第35話言えなかった言葉

 ザバ――ン! ガバッ!


 ほんの2、3秒の出来事だった。


 るり子さんがすがっていたボートごとるり子さんを飲み込んだクジラゾンビは水中に深く潜って姿を消した。俺はすぐ奴を追って池の中に頭を突っ込んだが、奴は凄いスピードで出てきた黒い穴の中へ帰ろうとしている。追いかけようともがいても、奴が前進する水流に押されて前に進めない。


 息が続かずとうとう水面に浮かび上がると、あちこちにボートの残骸や連れ去られた人たちの持ち物がぷかぷかと浮かんでいた。


 俺が最後に見たのはリヴァイアサンの尾ひれが黒い穴の中に消えていく場面だった。




 俺は自力で岸まで泳いで行った。その頃には救助のボートが出て、辛うじて水面に浮いている人を救助して行っていた。岸近くにはパトカーや救急車が何台も停まっていていて、救急隊員が担架を持って走っていた。一人の救急隊員が俺に毛布を掛けて近くにあったベンチに座らせた。


 あんなに暑かったのに、俺の手も足もガタガタと震えていた‥。


 


 俺はずぶ濡れのまま大谷の家に向かった。どこをどう歩いたかよく覚えていない。気づいたら大谷の家のチャイムを鳴らしていた。


「あれ、五十嵐。どうした? 今日は姉貴とデートじゃなかったのか」

「大谷‥」


「てか、なんでずぶ濡れ? まぁ入れよ。それ乾かさないと」

「どうしよう、大谷‥俺、駅前公園でボートに乗ろうって誘ったら‥リヴァイアサンが現れて、クジラゾンビがるり子さんを飲み込んで消えちゃったんだ」


「はぁ?」

「俺がボートに乗ろうなんて言ったから‥」

「お前、大丈夫か? 姉貴にフラれたのか」


 大谷は怪訝そうに俺を見ている。思わず俺は大谷の肩を引っ掴んで言った。「お前の姉さんが連れ去られたんだよ、クジラゾンビに!」


 外では救急車のサイレンの音が鳴り響いている。大谷もハッとしたようだ。


「外が騒がしいのって‥まさか何かあったのか?」


 大谷はポケットからスマホを取り出した。駅前公園での事件がすでにニュース速報として流れているようで「たった今入りましたニュースです‥」とキャスターの声が聞こえてきた。


「なんだよこれ‥」

「映画のセットとかじゃない、本物なんだ。そいつがるり子さんを飲み込んで消えちゃったんだ」


 俺は玄関の冷たい床にがっくりと膝をついた。


「お前は家に帰れ。俺、公園に行ってくる」

「俺も行くよ!」

「そんな恰好してたらカゼひくぞ。後から電話するから」


 大谷はそのまま家を飛び出して行った。俺は仕方なく家に帰った。


「宏樹は夕勤か。帰りは22時になるのか‥くそっ」




 シャワーを浴びて出てくると黒猫の姿のディアンが足に擦り寄って来た。「直巳ぃ~もうすぐご飯にゃあ」


「ディアンちゃん! 駅前公園の池にリヴァイアサンが現れたんだ。るり子さんがクジラゾンビにさらわれて‥俺と一緒にるり子さんを取り返しに行ってくれ!」


「にゃっ! 今度はリヴァイアサンが出のか。う―ん、直巳と二人じゃ・・。ご主人様が帰って来るまで待つのにゃ」


「待てないよ! るり子さんの身に何かあったらって思ったら居ても立っても居られないんだ」


 あの時。ボートの上で俺はるり子さんに自分の気持ちを打ち明けようとしていた。少し衝動的ではあったがこれを逃したらもうその機会は訪れない気がしたんだ。


 姉さんに言えなかったあの言葉と同じように‥。





 姉さんは俺が17歳の時に結婚した。放任主義の両親のもと、姉さんが俺の母親みたいに面倒を見てくれていたのに、何の相談も前触れもなく突然結婚した。


 俺だって子供じゃない、ずっと姉さんがこのまま家に居てくれるとは思ってなかった。だけどあまりにも突然だったんだ。しかも結婚してアメリカに住むと言うのだ。


 姉さんの相手は同じ会社の上司。突然アメリカへの赴任が決まり結婚を決意したらしい。急な事で結婚式は簡素に親族のみで行われた。その結婚式の時でさえ俺はふて腐れてずっと不機嫌な顔をしていた。


 多分、俺はちょっと遅い反抗期だったのだと思う。姉さんに幸せになって欲しいと思いながらも素直に祝福してあげられなかった。


 俺だって心の準備ってものがあるんだ。姉さんがいなくなったら学校の弁当も自分で作らなきゃいけなくなるし、大学の選考についても相談したい事が沢山あった。父さんや母さんは『直巳の好きにしなさい』としか言わないから姉さんに相談したかったのに。それなのに俺を置いてアメリカなんかへ行っちゃうのか?


 姉さんが出国する当日、俺は一人で留守番すると言ってきかなかった。父さんも母さんも成田まで一緒に見送りに行こうと俺を誘ったが、俺は頑として腰をあげなかった。迎えのタクシーが来て父さんたちは先に乗り込んだ。しぶしぶ玄関まで出てきた俺に姉さんは寂しそうな顔をして言った。


「直ちゃん、急な事でほんとにごめんね。最近は忙しくて話もまともに出来てなかったし‥」


 姉さんの目にはうっすら涙が浮かんでいた。俺は自分がどれほど幼稚だったかを今更ながら思い知った。


「姉さ‥」


 ごめん、素直におめでとうって言えなくてごめん。俺ほんとうにガキだったよ。姉さん、ちゃんと幸せになるんだぞ、アメリカの食い物が合わなかったらすぐ帰ってこいよ!


 喉元まで出かかった言葉がタクシーのクラクションにかき消された。


「じゃあ行くね。落ち着いたら連絡する。直ちゃんも体に気を付けて元気でね」



 

 でも姉さんから連絡が来ることはなかった。アメリカに着いてたったの1か月で自動車事故に合い夫婦共に亡くなってしまったのだ。


 俺は今でも後悔している。あの時、たった一言「結婚おめでとう」と言えなかった事を。



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