アルセンドリック侯爵家ミイナの幸せな結婚
此寺 美津己
第1話 さよなら愛しいあなたさま
ミイナ・ネア・アルセンドリックは、飲んでいた紅茶の味が、急に苦くなるのを感じて、カップを置いた。
何かよくないことが、起きる前には決まってこうなる。
お気に入りのサンルームで、お茶を楽しむのは、ミイナにとって、最高の贅沢だったが、今日は無惨なことになりそうだった。
一呼吸おいて、執事頭のゼパスの足音が聞こえた。絶望的に、慌てふためいた足音だ。そもそも、ミイナの幼少の頃から、アルセンドリック侯爵家に仕えているのだ。おまえもいい歳だろうに。だいたい、ふだん、ろくに体も動かさない男が、急に走ったりすると。
ほら、こけた。
執事頭のゼパスが、ミイナのお気に入りのサンルームの扉を開くまでに、ミイナは、すっかりお茶を飲み干してしまっていた。
「奥方様っ!!」
ゼパスは、荒い息を吐きながら、ノックもせずに、サンルームに入ってきた。
タイはぐちゃぐちゃに乱れ、ついでに頭髪もよれて、部分的に地肌が透けていつるのがよくわかる。
顔から、転んだらしい。
鼻から、赤い筋が二本降りていて、口元を濡らしていた。
血にまみれた口を開いて、ゼパスは、ゼエゼエと息も荒くに言った。
「奥方様。一大事でございます。」
「うむ。」
ミイナは重々しく、頷いた。
「デアルカ。ならば、是非もなし。」
「と、殿!!」
ゼパスは、跪いたが、すぐに立ち上がったてわめいた。
「時代劇ごっこをしている場合ではありません、奥方様。」
「一大事なんて、言葉を使うからよ、ゼパス。」
ミイナは、自分の前の席に座るように、促した。
女主人と執事という関係では、礼にかなってないかもしれないが、どうも転んだ拍子に、足も痛めているようだ。
それを立たせておくのは、彼女の流儀ではない。
「奥方様。」
座る間も惜しいのか、それでも痛みに耐えかねて、腰を下ろしながら、ゼパスは口早に言った。
「ご主人様が、亡くなられました。」
沈黙。
ミイナの感想は、「ああ、そうか。」だった。
窓の外には、薔薇が咲き誇っている。父の代に蒐集した彫刻のたぐいは、ほとんど売り払ってしまっていて、いまは薔薇だけが、自慢の庭だ。
夫であるルドルフはサンルームが大嫌いで、ここから薔薇園を眺めたこともない。
無理でもさそっておけばよかった。
思いながらも、意外に喪失感の大きな自分に驚いている。
夫のルドルフは、ミイナの連れ合いであると同時に現役の冒険者であった。しかもSクラス。
ほとんど、と言うか完全に人外の代物なのだが、それでも。
それでも負ける時は負けるのだし、あの性格だ。恨みを買うことも多かった。
「まず、まともな死に方は、しないと思っていたが、思ったより早かったわね。」
ミイナがそう感想を述べると、ゼパスは、いやな顔で「奥方様」、それはいくらなんでも。とつぶやいた。
「当たり前でしょう。誰があれが、わたしより先に死んでしまうと、思うでしょう。
殺ったのはだれ?」
「グラハム伯爵家の手のものと思われます。」
ゼパスが、焦っているのは、今にもグラハム伯爵家の刺客が、やって来るのではないかと。そう考えているせいもあるようだったのだが。
「“氷漬けのサラマンドラ”をよびましょう。はやく、屋敷周りの守りを固めませんと。」
“氷漬けのサラマンドラ”は、腕利きの冒険者で、ずっと前からアルセンドリック家の護衛をつとめてくれている。単に護衛と言うばかりではない。ミイナにとっては、数少ない友人に等しい。だが、Aクラスだ。
Sクラスの我が君を屠った相手に対して、Aクラスの冒険者を動員して、守らせるのか。
ゼパスは、実務的ではあるが、戦いにはまったく向いていない。
だいたい、ミイナの前で、鼻血をだらだら流すなど、不用心にも程がある。
「アルセイの叔父様と、マハラとジュリエッタに使いを。」
先代の父がなくなったあと、アルセンドリック侯爵家は、すっかり、落ち目になっていた。ミイナの力で財政的な苦境はなんとか脱したからどうか。
ただ、親類一同からはよく思われていない
呼ぶのは、一応、当家に出入りしている叔父と、近くに嫁いだ二人の姉でくらいで充分であった。
ゼパスに、それだけ、言って、自らポットから紅茶を注いだ。
時間が経ちすぎた紅茶は、焦げた木炭の色で、いかにも渋そうだった。
「一体何をするのです?」
ゼパスが、叫んだので、ミイナは静かに返した。
「お葬式です。ルドルフを送り出してやらねばなりません。」
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