第56話
先に断言する。これは夢の話だ。
それも、一度経験した苦い過去をベースに生み出した悪い夢だ。
「ウソだろ……? どうして……どうして……」
大学の合格発表日、俺はスマホ片手に立ち尽くしていた。
画面に映るのは、無機質に並んだ数字とアルファベットの羅列。
自分の番号を何度も確認するも、そのページには表示されていなかった。
「去年も落ちて……今年もまた落ちたのか、俺は」
医学部受験を目指して毎日必死に勉強していたのに。
両親に多額の出費を払わせたくせに、俺はまた失敗したのか。
次こそは必ず医学部に入学し、立派な医者になると誓っていたはずなのに。
「——————うう!!」
ブーブーと立て続けに鳴り響くのは、スマホの通知音。
送り主は両親とその親戚。
合否が気になり、結果を聞き出そうとしているのだ。
と言えども、俺は彼等へ返信を送る気力もなく、ただ茫然とするのみ。
無力でちっぽけな情けない自分への怒りを押し殺していると——。
『結愛:結果はどうだった? 四月から医学部入学おめでとう!』
『結愛:って、まだ合否が決まったわけじゃないのにごめん。一人先走って』
『結愛:でも、あたしは信じてるよ。勇太が絶対に受かっているって』
最愛の彼女から送られてきたのは、一寸の狂いもないほど純粋な言葉。
しかし、俺はそのあまりにも優しく、でも傷付けるのに十分な言葉に悔し涙を流した。
「ごめん……結愛。約束守れなくて……ごめん、結愛……医者になれなくて……」
◇◆◇◆◇◆
「はぁはぁはぁはぁはぁ……」
激しい動悸に襲われ、俺は嫌な夢から目覚めた。
呼吸は乱れ、大量の汗を掻いていた。
シャツが肌に纏わり付き、不快感が拭えない。
「大丈夫? うなされてたけど」
結愛の優しい声を聞き、俺は呼吸を整える。
先程までの出来事は夢なんだ。あれは現実の出来事ではない。
そう自覚しながら、俺は口元を緩めて。
「あぁ、大丈夫だよ」
「そっか。それならよかった」
結愛が微笑む。
俺はその最高の笑みを下から覗き込む形で見ていた。
今まで意識していなかったが、俺の頭上には双璧の果実がある。
更には、頭と首筋には柔らかく温かな人肌が触れている。
この状況を考えるに、どうやら俺は膝枕してもらっているようだ。
「ん? 待て……結愛、これはどういう状況だ?」
「勇太があたしの太ももに夢中」
「俺が変態みたいに聞こえるんだが!!」
「頬っぺたをスリスリさせて息をふーふーしてたのに?」
「…………眠っている間の俺はなんてことを!!」
「という完全犯罪? 眠っている間の行為も責任問題が発生すると思う」
「んなわけあるか。そこまで俺は器用な人間じゃないよ」
もしもそんな器用さがあるなら、もっと卑猥なことをしているはずだ。
「俺……どれくらい寝てた?」
「お弁当を食べてからずっと寝てたよ」
本日の昼食は結愛の手作り弁当だった。
海苔を巻いたふっくらおにぎりと、俺好みな脂っこい茶色系統のおかず。「作り過ぎた」と本人が言う通り、俺用の弁当箱には所狭しとおかずが敷き詰められていた。
容器はプラスチック製の使い捨て弁当箱を使用し、おにぎりはラップで包まれていた。結愛曰く、帰宅するのが明日になる都合上、厄介な荷物を減らしたかったようだ。実際、夏場は腐臭問題を起こす可能性もあるし、英断と言うしかない。
「それにしても……勇太の寝顔可愛いかったなぁ〜」
そう言いながら、結愛は手元のスマホを大事そうに握りしめている。
普段はのほほんとしている結愛だが、本当に気が利く女の子だ。
将来は有望なお嫁さんになるだろう。俺はそう確信してしまう。
「……結愛、とりあえず寝顔を撮影するのは禁止にしようぜ?」
「ダメ。隙を作った勇太が悪い。それにこれも大切な思い出のひとつ」
「そうだな。大切な思い出のひとつだよな」
結愛の意見に同調しながらも、俺は彼女の寝顔を撮影する決意をした。
大切な思い出を作るのだ。これは別に悪いことではないよな?
「勇太は頑張ってるよ」
「えっ……?」
「寝言聞いてたの。また落ちたって」
結愛は優し気な笑みを浮かべ、情けない俺の頭をゆっくりと撫でた。
「勇太なら大丈夫だよ。勇太が頑張ってること、あたしは知ってるから」
俺が結愛を見ているように、結愛も俺を見ているのだ。
彼女の前ではカッコいい彼氏のままでいたいのに。
寝ている間に彼女を心配させてしまうとは……。
「ごめんな、結愛。心配掛けちまって」
「ううん。それはこっちのセリフだよ」
結愛はそう呟き、目尻を細めて。
「あたしのせいで医学部に入らなきゃって切羽詰まってるだよね?」
「…………そうだな。追い込まれてるよ。どうすればいいんだろうってな」
「それじゃあ、今から勇太におまじないをしてあげる」
「おまじない……?」
「うん、おまじない。勇太がこれ以上自分を追い詰めないために」
穏やかな微笑を浮かべ、結愛は静かに顔を寄せてきた。
鼻先が触れ合う寸前の距離で、彼女の吐息と栗色の髪が頬を撫でた。
蜂蜜色の瞳が俺を深く見つめ、心臓の鼓動が速まる。
彼女は俺の頬へと両手を添え、完全に逃げ場を奪った。
「勇太はもっと甘えてもいいんだよ」
俺の視界いっぱいに広がるのは、最愛の彼女の姿。
幸せな眺めだなと思う頃には、お互いのおでこ同士が静かに触れ合い、確かな安らぎが押し寄せてくる。
「勇太なら大丈夫だよ。勇太なら絶対に合格できる」
一年後の話なのに結愛は断言した。
俺の成績が不安定な状況にも関わらず、合格が保証されているとでも言うように。
「本当はね、今回の旅行は勇太のためを思ってなんだ」
「ん? どういうことだ?」
「今回だけは、勇太に勉強のことを忘れて遊んでもらおうと思って」
俺は毎日勉強に励んでいる。
朝から晩まで休みなくだ。
それを知るからこそ、結愛は一泊二日の旅行を計画してくれたのか。
「頑張り屋さんな勇太にも休息が必要でしょ?」
俺は根詰めて勉強する癖がある。
周りから心配されるほどに。
良い意味で言えば、それはストイック。
悪い意味で言えば、ただの狂人にしか見えないのだろう。
「結愛の言う通りだな、偶には休息も必要だよな」
「うん。勇太だって年頃の男の子だもん。我慢しなくていいんだよ」
長い睫毛に、アーモンド形の大きな瞳。
彼女は頬を朱色に染め、微笑を作る。
その後、俺の手を掴み、自らの胸元へと押し当てた状態で言うのだ。
「もっともっとあたしを感じていいんだよ、勇太は」
確かな膨らみがある胸元を揉み、俺は人肌のぬくもりを知る。
たった一度揉んだだけなのに、また揉みたいと強く思ってしまうのだ。
服の上から触れただけなのに、俺は興奮が止まらず、鼻息が荒くなってしまう。
「あたしはね、勇太のたったひとりの彼女なんだよ」
冷静さを失う俺に対して、結愛は母性溢れる笑みを浮かべる。
その姿を見るだけでもう全てを投げ捨て、彼女を襲いたい欲望が生まれてしまう。
「だからさ、勇太はもっともっと頼っていいんだよ。もっともっとドキドキしていいんだよ。もっともっと求めてくれていいんだよ。もっともっと甘えてもいいんだよ」
結愛はそう呟き、俺の唇を奪おうとした。
だが途中で動きが止まる。
車内のアナウンスが鳴り響いたのだ。
俺たちが片道四時間を掛けて目指した目的地へと。
「残念。タイムアップ」
甘い吐息が頬を掠める中、結愛は添えていた両手を離した。
名残惜しそうな瞳を浮かべたまま、彼女は俺のおでこに唇を合わせた。
「この続きは夜にお預けだね、勇太」
◇◆◇◆◇◆
潮風が流れる海辺際の無人駅。
改札口もなければ、駅員の姿もない。
あるのは、駅の名前が書かれた大きな看板と切符入れ用の金属箱。
俺たちは、地平線上に続く水の世界に圧倒されていた。
「海だな」
「海だね」
テトラポットに波が押し寄せ、大きな水しぶきを作る。
その後、またすぐに新たな波が現れる。
それを何度か繰り返すのを眺め、俺は思わず笑ってしまった。
「夏って感じがしてきたな」
「そうだね。早く海に行って遊びたいね」
「結愛は泳げないだろ?」
「…………水遊びぐらいはできるから」
俺はリュックサック一つ。
結愛は大きなキャリーバックと小物入れ用の手提げ袋を一つずつ。
「旅館までの道のりはこっちだな。行くぞ、結愛」
「勇太!! 自分で持つからいいよ!! キャリーバック!!」
後方の結愛が抗議の声を上げるが、俺はそれを無視する。
荷物持ちが俺の仕事だ。女の子に手を煩わせるわけにはいかない。
「ここが旅館か。雰囲気があるな」
「老舗の旅館。創業100年以上だって」
「こ〜いう場所ってお化けとかが出るんだろ?」
数秒間の沈黙。
隣でニコニコ笑顔だった結愛の表情が固まる。
変な温度差を感じていると、結愛が小さな声で呟き、服の袖を掴んできた。
「……………………勇太のバカ」
「結愛……もしかして幽霊とか苦手なのか?」
「ゆゆゆ幽霊とか……ぜ、ぜんぜんこわくにゃい」
「噛んでるぞ、結愛」
病院生活の結愛と言えども、意外と幽霊が怖いようだ。
これは新たな発見だ。幽霊に怖がる結愛の姿も見てみたい。
そんな邪な考えが過ぎりつつ、俺は彼女の手を握って旅館内へと足を踏み入れる。
「スゴイ地味だな」
「勇太。口が悪い。風情があると言わなきゃ」
俺たちが案内されたのは、レトロな雰囲気が漂う畳の座敷部屋。
テレビは薄型の最新型だが、照明や部屋の内装が全体的に古臭かった。
「でもよかったじゃん。フロントで幽霊は出ないって言われたし」
「……当たり前。幽霊なんて非科学的なものが出るはずがない」
プイっと顔を背けつつ、結愛はそう呟く。
それから視線を僅かに俯かせたままに。
「勇太のほうがよかったね。混浴にも入れるらしくて」
流石は老舗旅館というべきか。
男性風呂・女性風呂以外にも、混浴風呂があるというのだ。
それも予約を取れば、私用で利用も可能だというのだ。
勿論、女将さんから口を酸っぱく「ハメを外しすぎるのはダメ」だと言われたが。
「それにしても、結愛……どうしたんだ? ソワソワして」
「……えっ?? ええと、そ、その……」
結愛は足元をモジモジさせる。
程よい肉付きがある細い白肌を擦り合わせる。
その姿が異様に扇情的に見え、俺は鼻を啜ってしまう。
「……勇太。ちょっと耳を塞いでてほしい」
「はぁ? どうして?」
「…………お手洗い行きたいから」
音漏れを気にしているのか。
別に、俺は全く気にしないのだが。
ともあれ、結愛は女の子。気になるのだろう。
「テレビ点けてるから。それでいいだろ?」
「わかった。でも聞いてたら……絶対許さないから」
「排泄音を有り難く思うほど、俺は特殊な性癖はないぞ」
結愛はトイレへと向かい、俺はテーブルへ置いてあるリモコンを手に取る。
電源ボタンを押してみるのだが——。
「あれ? 電源が点かないな」
何度か試してみるが、全く電源が点く気配すらない。
静寂な空気だけが漂う中、謎のせせらぎが聞こえてきた。
俺はその正体が何かに気付き、慌てて行動する。
どうやらテレビのコンセントが入っていなかったようだ。
俺は気を取り直して、テレビの電源を入れると——。
「ねぇ、勇太。まだ夕食まで時間があ——」
ベストタイミングで結愛が戻ってきた。俺はテレビに夢中だった。そうだ。俺は何も聞いていない。変態小僧のような真似は一切していない。
「あれ? 結愛? どうしたんだ? 顔を隠して」
「ええええっと……勇太はずっとテレビ見てたの?」
「当たり前だろ。テレビに夢中だったぜ!!」
言った後に、しまったと思った。
テレビ画面に映し出されるのはアダルトビデオ。
旅館へと遊びに出かけた男性と女性が交わり合う姿があったのだ。
俺は慌ててチャンネルを変え、報道関係のニュースへと切り替える。
「勇太も男の子だもんね。大人な女性が大好きだよね」
「待て待て。これは誤解だよ、結愛」
「でも夢中だったんでしょ?」
「それは言葉のあやで……ええと」
誤解を解くのに、無駄に時間が掛かった。
だが、結愛は納得した様子で、ほっと肩を撫で下ろした。
「で、今からどうする? まだ時間があるし」
俺がそう訊ねると、結愛は飛び切りの笑顔で断言する。
「水族館に行きたい!!」
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作家から
水族館に数える程度しか行ったことがありません。
参考資料とか役に立つ情報があれば教えてください。
また、こ〜いうシーンを読みたいというご要望があればください。
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