白龍との再会




「白龍……?」

「そうだ。俺だ」

「会議してるんじゃ……」

「お前に会いたくて、抜けてきた」



 そんなことできるの、と聞こうとして、口を閉ざした。


 ――白龍に会ってはいけない。懐かしんでしまう。恋しく思ってしまう。兎の迎えが来るまでは、この戸を開いてはいけない。



「……戻った方がいいよ」



 ぽつりと言うと、扉の向こうの白龍の声が返ってこなくなった。翼妃は続ける。



「白龍は、私のことが憎いんでしょ」



 否定の言葉は返ってこない。



「……私だってこの三年、何もしてなかったわけじゃない。何も知らなかった頃の私じゃないの」



 宰神家の屋敷に保管されていた歴史書は数が多く、廻神家についての記述もあった。


 どの書物にも部分的にしか書かれておらず、時系列を整理するのに時間はかかったが、三年経って知れたことはいくつもある。

 大昔、白龍と黒龍という二匹の龍神がいたこと。彼らは神々と対話できたある人間の娘に恋をし、彼女を最初の神鎮にして特別な力を与えたこと。

 彼らは長く彼女のことを愛していた。人の世に降り立ち、彼女と生活を共にし、三人で幸せに過ごしていた。毎夜三人で愛し合い、彼女の死後は彼女を水晶宮に連れていき、永遠に一緒に暮らそうとしていた。


 しかし、神鎮の始祖である彼女は――ある日出会った、人間の男に恋をしてしまったのだ。


 龍神に愛され始めた頃の彼女はまだ幼かった。恋愛感情など分からぬ年齢で龍神たちと共に過ごし、龍神たちへの家族としての愛着を、恋や愛であると擦り込まれて生きてきた。

 しかしある日人の男と出会い落雷のように初めて降ってきた恋心は、龍神たちへのそれとは全くの別種のものであった。大人になった彼女は、初めて異性として好きな人を見つけてしまったのだ。


 それを龍神たちが黙って見ているはずもなかった。彼女は何度か人間の男と駆け落ちしようとしたが、龍神たちにことごとく見つかり、ついには監禁されてしまう。毎日泣き喚く彼女を見かねて龍神たちはあることを告げた。――あの男の命はもう奪った――と。人の世の者の生命を奪うことなどその頃から大いなる信仰を受けていた龍神たちにとっては容易かったのだ。龍神たちは、これで彼女も諦めるだろうと思っていた。

 彼女は激怒した。もう二度と愛する男に会えないことを嘆いた。そして、直接男に手を下した黒龍を――殺した。神を殺すことができるのは、神が愛した者だけだ。彼女にはその権利があった。

 しかし黒龍の意思だけはその死後も残った。黒龍の怨念、愛憎は形のない化け物となり、彼女を祟った。神を殺した報いは、その後千年以上続いている。



「私は始祖じゃない……っ! 貴方たちが愛してた人じゃない。私は白龍が好き、でも白龍は私が嫌いでしょ。私のこと、千年も前に生きていた、貴方たちを裏切った始祖としてしか見てない」



 ――廻神家の神鎮の始祖は黒龍の怨念によって三百年に一度強制的に生まれ変わる。その強制力の代償として、廻神家にはそれ以外の女児が生まれなくなった。この歴史を知っている廻神家の者たちは、神鎮の始祖を神を裏切り呪われた忌み子として扱い、忌み子を傷付け贄とすることで神々に許しを乞うている。



 翼妃は今でも思い出す。山を超えて薩摩國へ向かおうとする翼妃を引き留めようとした白龍の悲しげな声と、憎しみの籠もった瞳。あの目を見た時、翼妃は確信したのだ。白龍が自分に抱いているのは愛情などではないことを。



「頼む。開けてくれ」



 白龍が言った。



「全てを説明したい。少なくとも俺は、お前を傷付けたいわけじゃないんだ」



 白龍の声があの時のように悲しげで、心が大きく揺れる。



「あの時は悪かったと思っている。全てを話すから、抱き締めさせてくれ」



 また、白龍と幼き日の夢の中のように笑い合えたらと思うと、それほどまでに幸せなことはなかった。


 けれど駄目だ――兎や赤鬼に、開けるなと言われている。ここで開けたら赤鬼にも文句を言われる。彼が翼妃を守るために色々と無理を通してくれたことを知っている。ぎゅっと目を瞑って会いたい気持ちを打ち消そうとした時、戸の向こうから激しく咳き込むような音が聞こえた。まるで血を吐いているかのような音だ。



「は……白龍? 大丈夫?」



 思わず戸の近くまで擦り寄って聞いた。



「すまない……地の神がこの周辺に強い結界を張っている……俺もここではそう長く形を保っていられない……」



 かなり無理をしているような、苦しげな声だった。元々この部屋は、地属性の神様が翼妃を守るために設置したものだ。戸の向こうに居るだけでも苦痛なのだろう。



「そんなに苦しいなら、早くここから……」

「断る」

「何でっ……」

「愛しいお前に触れたいからだ。お前がここを開けるまで、俺はここから退かん」



 色んな考えが交錯するが、それよりも焦りの方が大きかった。白龍が苦しんでいることで冷静な判断ができなくなってしまったのだ。幼い頃夢の中でいつも遊んでくれた白龍の笑顔を思い出す。白龍が苦しむのは絶対に嫌だった。



 そして翼妃は、その戸を自ら開けてしまった。



 途端に白龍が入ってきて、翼妃を強く抱き締めた。卯の花色で視界がいっぱいになる。――嗚呼、この香りだ。この香りを何年も欲していた。



 涙が出そうになる翼妃の顔を無理やり上げさせてきた白龍が、急にその唇に自身の唇を重ねた。突然のことに何をされたのか分からず体を固くしてしまう。


 先程まで苦しんでいたはずの白龍は――薄く笑っていた。

 ゆっくりと床に押し倒し、また唇を重ねてくる。翼妃の唇を食んだかと思えば、舌でこじ開けるように翼妃の口を開かせ、中に舌を入れてくる。



(え……)



 白龍にこんなことをされたのは初めてで思考が纏まらない。


 幼い頃から兄のように慕っていた白龍。思い出の中のその笑顔が、歪んでいく。



 ――その時、ばちんっと激しい痛みが走った。まるで白龍を反発するかのように、続けて、ばちんばちんばちんと何度も互いの間に火花が走る。



「ふ……は……ははははははははははっっは!!」



 それを見て、白龍が高笑いする。



「鬼神に手を付けられているな!」



 翼妃は恐ろしくて体に力が入らなくなった。白龍が翼妃の顎を掴み、無理やり顔を上げさせてくる。



「鬼神に手を出されただろう」

「出されてな……」

「接吻はされたな?」



 咎めるような、幼い子供を叱りつけるような声音だ。

 何を言っているんだ、と思った時――ふと、火紋大社の神鎮の力を与えられた時のことを思い出す。あの時だけ、接吻はされた。神にとってそれにそこまで深い意味はないのだろうし、その後赤鬼がそのようなことをしてきたことはないので忘れていたが。



「思い当たる節があるようだな」

「は、はくりゅう、なんで」

「お前が悪いんだ」



 途切れ途切れ理由を聞こうとした翼妃に、白龍が言う。



「宰神家の屋敷では何もされていないだろうな? あそこは男所帯と聞くが。お前は可愛い。襲われても文句を言えない程に」

「や、やだ白龍、冗談やめてよ。祟りについて話すんだよね? こんなのまるで、男の人みたい……」

「この期に及んで“冗談”? そう思えるのなら、俺も随分演技がうまくなったのだな」



 白龍に抱いていた信頼が崩れていく。どんどん白龍を信じた自分への自信もなくなっていく。自分の声が徐々に弱々しくなっていくのを感じた。



「お前を優しく奪えるよう、二十まで待つつもりだったがもう必要ない。お前はまた俺たちのことを裏切った」



 動揺で体にうまく力が入らない。与えられる快楽を身体が素直に享受するせいで意識も朦朧としてきた。



「無理やりにでも奪い、水晶宮へ連れて行く。今ここで殺してやろう」



 大好きだった白龍の手が、何度も頭を撫でてくれた白龍の優しい手が、翼妃の首にかかる。



「お前は俺の忌み子――俺の贄、俺への捧げ物なのだ。それを他所の男に尻尾を振って、これほど美しく成長していく様も見せたというのか?」



 白龍の瞳の奥では、今まで見たことのない程の怒りの炎が燃えていた。



「か弱い人の身で随分と甘い考えだ。生まれ変わり、形を変えただけで許されると思っているのか?」



 震えて力が出ない。



「矜持を失い、全て奪われ踏み躙られ、嘲笑され堕落して生き汚い姿を晒し、血反吐を吐いて苦しめ。許してくれと懇願しろ」



 白龍が耳元で甘く囁いた。




「――――そうしたら、愛してやるから」




 殺される。その危機感よりも、白龍の憎しみが事実だったことを思い知らされ、頭が空っぽになった。


 心のどこかで期待していた。白龍は自分を本当に可愛がってくれていたのではないかと。記述が本当だったとしても、千年も経っているのだから、裏切りのことなどもうどうでもいいのではないかと。

 しかし、神にとっての時の流れと人間にとっての時の流れは違うらしい。神にとっての千年前などついこの間のことなのだろう。



 自分を押し倒す白龍の顔が涙で滲んで見える。


 ――嗚呼、自分は、泣いているのか。


 涙を出すと自分の弱さを思い知らされるようで嫌だった。雀が死んだ時のことを思い出すから嫌だった。けれど、翼妃の心は今更泣き方を思い出したらしく、ぼろぼろと涙が溢れてくる。


 大事なものがまた一つなくなった。

 信念が揺らいでいく。

 こんな人生いっそもうここで終わらせた方がいいのではないか。

 翼妃には何もない。与えられても出会っても、奪われてきたし、失ってきた。好きだった家族も、集落の人々も、人としての尊厳も、雀も、白龍にもらった面も、楽しい夢の時間も、鹿乃子も、優しかった白龍も。――もう、何もない。


 今ある宰神家での生活も、どうせいつか失うのだ。

 忌み子としての運命を変えたいなどというだいそれたこと、どうして願ってしまったのだろう。この世界は、いくら望んだって叶わないようにできているのに。



 抵抗する力がなくなり、白龍に身を任せようとしていたその時――開け放たれた戸の向こう側、誰かがこちらに走ってきているのがぼんやりと見えた。


 こんな所にいるはずのない男が、最後に見たあの日より更に男らしく成長した逞しいその男が、翼妃へと真っ直ぐに近付いてくる。


 これは死ぬ間際の最後の幻覚だろうか。最期に見るのが自分から全てを奪ってきたあの男の姿であるとは皮肉な話だ。

 それを見て、最期の賭けに出てみるのもいいのではないかと思った。どうせ死ぬ身なのだから。


 あの男にどうにかできる話ではない。けれど、もしこれで助かったなら、もう一度抗ってみようと思った――運命、そして、神に。



 自分の首に手をかける白龍の手を掴み、炎を発生させる。

 予想外の出来事に目を見開いた白龍は、咄嗟に翼妃から手を離した。翼妃はその隙を付いて白龍を突き飛ばす。

 白龍は壁に背をぶつけ、がはっごほっと咳き込んだ。床に血が撒き散らされる。地の神の結界に干渉を受けているのは本当らしい。その姿を見るとやはり怯んでしまったが、ここで立ち止まっていてはまた同じことになるだけだ。


 翼妃は立ち上がった。外からこちらに差し出される手がある。



「翼妃ちゃん、早く!」



 ――三年ぶりに見る柊水が翼妃の手を取り、走り始めた。


 嗚呼、本当に皮肉な話だ。あの日自分を閉じ込めた相手が、この狭い部屋に閉じこもっていた自分を助け出すなんて。



 どうしてここに居るのか。神しか入れない貴月大社に入ることがどれだけ危険か分かっていて来たのか。何のために助けたのか。聞きたいことは色々ある。けれど何より、唯一神による害を受けない家系である柊水ならば、一緒にいても祟りは起こらないことにほっとしていた。



「待て!」



 後ろの白龍が吠えるように言う。思わず振り返ると、白龍の周りに水でできた龍が何体もうねうねと動いている。そこから吐き気がするほど感じられる神力から、翼妃たちを捕らえる気なのはすぐに分かった。



「しつこいんだよ! 翼妃ちゃんは、お前の愛した女じゃない!」



 柊水が怒鳴りながら手を翳すが、神鎮の権利は発動しない。



「誰がお前にその力を与えているのか、忘れたわけではあるまいな」



 白龍が口元の血を着物の袖で拭きながら薄く笑う。

 神鎮が神の力を使えるのは、神に借りているからだ。神の意思一つで使えなくもなるだろう。


 足が竦んだ――が、ここは神在月の貴月大社だ。白龍も通常より弱体化している。

 その事実を思い出した次の瞬間、翼妃は一歩踏み出し、柊水を庇うようにして宰神家の神鎮の権利を発動した。炎がぼうっと燃え上がり、社を包み込む。この程度で白龍は死なないだろう。程良い足止めになるはずだ。


 翼妃は目を見開いて驚いている様子の柊水の手を引いてまた走り出した。


 神の作った社が燃えたためか、貴月大社の周囲にいる野生の動物達が一斉に鳴き出す。鼓膜が破れるほどの音だ。

 まるで警報のようだった。嫌な予感がしたその時、走り続ける柊水と翼妃の前方に、天女のような羽衣を身に纏う美しい長い黒髪の女性が現れた。




「――――何事かと思えば。妾のいる貴月大社に、人間が紛れ込むとは」




 感覚的に分かる。これは、貴月大社に祀られている神だ。

 動物たちの知らせを聞いて即座に移動してきたのだろう。



「その者は火紋大社より正式に知らせがあった。しかし、そちらは――無断でこの地に足を踏み入れたというのか、痴れ者が」



 翼妃に対しては何も思っていないようだが、柊水を睨み付けた神は、敵意剥き出しの表情をした。

 地の神と水の神は相性が悪い。その水の神に仕える神鎮が何の許可もなくやってきたことを不快に思っているらしい。



「人間。貴月大社ここが妾の領域であることを忘れるな」



 まるで地震が起こったかのように地が揺れる。土でできた大きな人形の腕が柊水を殺す勢いで襲いかかった。


 反射的に柊水の前に立ちはだかる。すると――翼妃たちに触れる寸前で、土の固まりは粉々に崩れ落ちた。


 ――“黒龍の加護”だ。宰神家で練習していた時より微弱だが、ここでも加護は使えるらしい。



「ごめんなさい……っ! 一度だけ、見逃してください! お願いします!」



 翼妃は神に対して大きな声で謝り、柊水の手を引いて大きな鳥居を潜る。鳥居さえ超えてしまえば、そこは貴月大社の外だ。



 ◆



 貴月大社に祀られている縁結びの鶴神かくしん鶴姫つるひめという神は、白い翼を引っ込めて走り去ってゆく人間たちの背を見つめていた。

 そこへやってきた眷属の兎たちが心配そうに聞いてくる。



「……良かったのですか。鶴姫様」

「妾もそう暇ではない。少し脅しに来たのみ。出ていったのであれば結構だ」

「であれば良いのですが……」



 兎たちは鳥居の向こうを走っている男女二人を見つめて目を細めた。



「彼ら、また・・一緒なのですね」



 鶴姫には人と人との“縁”が視える。柊水と翼妃は、前世から続く太い縁で結ばれていた。

 鶴姫は次に後ろで体をずたずたに引き裂かれ倒れている白龍に目をやり、はぁと大きな溜め息を吐いた。



「その汚物を片付けておいてくれ。神在月の妾に抗おうなどと無駄なことをするからこんなことになるのだ。回復には時間がかかるであろう」

「はい……通常であれば、鶴姫様の結界内でこれほど形を保っていられないはずですが。意地というものでしょうか……」

「人の世の者に懸想するなどと、妾には理解できぬ。やはり、水の神は愚かで嫌いだ。そのくせ妾よりも信仰を集めているから腹が立つ」

「鶴姫様、それは嫉妬というものでは……」

「何か言ったか?」

「いえ……」



 神の力の強さは人からの信仰に比例する。貴月大社も全国から大いなる信仰を受けてはいるが、そもそも人口が桁違いである古都に位置する玉龍大社にはなかなか敵わないのだ。

 兎はそれ以上何も言わず、白龍の体を結界外へ移動させる作業を始めた。




 ◆




 貴月大社の敷地内はからりと晴れていて良い天気だったが、外へ出た瞬間雨が降っていた。


 土砂降りの雨の中、柊水と手を繋いで坂を駆け下りる。

 後ろから神が追いかけてくる気配はなかった。あくまでも十年に一度の神々の会議の最中だ。執拗に追いかけ回す程の時間もないのだろう。



「驚いた。翼妃ちゃん、凄いね」



 貴月大社とかなり距離ができた時、走るのをやめた柊水がぽつりと言った。柊水に素直に褒められたのは初めてで、ぱちぱちと瞬きを繰り返してしまう。



「あれは宰神家の神鎮の権利でしょう。それに、黒龍の加護も使いこなしてた。この三年で変わったね」



 翼妃は玉龍大社にあんなことをした犯人であるというのに、再会してまず言うのがそれなのか、と思った。もっと責められてもおかしくはないと思っていたのに、柊水の声音は三年前よりも優しげだ。



「……柊水様の言う通りでした」

「僕?」

「龍神は、悪い神様でした」



 歩きながらぽつりと言うと、柊水はははっと笑った。



「人にとって良いものでも悪いものでも、祀れば何でも神だからね」



 翼妃たちの横を、大きな蒸気機関車が走っていく。向こうに駅があるのだろう。



「白龍様は概ね民に対して友好的だから信仰は沢山集めてるけど、僕にとっては翼妃ちゃんの人生を奪う悪い神だよ」

「……」

「僕、恋って愚かだと思うんだ。だから神でもそんな過ちを犯すんだって初めて歴史を知った時は可笑しかった」



 長く歩いているうちに雨が止んできた。分厚い雲がどこかへ行き、太陽の光が差し込む。



「……柊水様は何を考えているのですか。どうして助けてくださったのですか。私のせいで大変な思いをしたでしょう」



 ――柊水のことが、たまに、何も分からなくなる。意図的に考えることを止めていたからかもしれない。

 廻神家の神鎮がほぼ全滅したせいで、そこから立て直す柊水の苦労は計り知れないものだったはずだ。顔も見たくない存在であるはずなのに、どうして助けに来るような真似をしたのか。



「まぁ、大変だったのは確かにそうだね。僕が解放してあげようと思って色々計画していたのに、翼妃ちゃんはその計画を台無しにしたわけだから。まさか僕が居ない間に玉龍大社を水に沈ませるとは思わなかったなぁ」



 その言い方にかちんと来て、翼妃は繋いでいた柊水の手を振り払った。



「まるで全部私のために動いてたみたいに言わないでよ……ずっと私のこと管理して、見張って傷付けて、私の大事なものを奪ってきたくせに。私の人生滅茶苦茶にしたくせに、どうしてこんな時に手を差し伸べてくるのが貴方なの」



 それは誰に向けていいのかも分からないような怒りだった。



「“滅茶苦茶にした”?」



 柊水が嘲笑した。



「逆だろ。君が僕の人生を滅茶苦茶にしたんでしょ?」

「貴方が私の人生を壊したの」



 即座に言い返す。



「ずっと怖かった、苦しかった。行きたくもないのに連れ回されて、歯向かえば狭くて暗い部屋に閉じ込められて、馬鹿にされて、罵られて、暴力を振るわれて。貴方さえ居なければって何度殺意を抱いたか分からない。貴方なんか大嫌い」



 柊水に感情を吐露したのは初めてかもしれない。ずっと唇を噛んで耐えることしかしてこなかったから。柊水の隣で諦めるばかりの日々だったから。



「でも、多分貴方はきっと、私が思っていたほど酷い人ではないのでしょう。私、貴方を憎むことができないなら、誰を憎めばいいの……?」



 声が震える。幼い頃から恐怖の対象だった柊水に本音を言うのは、酷く恐ろしかった。

 柊水はどんな表情をしているだろう、とおそるおそる顔を上げると、柊水は――切なげに笑っていた。



「翼妃ちゃんは僕のこと一生許さなくていいよ。僕も翼妃ちゃんのこと一生許さないから」



 柊水の顔が少し傾き、消毒するかのように翼妃の唇に唇を重ねてきた。



「言ったでしょ。僕は、君のことを愛してるって」

「……許せないのに?」

「うん。翼妃ちゃんのこと、めちゃくちゃに傷付けたい気持ちがあるのに、甘やかして大切にしたいと思う時もあって、翼妃ちゃんが神の物になるのも、死ぬのも嫌なんだ」



 互いに雨に濡れてびしょびしょであるのに、そんなことは気にならないくらい、互いを見つめ合っていた。



「翼妃ちゃん、やっと、敬語を外してくれたね。幼い頃はそうやって話してくれていたのにいつの間にか遠くなってた。またこうして話せて嬉しい」



 ちゅっと翼妃の額に口付けをした柊水は、翼妃の手を引いて駅へ入っていく。



「……どこへ行くの?」

「んー。あんまり決めてないかな。少なくとも、神在月を過ぎるまでは宰神家には帰れないでしょ。適当に何処かへ行って暇を潰そう」



 柊水は、翼妃が宰神家にいる理由も見当がついていたようだ。翼妃が宰神家の神鎮に祟りが降り注ぐ場合を恐れて貴月大社まで同行することも予想していたくらいなのだから、おそらく柊水は翼妃が思うよりも翼妃のことを分かっている。

 神鎮の家系の血を引く者に神は害を与えられない。しかし、黒龍の場合はおそらく、死して神とは少し違う存在になっている。鹿乃子の意識に干渉できたことから、他家の神鎮であれば殺すことはできずとも気を狂わせることはできるのだろう。翼妃はそこをずっと警戒していた。



 蒸気機関車に乗り込んだ柊水が、自分の手を見てふと言った。



「神無月が終わったら、僕も宰神家に行こうかな」

「む、無理だと思う……」



 ぶんぶんと首を横に振って伝える。

 宰神家の神鎮たちの、翼妃が来た時の警戒っぷりを思い出す。廻神家の正式な神鎮、それも当主など、受け入れてもらえるはずがない。



「そう? でも、僕はおそらく神鎮の権利を奪われたよ」

「え……!?」

「水を発生させられない。このまま玉龍大社に戻っても、当主としての役目は果たせないだろうね。龍神はかなりお怒りらしい」



 くくっと楽しげに笑う柊水だが、翼妃はその隣で唖然としていた。

 柊水が居なければ、玉龍大社はどうなると言うのか。ただでさえ生き残った神鎮は柊水と柊水の父親である元当主のみなのだ。神々と人間との間を取り持つ存在が一人しかいないとなれば、運営が立ち行かなくなる。



「……どうする気?」

「さぁ。僕はもう今は全てがどうでもいいかな。こうしてまた翼妃ちゃんに会えたから」

「もうちょっと玉龍大社のことも気にした方がいいと思う……」

「言うね。翼妃ちゃんのくせに」

「……その“くせに”っていうのやめてほしい。いつも私のこと見下してるそういう態度も嫌い」

「嫌い? ふぅん。生意気なこと言うね」

「生意気はどっち。今は私の方が強いよ。私は神鎮の権利を持っているけど、貴女にはないんでしょう」



 数秒、睨み合う。あれだけのことをされたのだから、今更仲良しこよしとはいかない。

 けれど――少しだけ、関係性は変わったような気がした。





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