あの無駄遣いをもう一度

そうざ

Waste Money Again

 最近また終電の時刻が繰り上げられたので、俺達は目的の店がある駅前まで沿線をてくてくと歩いて行くしかなかった。

「もう直ぐですよ」

 先を行く同僚が俺を振り返った。俺と年が変わらないのに一向に疲れた様子を見せない。その逸る気持ちが手に取るように判る。

 やがて小さな駅に辿り着いたものの、人影のない繁華街が夜陰に沈む光景は、俺を落胆させた。こんな寂れた所にどんな楽しい娯楽があると言うのか。

 同僚に付いて大通りから裏道へ入り、幾つかの曲がり角で右折左折を繰り返している内に、もうすっかり帰り道が判らなくなってしまった。

 どうやらわざとややこしく進み、店の所在をあやふやにしたいらしい。携帯電話は使用禁止、他言は無用、という条件もその事を物語っている。

 それでも同僚の後を必死で追い掛ける俺は物好き以外の何者でもない。


 話は一時間程前に遡る――。


「景気の良い話はないもんかねぇ」

 帰りのエレベーターを待ちながら思わず呟くと、斜め後ろで待っていた芦尾あしおが俺の肩をとんとんと叩いた。

「あ・り・ま・す・よっ」

 先月中途入社して来たこの男は、どうも得体の知れないところがある。万年ジョブホッパーで、色んな業界に様々な人脈を築くのを一種の趣味にしているらしい。

「どうです? この後、一緒に羽目を外しませんか?」

「給料日前だからなぁ」

「私の紹介があれば初回は無料で利用出来ますよ」

「君の人脈って奴かい?」

 飲み屋、クラブ、漫画喫茶、ゲームセンター、カラオケ――在り来たりな娯楽が頭を駆け巡る。 

「ちょっとした秘密俱楽部でしてね」

 脳内がピンク色になった。

「でも、風俗ではありません。いにしえ遊戯あそびを体験出来るんです」

 脳内がさっと我に返り、如何いかがわしさに風流が加わった。

 まるでそれが合図であったかのように、エレベーターの稼働ランプが消えた。時計を見るともう節電時刻になっている。残業をした挙げ句、非常階段で十三階下まで下りなければならない。

 ハイパーインフレは何処までも行くのかと俺達は苦笑いで非常用ドアへ向かった。


              ◇


 店は雑居ビルの奥にあり、入り口には看板さえなかった。店内は狭く、薄暗く、不思議なくらい静かだった。

 年配の店員は芦尾の顔を見るや、俺達を待合室へ通した。

 草臥くたびれたソファーで膝を突き合わせるように控えていると、何やら異臭に気が付いた。

 芦尾は鼻の両穴を目一杯広げて空気を吸うと、すっかり緩んだ口から吐き出して声を上げた。

「この香り、堪らんっ!」

 何かの薬品のような、普段の生活では嗅いだ事のない臭いだった。

 元々期待よりも不安の方が大きかったが、それが更に増した。そもそもが秘密倶楽部となれば、大っぴらに出来ない何かがあるのだ。

 芦尾は、知らない方がより楽しめますよ、と具体的には教えようとしない。ほいほい付いて行く俺も俺だが、全てはハイパーインフレの所為だと思いたい。働けど働けど我が暮らし――心の片隅にはいつも日常をぶち破りたい衝動が巣食っている。


 待合室の隅に置かれたモニターが『蛍の光』をBGMに不思議な映像を流している。

 何か大きな施設のエントランスに職員らしき面々が居並んでいる。カメラを向ける取材陣が居て、その背後にも大勢の人々がつどっている。やがて職員が涙ながらに首を垂れると、フラッシュが一斉に瞬き、人々から、お疲れ様、長い間ありがとう等の声が掛かり、大きな拍手に包まれる――。

 次に映像が切り替わり、と或る街角の光景になる。リヤカーを引いたり、大きなリュックを背負ったりした人々が長蛇の列を作っている。何処か遠い異国の買い物風景らしいが、昨今の景気を考えると全くの他人事とは思えなかった。

 尤も、既に全面キャッシュレス化が進んだこの国でこんな光景が展開される事はないのだ。


              ◇


 が廃止される事になったのは、俺が物心を付いて間もない頃だった。

 元来、この国の人々は現金ものへの執着が強い。であれば、すんなりと事が運ぶ筈もない。

 国は一計を案じ、額面の1%を上乗せした電子金eマネーを期間限定で還元する対策を発表した。これが功を奏し、現金の回収は加速し始めた。

 が、世の中には少なからず天邪鬼や偏屈者が存在する。国は現金の通用期間を大幅に短縮させた。忽ち駆け込み返金が相次いだ。

 それでも尚、記念に一枚くらい取っておきたいと執着を見せる不逞の輩が居る。そこで現金所持者に罰金刑が科される事になり、高額所持者に対しては懲役刑も辞さない姿勢を見せた。元来、お上意識が強い国民性でもある。言うところの『泣く泣く返金』が相次いだ。


 うして現金は単なる紙屑や金属とになり、完全にに置き換えられたのだった。

 もう印刷局にも、造幣局にも、銀行にも、店舗にも、募金箱にも、賽銭箱にも、財布の中にも、箪笥の奥にも存在しないものになった。

 金なんてものは単なる約束事で、そもそも物体である必要はない。その真実に気付くまで、この国の人々はどれだけの馬鹿げた月日を費やしたのかと思うと、呆れて物が言えない。


              ◇


 モニターの映像がモノクロの西部劇になった。バンダナで顔を隠した一団が拳銃を片手に押し込み強盗を働く――場面で店員が俺達を呼びに来た。

「お待たせしました。おトイレはお済ませになってからお越し下さい」

「さぁ、目眩めくるめく夜の開幕ですよっ!」

 勇んで出て行く芦尾の後に続く。狭苦しい廊下の突き当たりに塗りの剥げたドアが嵌っていた。芦尾がそれを率先して開ける。

「二人で一つの部屋を利用するの?」

「防犯上、部屋は一つしかないんですよ」

 そこは、簡素な棚が設置された四畳半くらいの空間だった。棚には大きな籠が置かれている。まるで脱衣場だな、と思うが早いか、芦尾がネクタイを引き抜き、上着を脱ぎ始めた。

「何だ、やっぱりそういう店か」

「防犯上のルールです。それに真っ裸の方がより満喫出来ますから。水中眼鏡ゴーグルの着用を忘れずに」

 確かに籠の中に水中眼鏡があった。

 芦尾は下着まで籠に放ると奥にある別のドアを開け、嬉々としてその向こうへ消えた。脱衣場の隣は浴室と相場が決まっているが、そうだろうか。

「早く来て下さぁい」

 芦尾の能天気な呼び声に寧ろ気後れを覚え、俺は最初のドアに手を掛けた。が、鍵が掛かっていた。

「防犯上、サービスが終了するまでは出られない決まりです。早くこっちに来て下さい。始まりませんよ」

 全裸の芦尾がドア枠から顔を覗かせている。

 俺は破れかぶれで意を決し、素早く全裸になると、水中眼鏡を付けて芦尾の待つ部屋へ飛び込んだ。


 今度は何もない部屋だった。脱衣場と違うのは、そこが何十畳もある円形の空間である事だった。天井も優に三メートル以上はありそうで、ピンスポットライトが一つ、真上から俺達を照らしている。

 地下へ降りてもいないのに、雑居ビルの奥にこんな空間があり得るのか。

「準備OKでーすっ、お願いしまーすっ!」

 芦尾の叫びにポーンと返事のような音がし、微かな作動音が聞こえ始めた。

 すると、芦尾が両手を掲げて天井を見た。俺も釣られて顔を上げた。

 何かが舞い落ちて来る。

 ゆらゆらと、ひらひらと、やがてそれは俺の顔の上に着地した。俺はそれを手に取り、まじまじと見た。

「これは……現金?」

 答えを求めて芦尾を見る。次々に舞う現金がその惚けた顔を撫でて落ちて行く。

 もう数え切れない。数えられない以上、それはもう無数と表現するしかない現金が天井の穴から引っ切りなしに落ちて来る。

「金じゃ金じゃ、金さえあれば何だって出来るっ、ガハハハッ!」

 嫌らしく目を輝かせる芦尾に何と応えて良いものか、俺は大いに戸惑った。

 確かに金は人生に付き物。社会の構成員であれば誰も無縁では居られない。自ら稼ごうが、誰かの庇護を受けようが、直接的に、間接的に金が介在する。

 金が現金ものでなくなって幾星霜、それでも人は変わらず、金に生き、金に惑い、金の恩恵と呪縛とに悲喜劇を演じ続けている。

 だとしても、現金はもう使えない。ここに溢れているのは単なる塵芥ごみくずだ。

「……ゲホッ、ゲホッ」

 現金が発する噎せ返るような臭いに、俺は胸がむかつき始めた。待合室で嗅いだのはこれだったのだ。

「慣れですよ、慣れっ。直ぐに快感になりますから。この金は全て俺のもんじゃ、ガハハハッ!」

「回収された現金は全てけつを拭く紙になったとか、軍事兵器になったとか、学校の授業で聞いた憶えがあるけどな」

「どんな世界にも裏があるって事ですよ」

 現金はもう腰の位置を越え始めている。すると、芦尾が矢庭に

 俺は今、現金の大海原に浮いている。現金の力で随分と沖合いまで来てしまった。もう右も左も判らない。

 現金を水のように掬うと、硬貨が一枚、掌から零れ落ちた。

 平泳ぎ、クロールに続いて背泳ぎをする芦尾がそれを見て言った。

「あっ、端金はしたがねが混じってましたか。前の客は〔硬貨コース〕だったんだなぁ」

 ――途端に古い記憶が活性化した。

 俺はよく仏間の抽斗から親の臍繰へそくりをくすねていた。たった一枚の硬貨を握り締めて向かう先は近所の駄菓子だった。

 少額商品の中から一つだけを選ぶ過程は、悩ましくも楽しい時間だった。その時は散々迷った末に小さなガムを選び、店の小母さんに代金を渡した。

「これじゃ買えないわよ」

 俺が汗ばんだ掌に握っていたのは、大振りのボタンだった。薄暗い仏間で親の目を気にしながら慌てて抽斗を探った結果だった。

 顔から火が出るとは、あの時の事だ。俺は暫く駄菓子を買いに行けなかった。

「どうしたんですぅ? 泳ぎましょうよぉ」

 バタフライで俺の方に迫って来る芦尾が、派手に飛び上がった。いつの間にか下半身が魚で、俺の周りをぐるぐると回遊している。

 何だか部屋がさっきよりも広くなったように感じる。広くなったどころか、現金はもう胸の辺りを越えて嵩が増し、身体を上下させる。

 まるで海だ。

 俺は今、青い大海原の只中で溺れようとしている。

「おぉい、俺は金槌なんだがぁ」

「溺れるのも一興ですよぉ」

「助けてくれぇ」

「身を任せて下さぁい。現金は人を浮かれさせる力がありますからぁ」

 そう言うと、芦尾は俺の手を引きながら泳ぎ始めた。水に似た抵抗を感じながらも意外な程すんなりと進んで行く。

 現金の海は丁度良い温度だった。いつまでも浸かっていたい微温湯ぬるまゆだった。透明度はゼロだが、塩辛くはない。介助なしで泳げる頃にはもう例の臭いは気にならなくなっていた。

「これが古の遊戯かぁ……」

 やがて、水平線ならぬ平線が遠く遥かに霞んで見え、そこに橙色の眩い光が燈り始めた。

「あれは……朝日か? 夕日か?」

 この後は、日ずるのか、日ぼっするのか――。


              ◇


 倦怠感と高揚感とが心地好く心身を包んでいる。

 二人して歩いて帰る道すがら、芦尾が風呂上がりのようにつるっとした顔で言った。

「実はあの店員、元政府関係のお偉いさんでしてね。不要になった現金の一部を横流ししてあの秘密倶楽部を作ったんです」

 芦尾曰く、この国が豊かだった時代、富裕層は金に飽かして夜な夜なああいう遊戯に勤しんでいたらしい。

 しかし、あれは本当に本物の現金だったのだろうか。辛うじて硬貨の手触りは憶えているものの、紙幣は俺が大人になる前に世の中から消え去ってしまったので知る由もない。

 何れにしろあれはもう唯の紙屑でしかないのに、未だに人を幻惑させる力を持っているらしい。

「どうです? 来週末もご一緒しませんか?」

「それは、と相談だな」

「正会員は割引があるからお得ですよ。月額たった一億イェン!」

「ハイパーインフレ極まれり!」

 哄笑が黒いだけの夜空に響き亘った。

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