第49話:切ないデート⑤

「……………………」


 戸惑いを隠せず、ただ黙り込んでしまう。

 そんな情けない俺のために、結愛はもう一度同じ言葉を吐いた。

 一回目とは違い、恥ずかしさなど微塵も感じさせない口調で。


「勇太。お願い。あたしにキスの続きを教えて」


 その言葉を女性側が口にするのは、大変勇気が必要なことだ。

 特に俺の彼女・本懐結愛みたいな引っ込み思案な女の子が言うのは。

 彼女の気持ちを深く受け止め、その期待に応えたいし。

 俺だって、いつの日か、本懐結愛とキスの続きを行いたいと思っていた。

 しかし、それと同時に——。


***————***


 昨日の昼休み、俺は彩心真優から挑発を受けていた。


「明日はあの子と絶対にヤったらダメだからね。他の男とは違うって教えてよ」

「お前には関係ないことだろ? 俺と結愛の関係には」

「ううん、もう関係あるよ。私も時縄くんのことが好きだから」


 真っ直ぐな瞳に見つめられると、俺はどうしても言うことを聞いてしまうのだ。

 吸引力がある宇宙のような瞳は続けて。


「女性の価値はヤらせてくれるかヤらせないかで決まらないんでしょ?」


 それならさ、と目尻が柔らかく緩んだままに。


「それならさ、真実の愛ってのを私にも教えてよ。カラダの関係を伴わないさ」


***————***


 アイツの言葉を鵜呑みにしたわけじゃない。

 彩心真優から挑発を受け、それに乗らないためじゃない。

 カラダを重ねない方法でも、俺たちの愛が繋がっていることを証明したかったのだ。


「ごめん……結愛。今日は無理だ」


 俺は結愛のことが大好きだ。

 その言葉に偽りはない。

 この世界で一番愛していると言っても過言ではない。


「どうして……? やっぱりあたしのこと嫌いなんだ」


 ならば、さっさと大好きな彼女と一夜を共にすればいいのではないか。

 彼女の想いに応えるのが、彼氏としての義務であり、責任だろう。

 そう不思議に思われるかもしれないが、二元論で解決できる問題ではないのだ。


「嫌いじゃないよ。俺は結愛が大好きだ大好——」

「……勇太はいつも口ばっかりだよね」


 俺の声は容赦無く、本懐結愛の言葉で掻き消された。

 その一声を皮切りに、彼女からの本音が容赦無く吐き出される。

 今までずっと溜め込んでいたであろう、彼女から俺に対する疑惑が。


「勇太は優柔不断なところがある。本当に好きなら迷うことなんて何もない」


 結愛は目を閉じ、唇を突き出してきた。

 その意味は——キスして。

 それぐらいは長年の付き合いだから分かる。

 しかし、俺は身動きが取れなかった。

 そんな俺を痺れを切らしたのか、結愛は片方の目だけを開いたままに。


「やっぱり勇太は……いつもいつも口ばっかり。あたしを愛してるって言葉は嘘なんだ」

「嘘じゃない。俺は結愛が好きだよ。大好——」

「それなら、それをしっかりと形にして見せてほしい」


 形にしてみせろと言われても……。


「ほら、やっぱり勇太は何もできない。いつも逃げてる。好きって言葉は嘘なんだ」

「どうして嘘だと決めつけるんだよ。こんなにも俺は好きな——」

「嘘は要らない。あたしは誠意が見たい。勇太がどれくらい好きなのかって」


 周りを歩く人々がこちら側をジッと見つめてくる。

 変な視線が嫌なほどに突き刺さる。

 とりあえず、場所を変えて話し合ったほうがいいかもしれない。


「結愛……ちょっと場所を変えよう。ここは人目が付くし……」

「逃げるんだ」

「逃げるわけじゃないよ。結愛と真剣に向き合おうと思ったからだよ」

「なら、ちゃんと聞いてよ!! あたしの気持ちをちゃんと聞いてよ!!」


 静寂な夜に鳴り響くのは、涙を流す愛する彼女の怒号。

 自分の感情をあまり表に出さない本懐結愛。

 普段から温厚な彼女が感情を剥き出しにするのは珍しかった。


「結愛、頼む。一旦落ち着こう。なぁ、他の人からも注目されて——」

「他の人は関係ないでしょ!! あたしのことだけを見てよ、ちゃんと!!」

「うん。見てるよ。ちゃんと分かってる。だから、場所を変えようって」

「全然勇太は分かってない。何も分かってない。あたしの気持ちを」

「いや、分かってるよ。分かってるから……ちゃんと話そうと言ってるんだろ?」


 何がいけないのだ。

 俺の何が悪いんだよ?

 結愛の話をしっかりと聞くと言ってるじゃないか。


「嫌いだからでしょ? 嫌いだから抱いてくれないんでしょ? あたしのことなんて」


 違う。


「あたしみたいな女は面倒だもんね。こんな女を抱きたいと思う男なんていないよね」


 違う。

 心の中で否定を続けるのに、それを口にできない。


「あ、分かった」


 そんな俺を置いてけぼりにしたまま、本懐結愛は手をポンと叩いた。

 まるで、何かに気付いたかのように。

 数十分前までは、煌々と輝いていた茶色の瞳を濁らせたままに。


「あたしよりも大事な女の子ができたんだ。だから、あたしは用無しってことでしょ?」


 本懐結愛の妄想は続く。

 高らかな笑い声を交えながら。


「あたしみたいな面倒な女とはさっさと別れたいよね。自分でも知ってたよ。病気持ちの女と付き合うなんて、将来が不安だもんね。一緒に沢山遊び回れる女のほうがいいもんね。それぐらい前から知ってた。あたしなんて、何もない空っぽな女だもんね。何の役にも立たないし、つまらない女だもんね」


 だから、と結愛は身勝手な結論を出した。


「だから、あたしみたいな面倒な女とは遊びで付き合ってるだけってことでしょ?」


 人と人はなぜ分かり合えないのだろうか。

 俺の心を映し出す水晶でもあれば、気持ちを簡単に伝えられるのに。

 そんな都合の良いものなどないのが現実で。


「大切なんだ、結愛のことが」


 言わなければ決して伝わらない。

 言わなくても自分の気持ちが伝わってほしい。

 そう願ってしまうのはワガママだ。


「結愛のことが大切だから、お互いの時期を見極める必要があると思うんだよ」

「どういうこと……?」


 未だに俺の気持ちを理解できない大切な彼女。

 美しい向日葵色の瞳が風に吹かれる火のように揺らめいている。


「正直、俺は……一度知ってしまったら、歯止めが効かなくなると思う」

「女のカラダを、ってこと?」

「あぁ、そうだよ。でも、それってさ……あまりいいことではないだろ?」


 言い方は悪いが……。

 自分の彼女を性欲処理の道具のように扱いたくないのだ。

 結愛は、元々身体が丈夫なほうではないし、何かと気を遣う必要がある。

 それを考えた場合、俺のように飢えた男は何度も関係を迫ってしまうだろう。

 そうなってしまうと、彼女のカラダが持つのか心配になるのだ。


「俺はさ、結愛のことが心配なんだ。もしかしたら、壊れてしまうんじゃないかってさ」


 小学生から中学生へと上がる前の春休み。

 結愛は突然意識を失い、病院へと搬送された。

 あの日以来、結愛は人が変わってしまったかのように暗い性格になってしまったのだ。

 もしかしたら、また彼女が体調を壊してしまうのではないか。

 そんな思いが募りに募って、俺は今まで一度足りとも彼女に関係を迫れなかったのだ。

 どうぞ、ご自由に俺のことはヘタレ男だと罵ってくれて構わないさ。


「勇太にイイコトを教えてあげる」


 そう切り出し、この世で一番愛する人は続けた。


「——あたしはもう既に壊れてるんだよ。意識を失ったあの日からずっと」


 だから、と彼女は無邪気に微笑んだ。

 言っている内容は暗いのに、それを全く感じさせない明るい笑顔で。


「だから、安心して。もっとあたしを壊れさせてよ」

「安心していいと言われてもだな……」

「勇太は優しいね。でも、男の子なんだもん。もっと手荒く扱ってもいいんだよ」

「手荒くって……できるわけないだろ、結愛が大切なんだから」

「女の子だって、時には激しく求められたいんだよ。愛する人になら、もっと強くね」


 その言葉が意味するのは——。

 結愛はもっと恋人らしい関係を欲していたのだ。


「実はね……前からね、あたしはずっと勇太とそんな関係になりたかったんだよ」

「えっ…………?」

「あたしだって、年頃の女の子だもん。やっぱり……好きな人と繋がってみたいなって」


 俺は一つの勘違いをしていた。

 結愛は、俺とそんな関係を求めていないと思っていたのだ。

 プラトニックな恋愛を求めている。そんなふうに思い込んでいたのだ。

 実際、結愛からは激しくカラダの関係を求められたことは一度もなかった。

 他の恋人たちは更なる関係へと進んでいるものの、俺たちは俺たちのペースでいいと。

 しかし、それはあくまでも俺が勝手に思い込んでいたもので……。


「ほんとうはね、あの日——あたしはもっと勇太に強く迫って欲しかったんだよ」


 あの日——。

 それは全国模試の結果が発表され、俺の心が最悪なまでに落ちていたとき。

 そして、俺が彼女以外の女とカラダの関係を持ってしまった日。


「でも……あの日、結愛は俺を拒絶したじゃないか」


 本懐結愛は間違いなく、俺を拒絶した。

 俺の頬を殴り、「帰って」と冷たい声で言い放ったのだ。

 それにも関わらず、彼女はこういうのである。


「好きだからだよ、勇太。好きだから拒絶することだってあるんだよ」と。


◇◆◇◆◇◆


【彩心真優視点】


(本当に私は悪趣味だなぁ〜)


 人々が行き交う夜の駅前はオレンジ色に煌々と輝いていた。

 しかし、そんな光よりも輝いて見えるのは——。


(好きな人のデートを覗き見する真似をするなんてね)


 絶対に叶うことがない。

 そう言い切ることができる、彼女持ちの彼・時縄勇太の姿。


(あれから一日中……ずっと彼の姿を追うなんて)


 バカなことをしている。

 そう自分でも気付いていた。

 傷付くのはもはや誰でも分かることだ。

 彼と彼が大好きな彼女のデートを尾ければ、自分が苦い思いをするなど。

 それなのに……。


(もしかしたら、私にもチャンスがあるんじゃないか。そう思っちゃうんだから)


 この恋を諦められたら、どれだけ悩まずに済むのだろうか。

 この感情にウソを吐けば、どれだけ気が楽になれるのだろうか。

 さっさと彼を想う気持ちを忘れてしまえば、これ以上傷付かずに済むのに。


(自分から傷付くために、あの人に近づいちゃうって……)


 合理的な判断ではない。

 校内模試では一位を獲得する実力者なはずなのに。

 勉強と恋愛では、話は別なのかもしれない。

 そう思っていると——。


『なら、ちゃんと聞いてよ!! あたしの気持ちをちゃんと聞いてよ!!』


 楽しげな人々の話し声が聞こえる中、その金切り声はやけに響いた。

 周りの人々も何が起きたのかと、辺りをチラチラと確認している。

 その声の主は、一人の可愛らしい少女。

 彼女は真剣な表情で訴えかけているのだ、私が好きな彼に対して。


(何があったんだろう……?)


 彼女が悲痛な叫び声を上げる中、私の口元は不気味に緩んでいた。

 次から次へと放たれる小柄な少女が叫ぶ声。

 それは私が大好きな彼を責め立てるもの。


(喧嘩してるんだ、二人は)


 そう気付く頃には、私の心は高鳴っていた。

 我ながら、最低な人間だなと思う。

 愛する二人が拗れる姿を見て、ほくそ笑むなんて。


『他の人は関係ないでしょ!! あたしのことだけを見てよ、ちゃんと!!』


 二人は激しく衝突する。

 と言っても、大人な彼が一歩引いた状態だが。

 激昂する彼女を前に、彼は戸惑いを隠せないようだ。

 私はそんな二人を遠くから眺めたまま、心の中で願ってしまうのだ。


(もっと拗れろ、もっと拗れて……そのまま別れてしまえばいい)


 他人の不幸がこれほどまでに嬉しいと思ったことはない。

 二人が言い争う姿を見るだけで、私の恋もまだ捨てたものではない。

 そう確信できるのだから。

 しかし、長年の付き合いである二人はそう簡単に拗れるはずがない。


(…………そうだよね)


 結局、二人は仲直りし、お互いに抱き合っていた。

 先程までの言い争う二人の姿はどこにもない。

 逆にお互いの本音を言い合った結果、更に二人の仲が縮んだような気がする。


「知ってたよ……それぐらい最初から知ってたよ」


 あの二人の関係がそう簡単に終わるはずがないって。

 ちょっとやそっとじゃ、離れ離れになるはずがないと。

 それなのに、ほんの少しの拗れでさえも期待してしまうなんて。

 もしかしたら自分の出番があるのかもと。

 もしかしたら、彼が自分を選んでくれるのかもって。


「あ」


 二人は仲良く手を繋ぐ。

 軽い繋ぎ方ではない。指先と指先を絡めあった繋ぎ方だ。

 それからこちら側へと歩み寄ってくる。

 私は逃げも隠れもせずに立ち尽くした。

 彼等との距離が僅か数メートルとなった時——。


「……勇太、あたしをもっともっと壊してね。ベッドの上でも」


 幸せいっぱいな笑顔を浮かべる彼女と。

 そんな笑顔に照れを隠せない大好きな彼の話し声が聞こえてきた。


「結愛がもう俺以外を考えられないぐらい壊してあげるよ」


 彼も彼女も私のことなど微塵も気付かない。

 その辺にある石ころを見るかのように、無視して通っていくのだ。

 恋人同士の二人が話す内容を頭の中で反芻し、私は冷静さを失ってしまう。


『明日はあの子と絶対にヤったらダメだからね。他の男とは違うって教えてよ』


 昨日、私はそう彼に言い放った。

 言わば、それは私のちょっとした抵抗。悪あがきに過ぎなかった。

 彼にとって、私が特別な存在であることを教えるための。

 彼の心もカラダも受け入れることができる唯一の女だと。


「でも……」


 彼が自分以外の女性ともそんな関係になれば。

 私は特別な存在ではなくなる。

 最愛の彼女さんに勝てる唯一の長所はそれだけだったのに。

 もしも、彼が最愛の彼女さんとカラダの関係を深めれば……。


——私の価値は消えてしまう、完全に。

——私を好きになる理由も。

——私を頼りにする必要も。


「嫌だよ、そんなの嫌だよ……私」


 激しい動悸に襲われ、私は胸の前で拳を握りしめる。

 口内に広がる唾液を飲み込み、一人でに迸る感情を抑え込む。

 それは最初から知っていた、『失恋』の二文字。

 叶うはずがないとは理解していたはずなのに、心の何処かでそれを忘れていたのだ。

 それを意識しないことで、今まで私は叶わぬ恋に本気になれていたのだ。


(行かないで)


 遠ざかる大好きな彼の背中を眺めて、私は手を伸ばす。

 彼に触れることなど叶うはずがないのに。

 心の中で幾ら叫んだところで、聞こえるはずがないのに。

 私は楽しげに手を握り合う二人を見て、慟哭な想いで叫ぶのであった。

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