第62話

 猛暑が続く夏休みの夕暮れ時。

 窓一面に映る青い海と白い砂浜には目を向けず、俺は胡座を組み、物思いに耽っていた。

 悩みの種は——本懐結愛の帰りが遅いことだ。


「女性の風呂は長いと聞くが……これほどまでとは」


 空が青紫色に変化していくと共に、ミンミンと鳴き叫ぶセミの声も弱々しくなってきている。運命の相手に出会えたからと思いたいね、地中で何年間も待ち続けたのだから。

 巷では、蝉は七年間を地中で過ごし、地上では七日間しか生きられないという説がある。

 だが、最近の研究では、それは嘘っぱちで、数年間を地中で過ごし、地上では三週間から一ヶ月程度生きるというのだ。勿論、七年間も地中で暮らすセミもいるらしいのだが、日本国内にはそのような種類のセミは存在しないようだ。

 まぁ、どちらにせよ、成虫として生きる期間は限りなく少ないけどな。


 チリンチリンとエアコンの風に揺れ動く風鈴の音を聞きながらも、俺の脳内は無意識の間に更に思考を続けていた。

 彼等にとって、成虫として過ごす期間はどんなものなのだろうかと。

 子孫を残すために地上に出るとしても、彼等にとってそこは地獄でしかない。

 夢にも見た地上という世界は、彼等にとっては天敵が多すぎる不毛の地だろう。

 動くものなら何でも食べてしまう地上の王者野良猫に、空に逃げれば容赦無く本領発揮してくる鳥類。

 水辺なら安心と思いきや、そこにはカエルやヘビが待ち構えているのだから。

 そんなリスクを負ってまで、彼等はなぜ地上へと出るのだろうか。天敵の居場所を伝えているのも同然なのに、ミンミンと木にへばりついて鳴き続け、異性の相手を待ち続ける。

 来るか来ないかも分からないのに、ただ長時間運命の相手を待ち続ける。

 果たして、同じことが俺にもできるだろうか……?


「セミ先輩……マジぱねぇ〜」


 蝉の儚い一生を憂いながらも、俺はテレビのスイッチを入れる。

 芸能人のスキャンダル問題、物価高問題、世界のほっこりアニマル動画紹介。

 本日も、この世界は平和で満ちていた。だが、俺の心は穏やかにはなれない。


「……結愛、大丈夫かな??」


 一時間前、愛すべき彼女は「先にお風呂に入ってくるね」と言い残し、部屋を出て行った。女性の風呂が長いと言えども、一時間程度あれば戻ってくるだろう。

 髪を洗う時間も、髪を乾かす時間も、湯船に浸かる時間も。

 そんなことを考慮したとしても、そろそろ戻ってきてもイイ頃合いなのに……。


「……大丈夫だよな、結愛」


 俺は心配症な性格かもしれない。ただ、結愛の無事が気になるのだ。

 実際、彼女がお風呂に入ると言ったのも、発作を起こした際に衣類を汚してしまったからだ。「一人で入りに行くのは危険じゃないか」と俺は引き止めたものの、彼女は「勇太は心配症だよ。あたしは大丈夫だよ」と笑われてしまったけどな。

 まぁ、汚れた衣類を着替えるためにも、先にお風呂に行くことは間違っていない選択だが……。


 欺くして、ご主人様が外出中の忠犬の如く、俺は彼女の帰りを待っているわけなのだ。

 しかし、もう限界であった。


「ダメだ。もうダメだ」


 もしかしたら、結愛がまた発作を起こして倒れているかもしれない。

 もしかしたら、結愛が変な男たちに絡まれているかもしれない。

 もしかしたら、結愛が——。

 様々な嫌な可能性が次から次へと頭の中に出現し、俺は堪らず部屋を飛び出していた。


「結愛、待ってろよ!! 俺が助けに行くぜ!!」


◇◆◇◆◇◆


【彩心真優視点】


 私——彩心真優は鏡の前に座り、長い髪を乾かしていた。

 ぶおおおんんんんと温風を流すドライヤーに合わせて、くしでとかしていく。

 あとからもう一度お風呂に入るつもりなのでそこまでする必要はないかもしれない。

 適当に髪を一束にまとめてしまえば、それだけでいいかもしれない。


(ただ……今から食事を取るのだ。それも、大好きな人と)


 まさかのまさかで彼——時縄勇太と出会うとは思ってもみなかった。

 神様の気まぐれには心から感謝する点でもあるが……。

 彼の隣には、私ではない女の子——本懐結愛の姿もあったけど。

 以前から、私は知っていたはずだ。彼が彼女持ちだってことは。

 今も、私の後方で、彼が大好きな女の子はサユちゃんと楽しげに喋っている。

 微笑む口元には八重歯があり、彼女の無邪気な可愛さが溢れ出ている。


(男の子が守ってあげたくなる女の子って感じがしててカワイイな)


 私と違って、小柄な女の子で。

 私と違って、線が細い女の子で。

 私と違って、素直で無邪気な女の子で。


(時縄くんが結愛さんを好きになる理由も分かるよ……嫌なほどに)


「んっ……?」


 鏡の前に映る自分の姿がいつにも増して醜く見えてしまう。

 どうして私は口をキュッと結んだままに、寂しそうな瞳を浮かべているのだろうか。

 本当にバカだな、私は。最初から勝ち目がない勝負だって分かっていたのに。

 本気で彼に恋をして、本気で彼のことで悩んで、本気で彼に失恋してさ。


「真優〜!! アタシたち、外で待ってるから!」


 サユちゃんはそう言い残し、結愛さんの腕を握りしめて脱衣所から出て行った。

 一人残された私はドライヤーの温度設定を変更し、一番冷たいものにした。

 夏場なので、熱くも涼しくもない微妙な温度。ただ、その温度が心地よく感じてしまう。


「どうしてかな……どうしてこんな辛い思いをしなくちゃいけないのかな」


 私は彼——時縄勇太のことが好きだ。堪らなく好きだ。

 ただ、彼のことが大好きな彼女——本懐結愛から彼を奪うことができない。

 彼のことを思う気持ちは私も負けていないはず。だが、彼女が彼を想う気持ちは、私が持つ感情よりも数倍、いや数十倍も重くのしかかってくるのである。

 少なからず、私は本懐結愛に対して、ある種の好意的な感情を抱いている。

 多分、それは友達と呼ぶにはあまりにも遠すぎる感情で。

 かと言って、敵意というものではない中途半端なものだ。


「本当に意味が分からない……こんな感情になったのは初めてだ」


 本懐結愛が消えてしまえば、私は彼を独り占めできるのだろうか。

 そうすれば彼にとって、私の存在は格上げされるのだろうか。

 いやいやいや、何を考えているんだ、私は。最低だな、私は。


「結愛さんと私は友達なんだから……そんな感情は抱いちゃダメだよ」


 難問だと呼ばれる数学の問題でもスラスラ解けちゃうのに。

 どうしてこんな感情的な問題を解くことはできないんだろう。

 時縄勇太を自分のモノにしちゃえば、それだけで全てが解決するのに。

 私はそれを実行に移すことができないなんてさ……。


「あぁ、もう悪女になると誓ったのに本当中途半端だよ、私は」


 時縄勇太も本懐結愛も、そして私も幸せになる道を探してしまう。

 だって、誰も悪くないのだから。だって、誰かを好きになることは悪くないと思うから。

 それなのに、どうして誰かが傷付かなければならないのだろうか。

 全員がハッピーエンドになれる道は、この世界には本当にないのだろうか。


「時縄くんが、あの子よりも私を好きになっちゃえばいいのに」


 長時間湯船に浸かっていた結果、変な考えを思いついてしまう。

 彼女のことが大好きで大好きで仕方がないバカな彼がそうなるはずないのに。

 現実的には不可能なはずなのに、私はそうなったらいいなと夢想してしまうのだ。


「そうすれば……悪者は私だけじゃなくなるのにな」


 本懐結愛に対する罪悪感も、二人で分かち合えば怖くない。

 まぁ、万が一でも、そうなる未来なんて起こるはずがないのにね。


「バカだな、私。絶対に叶わない恋だって理解していたのに」


 本気で彼のことをこんなにも好きになっちゃうなんてさ。

 本気で彼のことを想って、彼との未来を考えてしまうんだから。

 けれど、この浮遊感が温泉の醍醐味かもしれない。


「私は悪女失格だよ。誰かを傷付けることなんてできないもん」


 もう諦めてしまおう。

 この初恋を。もう忘れてしまえばいいのだ。

 彼が、私を選ぶか、あの子を選ぶかなんて分かっているんだから。

 これ以上彼のことを好きになる前に、この初恋に終止符を打ってしまおう。

 もう後戻りができなくなるほどに、彼のことを好きになる前に——。


「時縄くんは、私よりもあの子の方がお似合いだもんね」


 鏡の前に映る自分の頬を伝うのは無数に溢れる涙。

 これ以上、彼のことを知ろうとしたら——。

 傷付いてしまうのは自分だ。もうこれ以上傷付きたくない。

 ならば、選ぶ道はただ一つだ。


「忘れちゃおう、こんな叶わない初恋なんて」


 私は止め処なく流れる涙を拭い、鏡の前で無理矢理笑顔を作った。

 下手くそな笑顔だ。

 だが、今日流した涙がきっといつの日か、必ず正解だと思えるように——。





 人生で一番泣いた。

 そう思えるほどに泣くだけ泣いて、私は椅子から立ち上がる。

 泣き晴らした目を隠すために、水で何度も顔を洗った。

 これならば、絶対に誰にもバレないだろう。

 私が女子風呂の暖簾を潜って、外へと出ると——。


「あ……」


 美女一人に、美少女一人、それに私が大好きだった彼の姿があった。

 お風呂上がりと思える女性陣二人の手元には、風呂上りの一杯と思えるビンがある。

 中身は、コーヒー牛乳とフルーツ牛乳と言った感じだろうか。実に美味しそうだ。


「ったく……何をやってたんだ? 彩心真優、心配したんだぞ」


 心配した? 彼が私を?


「もしかしたら、お前が一人で食堂に行ったかと思ってたぞ」

「デリカシーがないよ、勇太くん。女性には色々とあるんだよ」

「そうだよ、勇太!! 乙女心が全然理解できてない!!」


 本懐結愛は愛する彼氏にお叱りの言葉を吐くと、私へと視線を向けてきた。


「ごめんね。勇太はそ〜いうの全然分からない人だからさ」


 彼氏の代わりに自分が謝ります。

 そう言いたげなのか、本懐結愛は上目遣いで両手を合わせてきた。


「勇太の彼女として、後からいっぱい叱っとくから。ごめんね、真優ちゃん」

「あ、うん。キツくお願いね」


 私は素っ気なく返事を送り、「それで」と切り出した。


「どうしてここに時縄くんがいるの?」


 その発言を聞いた瞬間、時縄勇太と本懐結愛は恥ずかしげに顔を見合わせる。

 二人が何も言わない状況下にて、サユちゃんがニヤニヤしながら「それがさ〜」と教えてくれた。


「結愛ちゃんがお風呂から戻ってくるのが遅くて、心配になって迎えに来たんだって」

「……サユさん、やめてくださいよ。恥ずかしいじゃないですか」

「いやいや、最高にバカな彼氏で羨ましいよ。切羽詰まった感じで走ってきたしね」

「館内は走るの禁止で旅館の人に注意されてたし。勇太は心配症すぎる!!」


 時縄勇太と本懐結愛。

 二人の仲を引き裂く真似なんてできない。

 だって、二人はお互いにこんなほどに愛し合っているのだから。

 もしかしたら、私は——誰かのために必死に頑張る彼に恋をしていたのかもしれない。


「それよりも、浴衣姿のあたしはどう? カワイイ?」


 浴衣姿の結愛さんが、私が大好きな彼へと問いかける。

 すると、彼は恥を忘れて大きな声で宣言する。


「最高に可愛いに決まってるだろ!! 浴衣姿の結愛とか、俺得すぎるんだが」

「惚れ直した?」

「当たり前だ!! もう惚れ直しまくってるわ。結愛があまりにも可愛すぎて!!」


 人を傷付けることができない悪女が選ぶ道はただ一つ——。

 二人の幸せを応援することだけだ。

 それで大好きな彼と彼が愛する彼女が幸せになれるなら——。

 きっと、私はこの初恋に区切りを着けられる気がする。


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