第40話

「勇太……? どうかしたの……?」


 最愛の彼女が困惑気味な表情で尋ねてくる。

 普段通りの俺ならば「何もないよ」と答えていただろう。

 更には、小さな自分の変化に気付いてくれた彼女の優しさにもっと心惹かれていたはずだ。

 しかし、今の俺は——最愛の彼女をただの女としか見ていなかった。


「勇太? 今日は何か様子がおかしいよ」


 心優しい彼女は、俺のことを気にかけてくれる。

 向日葵のような瞳を僅かに曇らせ、自分のことのように相談に乗ってくれるのだ。


「何かあったなら、あたしに教えてほしい。あたしでも役に立てると思うから」


 そう呟きながら、結愛は俺の手を握ってきた。

 自分よりも小さく冷たい手。肉が全く付かず、骨張った感触。

 女性のカラダであることに違いはない。

 だが、触れると壊れてしまいそうな病人のカラダであった。


——でも、そんなこと、今はどうでもいい。俺と結愛は恋人同士だから。


「お願い、勇太。何があったのか、あたしに教え——」


 我慢の限界だった。

 女をこの手で味わいたい。

 その一心に駆られ、俺は無防備な彼女へと襲い掛かった。


「えっ——————ん、んんんちょ、ちょっとぉ……んぅんっっぅん」


 俺は結愛の両肩を力強く握りしめ、彼女の有無も確認せずに唇を奪った。

 結愛とキスした経験は、今までにも何度もある。恋人同士だから当たり前だ。

 同年代の彼氏彼女は、それ以上の行為に及んでいることもあるだろう。

 だから、別にキスの一つや二つぐらいで、どうこうなる問題ではない。


「……ゆ、勇太。と、突然だねぇ……き、キスしてくるなんて——」


 恋愛弱者の自分は、不器用で下手くそなキスしかできない。

 結愛と何度かしたことがあるから、多少は上手くなったと思いたいが。

 それでも、まだまだ練習不足という他ないだろう。

 それにも関わらず、甘くて耽美な声を吐き出す結愛。


「で、でも……もうダメだから……今日は調子が悪いから……」


 とろ〜んとした瞳を向け、口元の唾液を舌先で舐めている。

 彼女をこれほどまでに自分の手で気持ちよくしている。

 その優越感と独占欲があるものの、心の中は空っぽなままだった。

 最愛の彼女と触れ合っている。唇と唇でお互いの愛を確かめ合っている。

 そのはずなのに、全く幸福感は訪れないのだ。気持ち良くならないのだ。


「……………………」


 キスだけでは満足できなかった。

 もっと次なる肉体的な接触が、自分には不可欠であった。

 心の中で訴えかけているのだ。未知への好奇心を求めているのだ。

 もっと気持ち良くなりたい。もっと楽しいことがしたい。もっと彼女が欲しいと。

 最愛の彼女を思うあまり、今までの自分は強引な求め方はしなかった。

 毎度毎度、同意を取ってから、次へのステップへと進んでいた。

 結愛に嫌われたくないから。結愛のことが大好きだから。

 結愛に自分のことを一生好きで居続けてほしかったから。


——だけど、もういいや、別に。


 もうどうにでもなれ。もうどうにでもなればいい。

 ただ、自分だけが気持ちよくなれれば、それだけでいい。

 相手への思い遣りなど一切なく、俺は結愛を押し倒した。

 ベッドの上で、病人服を乱した愛する彼女の姿。

 一度も日焼けしたことがないと言われても信じてしまうほどに細い太腿が露わになる。

 極度の興奮に膨みを抑えきれない下半身は、ズボンの上からでも分かってしまう。

 もう一度、俺と結愛は唇を交わす。

 ちゅぱちゅぱと、鳥がついばむようなキス。

 お互いの唾液が口内で混ざり合い、謎の高揚感が発生する。

 鼻息を荒く吐き出しながら、劣情に駆られた俺は結愛のお尻を撫で回す。

 もっと触れたい。もっと彼女を自分のものにしたい。もっと彼女を感じたい。

 その感情が最大限まで上昇し、俺は服の上から彼女の弱い部分を攻めてみた。


「んっ—————————!?」


 敏感な部分へと指先を当ててしまったらしく色っぽい声を出す彼女。

 小柄なカラダをビクッと反応させる姿は、最高に愛おしく、もっとイジメたい気持ちになってしまう。新鮮な彼女の姿に微笑みかけながらも、俺はその先を求めた。

 ブルブルと震えるものの、容赦はしない。敏感な部分を攻め立てる。


「だ、だめぇ……そ、そこはだめぇ」


 拒否する彼女の声を無視して、俺は指先の腹で新たな刺激を与える。

 触れれば触れるほどに喉の奥から掠れて出てきた声を出す彼女。


「も、もうやめて……やめて……だ、だめ……それ以上はだ、だめ……」


 白桃色の下着には僅かに染みが溢れ、口元からは甘くとろけそうな声があった。

 自分の手で彼女が悦んでいる。自分の力で感じてくれている。

 その嬉しさに突き動かされ、俺は更なる快感を愛する彼女に与えることにした。


「……勇太、これ以上は本当にダメだからね……そ、その本当に嫌いになるから」


 性に関する知識なら、一人の夜遊びする際に学んでいた。

 女性を喘がせるために、男優がどんな行動を取るかなど、もう既に——。

 ネズミが小さな穴へと侵入するように、俺は自分の指先を白桃色の下着へと入れる。

 その後、彼女の愛液が漏れ出る場所へと近づけていくのだが——。


「——————————えっ??????」


 俺を襲ったのは、最愛の彼女から放たれたビンタ。

 バチンッと無慈悲にも、二人だけの部屋の中へと響き渡った。

 向日葵のように愛らしい瞳からは次から次へと涙が溢れ出ていた。


「結愛……? ど、どうして……?」


 結愛が涙を流す理由も。

 結愛がビンタしてきた理由も。

 俺は全く分からず、訊ねていた。

 多少、強引に彼女を求めてしまったのは事実だ。

 けれど、結愛だって、悦んでいたではないか。楽しんでいたではないか。


「帰って」


 真っ赤な瞳に、鋭く尖らせた目尻。

 愛する彼女——本懐結愛はそう口にした。

 無防備な姿でベッドの上に寝転がっていた彼女ではない。

 乱れた服を整え、両肩を震わせているのだ。


「どうして……? どうしてだよ、結愛」


 冷静さを保てず、俺は掠れた声で訊ねる。

 下半身の興奮も未だに収まりきれず、悶々とした劣情が募っているのだ。

 まだ彼女も俺を求めているのではないか。

 その一縷の可能性を賭け、俺は彼女のカラダへともう一度手を伸ばすのだが——。


 バチンッ!!


 意図も簡単に俺の手は弾き返されてしまった。

 結愛が拒絶したのだ。

 俺のことは何でも肯定してくれる最愛の彼女が。

 涙を流した状態で睨みを効かせた彼女は言った。


「もう帰って。勇太の顔をもう見たくないから……」


 結愛と喧嘩したことは何度もあった。

 だが、これほどまでに拒絶されたのは初めての経験だった。

 先程まで俺と結愛は一緒に仲良くしていたではないか。

 どうして突然こんなにも突き放されなければならないのか。

 そんな思いが募っていたのだが、俺はその答えを知ってしまった。


「……もう今日は帰って。今日の勇太は変だから……もう一緒に居たくない」


 俺を睨む彼女の瞳は恐怖に満ちていたのだから

 それもそうだ。

 彼氏が病室に入るや否や、キスを行い、更なる行為を求めたのだ。

 愛する彼女の気持ちを完全に無視して、自分の性欲を満たすためだけに。

 最低な行為としか言いようがない。

 もしも結愛が拒絶しなければ、俺はどこまで彼女に求めただろうか。

 もしかしたら、最後の最後まで無理矢理求めていたかもしれない。

 自分の現実が上手くいかないから、その憂さ晴らしに最愛の彼女を利用して。


◇◆◇◆◇◆


「うわああああああああああああああああああああああああああああ


 大雨が降る中、俺は自転車のペダルを漕いでいた。

 朝のニュースでは梅雨はもう終わったと言っていたのに。

 ただ、大粒の水滴が心地良かった。自分の汚れさえも全て落としてくれそうで。


『帰って』

『もう帰って。勇太の顔をもう見たくないから……』


 最愛の彼女——本懐結愛から拒絶され、俺は逃げるように病室を立ち去った。

 世界で一番大好きな人に最低な行為をしてしまった罪悪感に苛まれて。

 別れの挨拶を交わすこともなく、走り去ってしまったのである。

 今頃、結愛は「どうしてあんな人を彼氏にしたんだろ?」とでも悩んでいるに違いない。

 彼女を自分の慰み者としか考えないクズ野郎のことなんて。


(どうしてだよ……どうして分かってくれないんだよ)


 ギィギィと軋む自転車に、スリップ気味のタイヤ。

 ブレーキを掛けることもなく乗っているために、スピードは異常に早い。

 それに、自転車を漕いでいると幾分かは楽になれた。

 結愛のことも、本日受け取った模試結果を考えることもないから。

 何もかもを忘れて、ただ自分はここに生きているんだと実感できるから。


(どうして俺の気持ちを分かってくれないんだよ、結愛。お前ならと思ってたのに)


 下り坂のカーブに差し掛かった。

 俺は車体を傾けて曲がろうとするのだが、タイヤが滑ってしまうのだ。

 更には、対向車線には大型トラック。

 正面衝突は避けなければならないと、ハンドルを回す。

 無事に避けることができた。

 だが、車体のバランスは完全に崩れてしまう。


「うわああああああああああああああああああああああ」


 左右に車体が傾くまま、自転車は坂を降っていく。

 もしかして、俺このままなら死んでしまうんじゃないか。

 でも、別にそれでもいいか。結愛には完全嫌われてしまったし。

 どうせ、俺は医者にはなれないし。

 もうこの世界に生きる意味なんて、今の俺には何もないんだから。


 そう思っていると——。


 車体が空中に浮いた。

 田舎町は道路の舗装が行き届いていないのだ。

 故に、凸凹道が多く、段差があるのだ。


「んっ?」


 結句、俺は空中を舞った。

 特撮ライダーのようにカッコいいジャンプアクションではない。

 単なる事故。単なる事故の一部始終だ。

 次に気が付く頃には、自転車の金属音が響き、鈍い衝撃が全身を走った。


「いつつつつ」


 アスファルトの道路に身体を打ち付け、声が漏れ出てきた。

 ふくらはぎを負傷したらしく、血が流れている。

 傷跡は深くはないが、見ただけで痛々しいかすり傷だ。

 皮膚が見え、ジュクジュクとした液体が溢れ出ている。


「……最低だな、俺は」


 だが、今の俺には関係なかった。

 もうどうになればいい。もうここで死んでもいい。

 そんな気分に陥ってしまい、俺は道路の上で大の字に寝そべっていた。

 外灯もなく視界不良、更には大雨が降り注ぐ場所だ。


「嫌がる結愛に最低なことを……」


 この雨が俺の汚れた部分を削ぎ落としてくれればいいのに。

 もう消えてなくなりたかった。

 この世界から消えれば、少しは楽になるのだろうか。

 車に轢かれて死ねたら、どれだけ楽だろうか。


 そうすれば、俺は解放されるのだろうか。

 この生き地獄から。

 医者になる。そう覚悟を決めたあの日から。


「——どうして俺はこんなにもバカなんだよ」


 俺は努力している。

 人の二倍、三倍はしていると言ってもいい。

 なのに、俺の成績は伸びない。

 努力が足りないのか。それとも生まれ持った才能の差なのか。

 彼女を幸せにすることもできず、満足なテスト結果も得られず。

 全てが中途半端な自分は、何のために生きているのだろうか。


「何してるの……? こんなところで」


 雨が止まった。何が起きたのか。

 そう思うと同時に、声を掛けられた。

 相手は同じ予備校に通う女子生徒——彩心真優。

 道路に寝そべる俺の顔へと僅かに傘を傾け、彼女は優しげな笑みを浮かべてきたのだ。

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