忘れちゃいなよ、初恋なんて

平日黒髪お姉さん

プロローグ

「もうさ、医学部受験なんて辞めなよ。辛いだけだよ?」


 梅雨の影響を受けて大雨が降り注ぐ中、俺と同じく医学部を志す彩心アヤナ真優マユは悪魔の囁きを語りかけてくる。だが、決してその言葉に惑わされてはいけない。


「諦めちゃいなよ、もう。自分の身の丈に合わせて生きていけばいいじゃん。それだけで、その苦しみから解放されるよ?」


 受験には魔物が潜んでいる。受験生の心を苦しめる魔物が。

 俺——時縄勇太トキジョウユウタは現役生のとき、受験戦争に敗北した。

 でも、理解ある家族に恵まれ、もう一度チャンスを貰った。


 必死に勉強していた。

 毎日朝早くから夜遅くまで勉学に励んでいた。


 そのはずなのに——。


 俺の成績は全く伸びていなかった。

 逆に、現役時のセンター試験と比べて低い点数になった。

 それは、俺の模試が如実に表しているのだが。

 それでも、諦めるという道は、俺には決して許されない。


「俺は医学部に行くんだ。そして立派な医者になって——」


 医学部に入りたい。医者になりたい。

 大きな夢はあるけれど、その夢はあまりにも遠すぎる。

 だが、欲張りな俺の夢はもっとその先にある。


結愛ユアの病気を治すって約束したんだよ、結愛と」


 この世の全てを敵に回してでも守りたいひとが居る。

 その名前は本懐結愛ホンカイユア

 最愛の彼女にして、最愛の幼馴染みだ。

 だが、結愛は生まれつき体が弱く、子供の頃から入退院を繰り返す日々を送っている。だから、決めたんだ、俺は。


「俺は結愛の病気を治す。その為にも医学部に必ず入らなければならないんだ。そして、立派な医者になるんだよ、俺は」


 そう宣言する俺の後ろから、彩心真優が抱きついてきた。

 それから、彼女は俺の耳元で囁いてくるのだ。


「忘れちゃいなよ、あの子のことなんて」

「……離せよ。俺は結愛を絶対忘れない」


 そう答える俺に対して、彩心真優はいう。


「忘れちゃいなよ、初恋なんて」


 その言葉を皮切りに、彼女は俺の顎を掴んで、自分の唇を重ねてきた。突然の出来事に俺は唇を奪われたまま、数秒間立ち尽くす羽目になってしまう。


「ッ————な、何をやってんだよ!!」


 彩心真優を引き離して、俺は怒りをぶつける。

 それにも関わらず、彩心真優は恍惚な表情を浮かべた。

 まだキスが物足りなさそうだが、それでも満足気だった。


「私が上書きしてあげるから。新たな恋で」


 七月上旬、全国模試の結果が返却された日。

 彼女持ちの俺は医学部を志す仲間とキスをした。

 それも二回も。


「初恋なんて捨てちゃえばいいよ、苦しむぐらいなら」


 それは今までに感じたことがないほどに甘く。

 それは脳がとろけてしまいそうなほどに優しく。

 そして、最愛の彼女を裏切ったという背徳感があった。

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