第19話黒い猫


「昨日さ、バスの運転手が話してたんだけど」


 朝食の席で俺は宏樹の背中に話しかけていた。宏樹はコーヒーを淹れている。「バスの運転手がどうしたのだ」


「どうかしたのは運転手じゃないんだよ。乗ってた若い男がさ、バスの中で倒れたんだって。急きょ一時停止して救急車を呼んだらなんとその男!」俺はここで一旦、劇的効果を狙って間を置いた。


「その男?」


「よくぞ聞いてくれました! なんとその男、右手と右足が重度の凍傷になってたんだって! 凍傷だぞ、凍傷。まだ10月の中頃だってのにさ」


「ほう?」


「ほう、じゃないぜ。真冬だとしたって関東で凍傷になんかなる人はいないよ」


 宏樹は淹れたてのコーヒーを俺に差し出し、自分も美味そうにコーヒーをすすった。


「救急隊の人は何か薬物を触って凍傷になったんじゃないかって言ってたんだってさ」

「なるほどな」

「なんだよ、感動が薄いなぁ。俺はこれ聞いて結構びっくりしたんだけどな。不思議だろ? 10月に凍傷なんてさ。まぁ薬物かもしれないんだけど」


 宏樹は別段、興味も示さずコーヒーを飲んでいる。


「だけど凍傷になっちゃうような薬剤ってなんだろうな。低温やけどみたいなものか? ドライアイス触ったら火傷するんじゃなかったけか? 氷も怖いもんだな・・待てよ。氷ってお前まさか・・」


 宏樹は俺と目を合わせない様にしている。


「その若い男に何かしたのか?」

「少し思い知らせてやっただけだ。村木さんに暴言を吐いていたからな」


「嫌な客なんて山ほどいるんだから、いちいち思い知らせててバレたらやばいだろ」

「バレると思うか? 我は釣銭を渡した時、少し手に触れただけだ」


「気を付けてくれよ・・でもお前にそんな事まで出来るなんて思わなかったな」

「さて、今日は午後からヘルプで出勤だ。我はもう行くぞ」


「ああ」

「『行ってらっしゃい』だ」

「・・いってらっしゃい」


 相変わらず頑固なやつ!




__________





「おう、あんちゃん頑張ってるな」


 この初老の男性客はコンビニの近所に住んでいるらしい猫おじさんだ。野良猫に安売りの食パンや猫缶を買い与えているのでそう呼ばれている。


「あんちゃん、何か好きな物飲みなよ」


 宏樹はなぜかこの男に好かれていて、時々飲み物をご馳走になっていた。


「ありがとうございます。ご馳走様です。今日は駅前公園の猫にあげに行くんですか?」

「うん、そうだよ。夏に子供が生まれた猫がいてね、家族が増えたからおじさんも大変さ」


 その客はそう言いながらガハハハと豪快に笑っている。自分にはオロナミンBを買って、それを飲みながら猫が餌を食べるのを眺めているらしい。


 自分の眷属にネコ科の生物がいる宏樹としてもこの客には好意を感じていた。



 そのすぐ後だった。事務所の外に黒い猫が現れたのは。


「あーまた来てるな、あの猫」オーナーが猫の後ろ姿を見送りながら言った。

「よく来るんですか?」


「バイトの子が餌あげちゃってさ、それ以来よく来るようになっちゃったんだよね」

「ねずみ避けになっていいらしいですけどね」


「そういう効果はあるかもねぇ」そう言うオーナーの口調からはあまり猫が好きでない事が伺われる。

「この間なんかひょっこり事務所の中に入って来ちゃってさ、目の端に黒い物体が動いててびっくりしたよ」


 オーナーが事務所を出入りすると猫はさーっと逃げて隠れる。だがしばらく経ってから行くとまた現れて、日当たりのいいコンクリートの上で昼寝をしていたりする。誰かが餌をくれるのを待っているのだろう。



 17時であがった宏樹は自分の後ろをあの黒猫が付いてくるのに気が付いた。線路の脇のフェンスの上を歩いていると思ったらいなくなり、ふと後ろを振り返るとまた一定の距離を置いて宏樹の後を付いて来ていた。


「お前どうした? 我に付いて来ても無駄だと思うぞ。コンビニ周辺をウロウロしていた方が餌にありつけるはずだが」


 黒猫は宏樹のアドバイスにあくびで答えた。


 秋の夕暮れはあっという間だ。日が落ちて夕闇が迫る頃、家に着いた宏樹が中に入って行くのを猫は隣家の塀に登ってじっと見ていた。


 直巳はまだ大学から帰って来ていない。冷蔵庫を開けた宏樹はそろそろミートボールを買い足しに行かなくてはな、と考えていた。


 米を研ぎ、炊飯器にセットする。味噌汁は出来た。後はミートボールを買いに行けばいいな。そう思った瞬間またフラッシュバックが襲って来た。


「〇〇さんってホントにお料理が上手よね。うちの母が作るものよりずっと美味しいわ」


 ぼんやりして相手の顔ははっきりしないが、若い女性がそう言いながら笑っている。名前もよく聞き取れない。女性は食器棚からお皿を2枚取り出している。また何か言っているが今度は聞き取れなかった。




「・・さん。・・宏樹、宏樹!!」


 我に返ると目の前に直巳が立っていた。


「どうしたんだよ、ぼーっとして。目があらぬ方向を見ていたぞ」

「あ・・ああ」


 今見た物を振り払うような動作で宏樹は頭を振っている。そうしてふと頭を上げると直巳が何かを抱えているのが目に入って来た。


「お前、なんだそれは?」

「なんだって・・猫じゃん」


「いや、それは分かるが」

「うちの塀の上で寝てたんだ。野良にしては人馴れしてるからさ、飼い猫が迷い込んだんじゃないかと思って」


「その猫・・コンビニに居ついてた黒猫だぞ、多分」

「あー! オーナーが言ってた猫か」


「はいですぅ」

「「?!」」



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