えあげられている時も、初めての戦場に出た時もこんな恐怖は感じなかった。
誤魔化しは効かない。
私は、震える息を飲み込んで正直に話す。
「赤目蜂の巣から蜜を取ろうと大鉈を巣穴に突っ込んだら大量に溢れてきて頭から被っちゃいました」
私は、恐る恐るマダムの顔を見る。
マダムは、笑顔を浮かべていた。
いや、正確には笑顔が張り付いたまま固まっていた。
「赤目蜂?」
その声はぞくっとする程冷たかった。
「エガオちゃん、赤目蜂の巣に行ったの?」
「は・・・はいっ」
マダムの顔が
「カゲロウ君」
「・・・はいっ」
カゲロウの表情も固まっていた。
「エガオちゃんに危険な事はさせないようにってあれ程言ったわよね?」
「いや・・・あの・・・」
カゲロウが珍しくしどろもどろする。
スーちゃんが同情的な目でカゲロウを見る。
「一応・・危険なことは伝えたと言うか・・」
しかし、カゲロウは、それ以上言葉に出すことが出来なかった。
マダムの目の奥の熱い光を見たから。
「伝えた?伝えたから行かせてもいいの?貴方、子どもが嵐の海で遊泳しようとしてるのを注意だけするの?竜の巣がある事を分かってるのに注意だけでやめるの?」
「・・やめません。止めます」
「でしょう?」
マダムは、細長い足を組む。
「今度、エガオちゃんに危険な目に合わせてみなさい。私・・怒るどころじゃすまさないからね」
口調は穏やか。表情は
なのに発せられる気迫は極寒のよう。
「・・・はい」
カゲロウは、大きな肩を縮こませて頭を下げる。
マダムの視線が私に向く。
「エガオちゃんも分かったかしら。お仕事でも2度と危険な事をしてはダメよ」
「・・・はいっ」
私も肩を縮こませて神妙に頷いた。
この人と出会ってからもう何回も怒られているか分からない。
マダムは、足を解くとパンッと柏手を打つ。
「それじゃあこの話しはもうお終いね」
マダムは、細い手を伸ばしてカゲロウがサービスで提供した紅茶に口を付ける。
目からも炎が消え、いつもの優しい穏やかな光に戻る。
私とカゲロウ、そしてスーちゃんはほっと胸を撫で下ろす。
「それじゃあエガオちゃん。お風呂に行くわよ」
マダムの言葉に私は思わず「えっ?」と顔を上げる。
マダムは、きょとんっとした顔をする。
「えっじゃないわよ。身体中に付いた蜂蜜を落とさないと・・」
「あっ・・そ・・・」
マダムの言う通りだ。
こんな格好ではとてもでないけど店に立てない。
それは分かってる。分かっているが・・・。
「でも・・・その・・あの・・」
私は、おへその上で組んだ手をモジモジと動かして顔を下に向ける。自分じゃ分からないが頬も赤くなってると思う。
私の様子にカゲロウも首を傾げ、スーちゃんも赤い目を瞬きさせる。
「あそこの・・・水道で落とすじゃダメですか?」
私は、キッチン馬車の横にある水道を指差す。
「ダメに決まってるでしょう!」
マダムが眉を釣り上げて怒鳴る。
「若い娘が水道で洗うなんてはしたない事を言うんじゃありません!」
はしたない・・・。
水道ではしたないのなら泥の流れる川で顔を洗っていた時の私は人間失格なのだろうか?
「それにな・・・」
いつの間にか私に近寄っていたカゲロウが
蜂蜜がねっとりとカゲロウの指先に張り付く。まるで琥珀の塊のように固まっている。
「赤目蜂の蜂蜜はな。最高級の糖度を誇る反面粘着力が高くてな。外気に触れて時間が経つ毎に粘り気が増して剥がれなくなるんだ」
カゲロウは、蜂蜜が付いた指先を振るがまるで剥がれる様子がない。
「昔は、狩猟の罠にも使われたし、採取しにいってそれが鼻と口に垂れて固まって窒息死したなんて事故も・・」
カゲロウは、言葉を飲み込む。
マダムの目が剣呑に光る。
「貴方・・そんな危険な採取にエガオちゃんを・・」
「い・・いや大昔のことで今は熱いもので溶けると証明されてるので・・.」
そうか・・あのアップルティーは水分補給だけでなく万が一の時の為にも用意してくれてたのか。
でも、正直、そんな説明は受けてないので意味ないよなあと思ったが口には出さなかった。
「とにかくそう言うことだからお風呂に行くわよ」
マダムは、カゲロウを睨みながらも話題を戻す。
「いや・・・それは・・その・・」
私はの声はどんどん萎んでいく。
「なあにエガオちゃん。何でそんなに嫌がるの?」
「・・・ないんです」
あまりにもか細い私の声が聞き取れずマダムは首を傾げる。
カゲロウも同じく首を傾げる。
スーちゃんは、聞き取れたようで驚いた顔をしている。
「何がないの・・・」
マダムの問いに私は両手を握り、目をぎゅっと瞑る。
「替えの服と下着がないんです・・」
私は、頬から火が出るのではないかと思った。
マダムは、大きな目をぱちくりさせる。
カゲロウは、さらに首を傾げる。
「いや、アパートに取りに行けばいいんじゃないの?」
私は、マダムの所有するアパートの一室を借りて住んでいる。メドレーの宿舎よりも遥かに綺麗で広い部屋だ。
しかし、部屋が広くなっても変わらない物がある。
「あの・・私・・この鎧下垂れと下着の他は予備1着しか持ってなくて・・」
「予備?」
カゲロウは、ぼそっと呟き、どう言うことか聞こうとするが、空気を察したスーちゃんが鼻で小突いて阻止する。
マダムのこめかみが小さく震える。
「その予備が傷んでたみたいで昨日お洗濯したら破れてしまい・・その・・あの・・」
私は、羞恥と後ろめたさに声がどんどん萎んでいく。
私が話す度にマダムの笑顔に翳りがさしていく。
カゲロウも察したのか隠れた目から下が青ざめていく。
「だから、もう着るものがないんです」
そう告げた瞬間、マダムの怒号が公園内に響き渡った。
その後、私は強制的に鎧を外され、強制的にお風呂に連行され、マダムの監視の元に徹底的に身体を洗われた。
そして・・・。
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