栄光の喪失 (ver.7.3)

雨宮吾子

栄光の喪失 (ver.7.3)

 ……黒に染まりきらない空の裡に、月が煌々と輝いている。他に天体は見えず、人工衛星も航空灯もないさびしげな夜であり、それだけに月の存在がいや増すようであった。時を経るごとに光沢を湛えながら変質していく黒の中心には、そのさびしさに共鳴するかのようにまだ何色にも染まっていない月が、まさに浮かぶようにして存在している。その現象があまりにも巨大なせいで人には感知できないのか、それとも宙に舞う雪の運動のために雑音が遮られているためなのかは分からないが、白と黒とが互いの領域を侵しながらも静謐であるとしか言いようのない夜だった。そうした中に身を置いていると冷たく澄んだ空気に指先がかじかむ。短くはない距離を歩いてきたためにコートの中には少なからず熱気がこもっている。けれどその熱気は内側に閉じ込めたままで外に出してはならない。何故かしらそう感じられるのだった。それくらいにぴんと張り詰めた静かな夜なのだった。

 雪道には四つの足跡が刻まれている。彼女と、その先を行く彼のものだ。それは二人が今こうして連れ添って歩いていることの証明になるけれども、降り続ける雪はそれを消していく。彼女は永遠を望みはしない。その不可能を一応は知っているから。それでも、と理性に反して己の心に浮かんでくる欲望に気付いたそのとき、意図せずして脳裏に浮かび上がってきたものは母の名であった。足を止め、たおやかに降る雪の果てを見上げる。その姿をいつの間にやら足を止めて振り向いていた彼が見つめている。まるで夢から醒めたばかりのような表情をして。……


 自身へ向けられた視線のために我に返った女の気配を察して、男は再び前を向いて歩き始めた。見てはならぬものを見ただろうかと、少しばかり気にかかる。そのためもあって胸に高鳴るものがあった。女の態度は不可解である。言葉というものを店の卓上にでも置いてきたかのように口を噤んで、そして俯いている。どこかで道を間違えただろうか。いや、そもそも自分はどこへ向かって歩いているのだろうか? 男は答えの出てこない疑問を路傍に打ち捨てて、女の容姿を頭の中に思い描いた。白い肌と黒い長髪はまるで今夜の景色を反映しているかのようでもある。男はそこに調和を見たが、コートの鮮やかな赤は女がひた隠しにする内面の奔放さを顕しているようにも思われた。赤い花弁の萌し、そうしたものがコートの中に押し込められている。果たして女は真に実在している人間なのだろうか。冗談半分の疑念は、あまりにも女が好ましく感じられたためであった。そして男は自信を持たない。

 男はこれまでの経緯を思い返していた。あのナイトホークス――彼が勝手にそう呼んでいる食堂である――で彼女を初めて見かけたのはいつのことだったろう。あれはたしか、雨季を経て本格的な夏の訪れを迎えた頃のことだったはずだ。記憶の中の彼女は、今と違ってもう少し短めの黒髪であった。誰かと隣り合っていたような気もするが、よく覚えてはいない。彼女のことばかりを見ていたから。

 二度目は、中秋の名月の下であった。今度は現在よりも少し長く伸びていた髪を煩わしそうに耳にかけながら、食事を愉しんでいたのを覚えている。このときの彼女は間違いなく一人きりで、男は初めてのときよりも余裕を持って彼女を眺めることができた。何度か目が合いそうになって、男はその度に視線を外した。その先にはサルバトール・ダリの《記憶の固執》の複製画が壁に掛けられていて、柔らかい時計というモチーフを眺めていると、自分の決意の鈍さを責められているような気がした。やがて決意を固めて女を見つめると、三日月のイヤリングの反射が男の目を眩ませた。結局、そのときも何かしらの会話が生まれることはなく、男は彼女が店を出ていくのを浮ついた気持ちで眺めたものだった。

 三度目、それが今日のことだ。二度も機会がありながらそれを掴むことができなかった男は、名前すら知らない女と連れ立って歩いている今現在のことを、未だに信じられずにいる。どんな会話を経てこういう状況になったものか、実ははっきりとは覚えていない。その曖昧さは興奮やアルコールによるものとは言い切れず、少なからず男自身の性質に由来している。

 断続的に進む時間の中で、しかし進む道だけはしっかりと繋がっている。であればこそ、男は何も分からないままに歩みを続けることができた。いや、そうしなければならなかった。女は同意をした上で男の後を付いて来ているのだろうが、三歩先を行く男には目指すべき場所がない。企図もなければ計画もないのだから、ただ歩いていくことしかできない。歩けば歩くほど追い詰められていくようなものであったが、男にはそれ以外に為す術もないのだった。

 それにしても……と、周囲のことを考え始められたのは、自然に余裕が生まれてきたというよりも意図的にそうした結果であった。それにしても、この世界には人の気配が感じられない。たとえ姿が見えなくとも、そこに人がいれば気配が生まれるはずだ。家に明かりが灯り、食卓を囲む家族の笑い声が漏れてきたりする。あるいはスポーツ中継を応援しながら一喜一憂する様が窺えたりする。今日はそれがまるで感じられないのだ。エアコンの室外機が動く気配もなければ、自動車の走る気配すらもない。虚空を貫く救急車のサイレン、甲高い鐘の音を撒き散らす消防車、それらの否応なしに死の在ることを想起させる音を今日は聞くこともないだろう。そうとなれば、死というものはどこへ行ってしまったのだろう。都会からは死の臭いが消え、その代償として生の臭いも希薄になっていくようだった。

 生と死が忘れ去られるのと同じように、果てしなく静かな時間の只中に漂うことでこれまでの行きがかりを忘れ去ることができるだろうか。そう空想した次の瞬間には、男は今この場所に生きていることを歪んだ形でありながらも認めざるを得なかった。その証として男の心理は刻々と変化している。気紛れに何かをすることも、明確な理由もなく不機嫌になることも、生きていればこそ起こり得ることである。少なくとも死者には起こり得ないことのはずだ。

 では、男は本当に生きているのだろうか。男は、回答を保留した。

 目下のところ、男を苛む不安の一つは、この道がどこまで続いているのかということである。どこまでもこの道が続いているのだとすれば、果てのない道を歩いているのだとすれば、男はいつどこで歩みを止めれば良いのだろう。帰宅しようと思えばどこからであっても帰れそうではあるが、身元の知れない女を連れて帰るわけにもいかない。それは彼なりの道義であるのだが、しかし何の解決策も生み出さない道義である。そうした煩悶を続けるうちにも自然と足は動き、一歩ずつ前へと進んでいく。試みに振り返ってみれば四つの足跡が雪道に残っている。間違いなくそこを歩いてきたはずだ。しかし、その足跡もいずれは埋もれてしまうだろう。

 男の苦悩を顧みることなく進むものがもう一つある。時間だ。大海の静かな底流のように、終着のある一点へ向けて時間は進行しているのだが、それがどこなのか、またいつなのか、男が知る由もない。時間はどこにあるものか感じることができないし、その最も鮮やかな顕れであろう今この瞬間ですら掴めない。試みに降りしきる雪を掴み取ってもそこには何も残らないのだ。そんな得体の知れない運動の中を生きていることの不安、いや恐怖を、男は抱えているのだった。

 時間といえば、愛用の時計をどこかへやってしまったらしく、男は体感で時間を計らなければならなかった。見知らぬ土地ではないからまだ良いとしても、時間を見失ってしまうことの恐ろしさがある。得体の知れない運動であると感じながらも、しかしそれを前提として成り立っているのが彼の生活であり、社会であり、人生であった。

 男は煩悶しながらもやはり歩き続け、女もまた口を噤んでその後を付いて来る。そんな二人を待ち受けていたのは、一つの小川だった。煌々と輝いているとは言い難い外灯の下ではその水面を捉えることすらままならないが、せせらぎのような音だけが聞こえてくる。川辺には遊具のない広々とした公園があった。ようやく道を外れることができると安堵した男は、川のそばに建てられた四阿のベンチに座った。男が身振りで促すと、女もまた腰を落ち着かせた。

「雪はいつまで続くんだろう」

 それは、男が初めて語りかけた言葉だった。

「さあ、いつまでかは分からないけど、いつかは止んでしまうでしょうね」

 女もまた口を開いた。特に意味を成さないその返答に男は快いものを感じ、二人の白い吐息が混じり合ったかと思うとすぐさま中空に四散していくのを眺めていると、さらに心をくすぐられるものがあった。

「どうして二人で歩いてきたんだろう」

「さあ」

「君も覚えていないのか。どうしてだろう」

「……さっきから疑問ばかりなのね」

 女の笑い方にからかうような調子がなかったので、男は気を悪くはしなかった。

「僕には分からないことだらけだ」

「私もそう。多分、そうだと思う」

 女はしみじみとそう言った。

「この雪が止んでほしいのか、そうじゃないのか、それすらも分からないから」

「僕は、こういう静かな雪なら悪くないと思う。……寒くはないか」

「いいえ。でも、何も感じられないような気もする。不思議とそんなふうに思えて」

 男は初めて女の姿を見据えた。屋根の下で月の光が遮られているとは思えないほどに白い。細雪のような白くきめ細かい肌と憂いを湛えた切れ長の鋭い眼差しに、唇の強い紅がよく映えている。女が目を伏せている機を捉えて、豊饒な和音によって構成された顔立ちに男はつい見惚れていたが、女の言葉には聞き逃がせないものがあった。男はそのおかげで時間に取り残されることを避けられた。

「どうしてそんなふうに感じるんだ」

「このベンチ、もっと冷たくてよそよそしくても良いはずなのに、何だか居心地の悪さだけがあるの」

「実感がないんだね」

「そう。……あなたもそうなのね」

 そこで初めて男と女は目を合わせた。同じ高さで視線のぶつかることが、男には妙に嬉しく感じられた。一吹きの風が運んでくる乾燥した匂いも快い。

「どうして分かるんだ」

「さあ、どうしてかな」

「……不思議な夜だ」

 女はその言葉に頷きながら瞳を閉じていく。男は今度は女の口元を注視した。僅かに言葉を交わしたに過ぎないが、整った表情の調和が崩れると唇の紅が勝ち過ぎる印象がある。しかしそれが不協和音をもたらさず、却って容貌の妖しさを引き立てているように感じられるのは何故だろうか。さらに視線を転じ、女の黒髪に小さな雪の破片がまとわり付いているのを発見した。男はそのことに言いようのない嫉心をかき立てられた。

 閉じられていた女の瞳が不意に開かれた。女は見られていることを察し、男もまたそのことを察する。不思議な共犯関係のようなものが二人の間に出来上がりつつあった。

「まだ名前を訊いていないような気がする」

「私も。あなたの名前は?」

たまきだ。ただ、環と覚えてくれれば良い」

「そう、環というの。私は彼子あのこ、ただの彼子」

 彼子という名を知ると、環は無意識のうちに抱いていた警戒心が弛緩していくのを感じた。まるで得体の知れぬ病の名を、治らぬと悟りながらも認識したときの安堵に似て。

 ぽつりぽつりと、言葉が交わされた。この世界の時間の流れのように、迂回をしたり袋小路に迷い込んだりしながら、二人がお互いを知っていった。それでもあちらの核心は見えてこない、こちらも簡単に晒そうとはしない。環はどこかしら疑念を抱きながら、彼子はおそらくはぐらかしながら。環がどんな疑念を抱いているかは自分自身でもはっきりとはせず、また当然のように彼子が何を隠そうとしているのかも分からなかった。しかし、それはそれで良いのかもしれないと環は思い始めていた。もし尋常な形で二人の関係が進展したとして、待ち受けているものは尋常な関係に過ぎない。そこに快楽を空想することは短絡的に見えて、しかし常識的でもあった。あるいはもっと先を見据えて、数十年後、共に寄り添いながら日向に佇む場面を空想することもできたが、こちらは穏当なようでいて極端であるといえた。もしこれを恋と呼ぶならば、弾けんばかりに成熟させながらもそれを収穫せず、腐敗するのを待つのが自分に相応しいと環は思う。ここで終わりにするのが最も綺麗な思い出になるのだろうと諦めかけた。その心の扉を叩くようにして突風が吹いたのは、果たして偶然だっただろうか。

「さすがに少し冷え込んできたみたい」

「そうだな。それにそろそろ時間も遅い……」

 一瞬の沈黙の後に彼子の口から漏れたのは、環にとっては意想外の言葉だった。

「ねえ、もう少しこちらに来て。ここは何だか寒く感じられるの」

 環は口を噤んだまま、あえて空けておいた間を詰めて、彼子と肩が触れ合うところまで近付いた。躊躇しながらも震える手を伸ばして、それまで彼子の太ももに挟まれて寒さを凌いでいた彼女の手に触れた。感触であるとか大きさであるとかいったことよりも、この瞬間に水面から引き上げてきたのではないかというくらいに鋭い冷たさに面食らい、そしてその冷たさに反して震えの穏やかなことが不可思議に思われた。緊張を隠せない己の手の震えを恥じずにはいられなかった。

「冷たい」

「ええ。でも、だからこそあなたの温もりを感じられる……」

 冷たいながらも少し探るようにして指を動かすと、奇妙な違和感が浮かび上がってきた。か細い手のとある指に、指環の痕が感じられたのだ。

「ひとり、というわけじゃないんだな……」

「えっ?」

 環が判じたことを、彼子は理解していないらしかった。環は先ほどと同じように、口を噤んだまま一度触れ合った手を引っ込めた。今度は彼子が疑惑の目を向ける番だった。

「どうして……」

「特定の相手がいるとしても、結局は君の身体は君のものだ。でも、簡単に他人に触れさせて良いものとも僕には思えない。それが道理のはずだ」

 環はあえて怒気を隠さず、言葉として発した。そうすることで発散されるものがあるような気がした。

「そろそろ行こう。このままだと本当に凍えてしまう」

 環は再び先に立って歩いていく。それを彼子は、やはり先ほどのように距離を置いて付いていった。


 ……それにしても、この夜空は一体何によって染め上げられようとしているのだろうかと、彼女は考えた。誰が、何のために。その起源を繙くようにして探っていったなら、そこには他でもない自分自身がいるような気がした。つまり、この宇宙が自分の意志に因って創造されたのではないかと思われたのだ。もしもそんな、根拠のない子供じみた妄想を口にしたなら、彼はいよいよ失望してしまうだろう。それでも、もし心のうちの全てを開陳したとして彼が抱いた何らかの誤解を解けるのであれば、きっとそうする。身体を委ねるよりもずっと本質的なことを、少しも躊躇わずに実行するに違いない。その上で一つだけ、彼に求めることができるとすれば、彼のことをもっと知りたかった。知りたいと思うことの暴力的な側面を本能で察知する彼女は、その欲望が最後には二人の身を滅ぼしてしまうのではないかと恐れずにはいられない。しかし、今となってはもう同じ場所に留まり続けることはできないのだった。

 仮にもしも何事かをできるとすれば。そんな、仮定の上に仮定を重ねたところに、さらに仮定を重ねてみる。彼女が信じる自身の出自が正しいとするなら、つまり本当にこの世界を創造したのが彼女であるのなら、創造主の理解の埒外にある彼は一体何者なのだろうか。

 彼女はその問題に気付くことなく、四阿を出た。月光の照らすところへ戻ってくると、失われていた活力が戻ってくるようだった。月が出ているといつも心が若やいでいくような思いがする。だからあの食堂に出かけるときは満月の日と決めていた。そんな特別な日に出会った彼と喧嘩別れのようにして疎遠になることは何としても避けたい。それが、彼女の真心なのだった。……


 雪道を行く環は、彼子が再び口を噤んでしまったことに気を病んだ。指環のことについて、彼子は何も語らなかった。しかし、彼子が嘘を吐いたというわけでもないのだ。環は怒りを包み隠すことなく曝け出してしまったことを後悔していた。それでも彼子に詫びずにいるのは、やはり体面のためであったのだろう。さらに言えば、もうこれ以上に発展することのあり得ない関係だから、それを修復する気も失せていた。ただ一つ問題があるとすれば、それはやはりどこまで歩いていけば良いのだろうかということである。まるで堂々巡りだった。彼子を送り届けるにしても、その暮らしている住まいを知らない。訊けば済む話ではあるが、彼子の内面に踏み込むような問いかけはしたくはなかった。だからといってここで別れるというのは論外である。

 二人は積もるでもなくただ募る雪のためにゆっくりと歩いていく。そのうちに忘れ去られていく何かがあるような気がして、環は必死に意識を保とうとしていた。今、この場所に生きているという意識を。しかし、代わり映えのしない風景の中を歩いていくうちに、意識が茫漠としていくのを避けられない。十分前、四阿で彼子と寄り添っていたことを覚えている。二十分前、やはり同じように雪道を歩いていた。ナイトホークスを出てから三十分は経っているだろう。このように記憶はある。しかし、そこに生きていたという確証が、環にはないのだった。それはこの時空においてのみそうなのだろうか。いや、そうではないだろう。

 別の人格があるというわけではないし、なにか恐ろしい空想の中に生きているというのでもない。現実を生きながら現実に馴染むことができず、それでいて空想の中に逃げ込むこともできないというだけなのだ。環はそんな己の性を曝け出してしまいたかった。何もかもを投げ捨てて、この小路を駆け抜けてしまいたかった。しかしそれは一種の夢想である。そして、そんな夢想に浸ることのできない環なのであった。

 空を見上げる。夜が深まっていくのを感じる。月の見え方はどこまで歩いてきても変わらないように思われた。月から降り注いでくるかのような雪に、ふと見惚れてしまいそうになった。その一瞬の空白を、彼子は見逃さなかった。

「綺麗ね」

 環はその言葉を素直に受け取ることが未だできずにいる。綺麗だというその言葉を発する己の美しさにどこまでも自覚的であるように思われて。そうして実際に彼子の表情を見れば、そこには間違いなく美しさがあり、綺麗だと感じさせられた。

「君はどうしてそんなに美しいんだ」

 思わず発してしまった言葉には相変わらず棘があった。彼子はその棘を真正面から受け止めながらこう述べた。

「今この瞬間ほど、自分の生まれを呪ったことはなかったと思う。女に生まれてこなければ、あなたとこんなに苦しみ合うこともなかったかもしれないのに」

 環は思わず息を呑んだ。彼子にそこまでの憂いを感じさせることの不明を恥じて。

「悪かった。さっきのことは、もう忘れることはできないだろうけど、本当に悪いと思っている。君がそこまで思い悩む必要はないんだ」

「私の方こそ、少し極端なことを言い過ぎたかもしれない。……ねえ、どうして突然気を悪くしたの」

 そこまで率直に尋ねられてしまうと、環も全てを明け透けにして述べるしかなかった。

「君が外した指環の痕に、僕は嫉妬してしまったんだ」

「指環……。そう、そういうことだったの」

 彼子はそう呟くと、静かに笑い始めた。

「たしかに変な誤解をされないように指環は外したの。でも、それが良くなかったのね」

「それはどういう……?」

「指環は母から授かったものだったの。私の指が大きくなりすぎたから、はっきりとした痕が残ってしまったみたい」

「するとそれは、特定の相手がいるという意味ではないんだね」

 彼子がこくりと頷いた瞬間、環は思わずその身を抱き寄せていた。その手の震えに対応するかのように、環の背中に回された手は歓喜に震えていた。

 降り方が大人しくなってきたとはいえ、二人の身体には雪が付着していく。やがて身体を離したとき、彼子は前髪を整え、環は肩を払った。先ほどの誤解を払い除けるようにして。

「ねえ、歩きながらでも良いから教えてほしいことがあるの」

「ああ、歩きながら話そう」

 二人は初めて横に並んで、歩きながら会話を進めた。

「幼い頃に好きだった歌は何?」

「歌か。どうしてだか分からないけど、どこかで耳にして不思議と覚えた古い歌がある」

「どんな歌なの?」

 しばらく見つめ合った後、環はようやく照れを脱して歌を口ずさみ始めた。


 待てど暮らせど来ぬ人を――宵待草のやるせなさ――今宵は月も出ぬそうな


「素敵ね」

 払い除けた照れが追いすがってくるかのようだったが、その言葉の余韻があまりにも誠実に感じられたので、環も清しい気分になった。

「今日という日には少し似合わない歌かもしれない。君の方はどう?」

「幼い頃のことは覚えてないの。でも、一つだけはっきりと覚えていることはある」

「というと?」

「私ね、この世に産まれ落ちた瞬間のことを明確に覚えているの。きっと笑ったりしないでくれると嬉しいな」

 環は頷いた。彼子が置いた間の分だけ、彼女が不思議に緊張していることが知れた。

「私、あの月から産み落とされたの」

 耳を疑うような言葉の意味は、一瞬の後に理解できた。しかしそれが冗談ではなく、本当にそう信じているらしいということが分かるにつれて、理解というところからはまるで遠ざかってしまった。

「つまり君は、月世界の人間ということなのか。まるでかぐや姫のように」

「さあ、どうなのかな。産み落とされたといっても、別にあちらへ帰っていく必要もないようだし」

「じゃあ君はこの世界に骨を埋めるのか」

「そうなると思うけど……」

 潮が引いていくようにして二人の会話の熱気は冷めてしまった。環は彼子を信じないわけではないが、しかし信じるに足る証拠があるわけでもなかった。

「もしあの月から産み落とされたのなら、どうして今夜の月は満月のままでいられるんだろう」

「私一人が欠けた程度で目に見える変化が起こるはずはないと思う。それにもし欠けることがあるとすれば、それは私たちが満ち足りてしまって、そのために天変地異が起こったとき以外にはあり得ないはず」

「……僕らこそ欠けたところがあると、そう言いたいんだな」

「それが現実だと思う」

 環は口を噤んだ。自分自身については身に覚えがある。しかし、彼子に関してはどうだろう。

「あなたはどこまでも現実から離れることができず、一方の私は何かとてつもないものに取り憑かれている。それを欠けていると言わずに、何と言えば良いの」

「過ぎたるは及ばざるが如し、か……」

 環は急に自分の足元が覚束なくなったように感じられた。それでも何とか平衡感覚を保ちつつ、彼子と隣り合って歩き続ける。

「月に帰りたいと考えたことはないのか?」

 彼子の主張を前提とした問いかけに、彼女は不気味とも言えるほどの気色を浮かべながら否定した。

「お母さんのお腹の中に帰ることなんてできない。だってこんなに大きくなってしまったんだから」

 二人の視線が交錯する。先ほどは同じくらいの高さだったはずが、今では環が見上げるような形になっているように感じられた。

「ねえ、言葉って不思議。ずっと胸の中に秘めておいたことを打ち明けただけで、世界がまるで違って感じられてきたの」

「……そうか」

 彼子がいつまでも喜色を保ち続けているのを眺めながら、環はある決意をした。

「一つ、僕も告白したいことがある」

「どんな告白?」

「うん……」

 しばらくの沈黙の後、環は語り始めた。

「君と語らっているこの時空が本当に実在するものなのか、僕には分からないんだ。からかっているわけでも意識が混濁しているのでもなくて、それが僕にとっての現実なんだ。まるで薄い膜に覆われた卵の中から世界を眺めているような、そんな感覚がする。この話を君に理解してもらおうとも共感してもらおうとも思わないが、これ以外の現実はあり得ないんだ」

「あのベンチで感じたことは、そういうことだったの。でもごめんなさい、今の私には理解はできないと思う」

「……それで構わない。君が隣にいてくれるだけで、今は心強い。それでも……君を本当に感じることができないのは、情けないくらいに悲しい」

 決して涙は出ない。ただただ、どうしようもない胸の痛みがあるだけだ。その幻の痛みが生きていることの片鱗を強く感じさせてくれることは、皮肉という他ない。

「ねえ、一つ実験をしてみない?」

「実験?」

「そう、目を瞑ってみて」

 立ち止まって、素直に瞳を閉じてみる。そうして近付いてきたものは、彼子の手だった。

「これは?」

 彼子に促されて目を開くと、二人は手を取り合って輪を作る形で立っているのだった。

「二人で国を作るの。この輪っかの中の空間がその領域」

「随分と狭いな」

「ええ、狭い。でも、ここに一人加わるごとに輪っかは広がる。二人、三人と増えていけば――」

「この世界全てが僕らのもの、か」

 彼子は少女のような声で笑った。環はそれを聞きながら、随分と遠いところまで来てしまったような気分になった。

 環は不思議に今まで思いもしなかった提案をした。

「……なあ、いつまでも歩き続けるわけにもいかないだろう。もし良かったら、僕の家に来ないか」

 すると彼子はこう応えた。

「ぜひ」


 それは、二つの天体が衝突した瞬間であった。あたかも原始惑星と他天体との衝突が衛星を生み出すようにして、世界の崩壊と再生とが行われようとしているまさにそのとき、彼の肉体は浮遊したのだった。互いの天体には時間があり、即ち歴史があり、それに相応しい文明が存在した。その交差地点にて、世界の崩壊する音を聴きながら、彼は無上の快楽を得たのである。しかしその快楽を感じるはずの肉体もまたどこかへ遠ざかっていくようであり、落ちていくのか浮かび上がっていくのか分からない感覚だけが限りなく続くようであった。肉体が去り、ここに残されたものを仮に精神と呼ぶにしても、肉体との結びつきのない精神なるものがどのように移ろっていくものなのか、全く冥々としている。言葉というものが表し得ない新事態の出来を体験しながら、音もなければ光もない時空へと彼は入り込んでいくのだった。

 感じるもの全てを失った無限の虚無は、即ち無限の可能性を意味する。ここには何もない。だが、同時に何もかもがあり得た。その倒錯を快く感じるだけの感性は未だ残っており、それだけが唯一の命綱といえた。精神は、やがて水を連想した。すると、そこには深海が現出した。天地がどちらにあるのかすら定かではないほど深く、あらゆるものを湛えることとなった海の中を、ぼんぼりのように薄すらとしたものが漂い始めた。それはまさしく二人を結びつけた雪であった。まるで、精神と肉体が一致していた頃の記憶の中から溢れ出してきているかのようであった。

 雪の出現を契機としてそれ以前の記憶もまた蘇ってきた。最初はそれも混濁して、ちらりと窓外を眺めたときの夜空へと縫い付けられたかのようなあの月輪に、彼女の顔が重なって想起された。それらが分離していくのを、いや、彼女が産み落とされるのを、彼ははっきりと感知した。彼女の述べたことは嘘偽りではなかった。その安堵が、今度は彼自身の出生を辿っていく契機となった。

 今、人気のない幼稚園の園庭に通じる重い通用門を、三歳くらいの男の子が必死に押し開けようとしている。保護者の姿はなく、どうしてこんな小さな子を一人きりにしているのだろうと訝しげに感じながら、男の子には荷が重すぎるその仕事を彼は後ろから手助けしてやる。見上げてくる男の子の目の色は黄色い帽子のつばに隠れて判然とせず、男の子もまた見上げる先にある相貌に太陽の光が重なって彼のことを判別できないようだった。男の子は通用門が押し開けられたことでそちらに注意が向き、遅刻をしていたので一目散に駆けていった。それでいて背後の人物がいつまでも見守ってくれていることを、本能で察知していた。そして巡り巡って今というこの瞬間、彼は幼少期の最初の記憶が目の前に現出したことに胸を打たれていた。

 そのような無償の行為を、また愛情というものを、彼は満足に抱きかかえてはこなかった。愛されないことの代わりに愛することをするしかなかった。彼は特に芸術を愛した。それが美術品であろうが音楽であろうが映画であろうが文学であろうが、本質的な理解をできた試しはない。透明なヴェールの中から世界を見ることしかできなかったからだ。そのヴェールの存在が一般的なものではないことを悟るのに時間はかからなかったが、彼の場合はそれが透明な膜のように感じられて、己が手で突き破ろうと試みたことさえなかった。そうするうちにも肉体は成長し、ヴェールと肉体とは最早不可分のものとなってしまった。それでも彼がこれまで歩んでこられたのは、彼自身の努力のためであり、またあらゆる人々から手渡された希望という名のバトンのおかげであった。

 無数のバトンを受け継ぎながら行き着いたのが、彼女だった。元より芯から他人を愛するのことのできない彼が好む相手は、ただ美しければそれで良かったのかもしれない。たしかに彼女は美しかった。彼はその容姿を好いたけれども、それ以上に出会えたのが他ならぬ彼女で良かったと思える何かがあった。その何かを知りたい、あるいは彼女自体をもっと知りたい、そう思えるだけの相手と出会えたことが彼にとっては幸福だったのだ。

「幸福は、日輪のようなものだ。見つめていると苦しくてたまらない。だから僕は寂しくとも、あの月輪のような不幸を愛してきたんだ」

 いつの間にやら発していた自分の呟きを、環は自分事として聞いていた。彼子の膝の上に置いた頭で感じる体温もまた生々しい。それが一糸まとわぬ心からの言葉であったとするなら、彼子の場合はこうであった。

「あんなに綺麗な月輪も、いつかは欠けてしまうのかな」

「……きっとそうだろうな。父殺しならぬ、母殺しか……」

 彼子の目尻に光るものがあるのを察して、環は指でそれを拭い去ってやった。その温かさが衝動的に涙を口元へ運ばせた。その塩っぽい味わいが口中に広がるにつれて、彼子への愛おしさが増していくようであった。

 次の瞬間、口の中に違和感が生じた。冷たい何かがそこにある。けれど、髪の毛を間違って含んでしまったときの不快な感覚がなかったのは、突き刺すような冷たさではなくじんわりと冷やしてくれるような柔らかさがあったためだった。指で摘んで取り出してみると、それは銀色に光る小さな指環であった。

「これは、君の……」

「私の隠していたもの。でも、もう隠す必要もないのね。これからは二人で大切にしていくものだから」

 熱っぽく絡み合っていた二つの視線が、揃って天上の月へ向けられた。いつまでも降り続くかのような雪も、いずれは降り止むのだろう。それは虚空に輝く月の身動ぎによって生じている、一つの運動であるのだから。

「さようなら、お母さん」

 虚空に立ち昇っていく言葉を遮るものは何もない。真冬の空に輝くものは、月輪ばかりである。

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