第三章 十六歳
神無月
宰神家で過ごして三年が経ち、翼妃が十六歳になる年がやってきた。
宰神家の人々は翼妃を家族のように扱ってくれた。一人の仲間として神を管理する日々は幸せな物だった。廻神家で過ごしているだけでは手に入らなかった教養と常識、武術、そして神々の知識を身に付けることができた。
「じゃーーーかーーーらぁ! 我は焼酎がいいのじゃ!」
――そして、赤鬼が存外我が儘な子供であることも知ることができた。
寝転がった状態で手足をばたばたしている姿を見ながら思った。見た目は翼妃よりも年上、二十代前半のような体をしているが、やはり精神は子供だと。
赤鬼は好きな物しか食べず、飲まず、気紛れに薩摩國の民に悪戯を仕掛ける。それどころか、神鎮が言うことを聞かないと「火山、噴火させたろっかな~」などと脅している。
清酒を用意した神鎮が「申し訳ございません」と謝罪して用意した酒を下げる。
「……赤鬼様、折角ご用意して頂いたのに、失礼ではありませんか?」
困り顔をしていた神鎮を庇うため近くに寄って軽く注意すると、
「何が失礼じゃ。我が一番偉いんじゃ。我、神ぞ?」
と当然のように返された。
思わず大きな溜め息が出る。
神鎮が焼酎を取りに行っている間に、餅を食べている赤鬼の前に正座した。
赤鬼はこうしてたまに屋敷の方に人の姿で遊びに来る。その間本殿の対応はもう一体の鬼神、青鬼が行っているようだ。青鬼は人間の言葉を喋らないようで、翼妃も会話を交わしたことはない。しかし、彼は赤鬼と違って神鎮たちに迷惑をかけない大人な神のように見える。見た目は赤鬼と瓜二つ、赤鬼の髪と目を青色に変えただけのような風貌だ。
「お餅、美味しいですか?」
赤鬼は屋敷に遊びに来ている間話し相手を欲しがる。特別翼妃のことを気に入っているようで、毎度呼ばれるのは翼妃だった。理由は、“他の神鎮たちは筋肉野郎だらけで暑苦しいから”だそうだ。翼妃もこの三年で体を鍛えたため以前よりは筋肉質になったが、さすがに神鎮たちほどの立派な筋肉は持ち合わせていない。
「まずまずじゃ。そいより、玉龍大社の修繕、やっと終わったみたいじゃぞ」
赤鬼が先程まで読んでいたらしい新聞を翼妃に寄越してくる。一頁目にでかでかと新しい玉龍大社の立派な本殿の写真が載せられていた。その横に修繕の指示をする柊水の全体写真もある。
――この三年間、柊水のことは新聞で何度も見た。
人々は玉龍大社が水の中に沈んだ現象、神鎮たちが死んだ現象を廻神家の神鎮が神の怒りを買ったためだと噂した。柊水の父親はその責任を取る形で廻神家当主から失脚、その地位は柊水に引き継がれた。
元々柊水は高等學校を卒業すれば当主になる予定だったのだが、世間から柊水は先代のせいで壊された玉龍大社をたった一人で立て直そうとしている若き当主として応援されている。
「会わんでよかか?」
「会う……柊水様とですか? 何故?」
「寂しゅうなかとな? 幼なじみやったんじゃろ」
「そのような可愛らしい表現が似合う関係性ではありませんので……」
「そうなんか? てっきり想い合っとるもんち思うちょったぞ」
横になって頭を手で支えながらお供物の餅を食べている赤鬼がふざけたことを言うので思わず顔を顰めてしまった。その表情が可笑しかったのか、赤鬼はけらけらと笑う。
「運命ちゅうものが本当にあるなら、お前さんとあん男はくっつくじゃろうな」
「随分と言い切るのですね。はっきり言って不快です」
幼い頃から一緒だったというだけで“運命”などという言葉を出してくる赤鬼に言った。柊水に関しては暴力を振るわれたり閉じ込められたり噛みつかれたりした記憶ばかりで、良い思い出がない。思い出したくもない幼少期だ。
「不快か。じゃが、前のお前さんは、前のあん男と愛し合うとった」
「……は?」
「人間なんかより長生きしちょるから、我はよう知っとるんじゃ」
“前の”というのは、生まれ変わる前の翼妃という意味だろう。しかし、柊水にも前の柊水がいるとは驚きだ。それも、前の自分と愛し合っていたらしい――考えるだけでもおぞましいことだった。
黙り込んでしまう翼妃を見た赤鬼は愉しげに口元に弧を描く。
「しかしまあ、今回はそげん感じでもなかとなら、無理矢理我のもんにすっとも悪うなかね。お前さんは三年前よりも熟れてきたし、ありじゃ。あん龍神や玉龍大社の当主がどげん顔すっとか見物じゃな」
「――不健全な異性交遊は、わしの元にいる限りは何人たりとも許さんぞ!」
すぱぁんっと勢いよく襖が開き、険しい顔をした炎寿が怒鳴りながら焼酎を持って入ってきた。
翼妃の顎に手で掴んでいた赤鬼はちっと面倒臭そうに舌打ちして翼妃から離れる。
赤鬼はたまにこうして戯れに翼妃に性的な行為を求めてくるが、いつの間にか翼妃の父親のような振る舞いをし始めた炎寿に毎度妨げられている。その度、翼妃としては内心ほっとしていた。
「なーんじゃ、炎寿。ちょっと味見すっくらいよかじゃろ」
「おふざけは程々にしろ、赤鬼。年頃の人間の娘にとってそのような行為は多大な意味を持つんだぞ。わしとしても容認できん」
んべっと舌を出す赤鬼に親のような説教をする炎寿。神鎮と神々の関係性は五家それぞれで違うようだが、彼らは比較的仲が良いように見える。これほどまでに神に気安く声をかけられるのも炎寿くらいのものだろう。
「そういやぁ翼妃、もうすぐ秋じゃが、お前さんはどうすっ気じゃ?」
赤鬼がふと思い出したかのように翼妃に聞いてくる。
確かに外は涼しく秋も深まってきた頃合いだ。しかしそれが何だと思い次の言葉を待っていると、赤鬼がげらげらと笑って炎寿の方を向く。
「炎寿、神無月の話はしとらんのか」
からかうように炎寿のことを覗き込む赤鬼の様子は、くだらない揚げ足を取る子供そのものだ。
「だめだめじゃ。炎寿よ、それでも宰神家当主かの。前の当主の方が優秀じゃったかもしれんね」
「黙れ、赤鬼。これから説明する」
赤鬼を一蹴した炎寿が翼妃に向き直った。
「十年に一度の秋は出雲國に各属性を代表する神々が集まるんだ」
「我もそん間は火紋大社からおらんごつなる。祟りをどうにかしてやれん」
焼酎をおちょこに入れながら、赤鬼も説明を付け足してくる。
「でも、神様って自分を祀っている社からはあまり長い間離れられないのですよね……?」
「十年に一度のその月だけは別だ。人間の姿で出雲國へ向かうことができる」
「仲の悪い神々もいますよね。集まってまともに会話できるんですか?」
「いい質問だな。確かに、血の気の多い神もいるが、秋の出雲國では地の神しか本領を発揮できんのだ。争いはできん」
そういうものなのかと納得しつつ、一気に不安が襲ってきた。その間、鬼神たちがここから居なくなるということは――祟りが再発するということだ。
神々の行事についてもっと詳しく調べておくべきだったと後悔した。
「それって絶対に行かなければならないのですか……?」
「残念ながら、これは神々の間での決まり事だ。この約束を破るということは、他属性の神々に喧嘩を売るのと同義だ」
翼妃は黙り込む。「何じゃ、寂しいんか」とからかってくる赤鬼を無視して立ち上がった。
「私、玉龍大社に戻ります」
「はあ?」
素っ頓狂な声を上げたのは赤鬼だった。
「あんだけ嫌がっとったじゃろ」
「そりゃ嫌です。でも、この屋敷の人たちが祟りで死ぬよりましです」
――二度と大切な人を失いたくない。あんな思いはもうしたくないのだ。
赤鬼が止めてくる。
「一度帰ったら本当にもうこっちに戻ってこれんくなっど。あん龍神が二度もお前さんのことを手放すち思えん」
「……それでもいいです」
赤鬼がぽかんとする。炎寿は厳しい顔でこちらを見ていた。
室内に数秒の沈黙が走った後、最初に口を開いたのは赤鬼だった。
「――分かった。お前さんのことも連れて行く」
「赤鬼……!?」
「そっちん方が安全じゃ。我も話し話し相手がおらんごつなったぁ嫌じゃ」
炎寿が信じられないといった表情で赤鬼を見る。
「本来人間が行っていい行事ではないだろう。神鎮の家系の者ですら神無月に
貴月大社とは、地の神が祀られている神社の名前だ。絶対的実力主義の神鎮の家系が管理する神社であり、鹿乃子が元々いたところでもある。
「地の神に前もって我から断りを入れれば問題なか。あれはうちとは仲が良か。聞き入れてくるっじゃろ」
「しかし、神無月には例の龍神も来るのだぞ。翼妃と鉢合わせたらどうする気だ」
「神無月の貴月大社で本来の力を使えんのはあの龍神もおんなじじゃ。どうにかなる」
翼妃は白龍のことを思い出し胸が痛くなった。玉龍大社を離れた後、白龍とは一度も会っていない。幼い頃良くしてくれた白龍との思い出をも捨てることが翼妃の覚悟の表れでもあった。祟りを絶やす手掛かりを得るまでは、何かを隠し続けている白龍とも会わないと固く決めていた。
しかし――会える可能性があるとなると、少し喜んでしまう自分がいた。鹿乃子が来る前、翼妃の心の拠り所は白龍だった。白龍が何を隠していてもそう簡単に嫌いになれるはずがない。
「そいでええか? 翼妃」
「……はい」
あの日、白龍が全てを話してくれたなら、翼妃だって逃げようとはしなかった。
少し悲しい気持ちになりながら、翼妃は赤鬼の提案に賛成した。
◆
思い出というものは美化される。だからこの思い出も、いくらか美化されたものなのだろう。
炎寿の気紛れで酒を飲まされ爆睡している神鎮たちの横で、夜空に浮かぶ綺麗な円形の月を見上げながら、翼妃は柊水と過ごした玉龍大社での日々を思い出していた。
あれは七歳の頃だったが、八歳の頃だったか。
ある夜、眠っている翼妃を柊水が起こした。
「翼妃ちゃん、今日は十五夜だよ」
「十五夜?」
「一年の中で最も空が澄み渡る夜のことだよ」
そう言って柊水は翼妃の手を引いて縁側まで連れていった。
柊水が空を指差すので、仕方なく見上げる。――そして、空を見たのはいつぶりだろうと思った。いつもそこにあるはずなのに、視界には入っているはずであるのに、久しぶりにちゃんと空を見た心地がした。
廻神家の屋敷で過ごすうちにいつの間にか翼妃は俯きがちになり、空を見上げることなどなくなっていたのだ。
「母様とも昔、こうして月を眺めたことがあるんだ」
隣の柊水が言った。並んで立つと、初めて出会った時よりも背が高くなったことを感じる。
「僕は大切な人としか月を見ない」
――“大切”、ね。と翼妃は鼻で笑いそうになってしまった。よくそんな上辺だけの言葉を言えるものだと。
柊水は楽しげに縁側に腰をかけ、ぽんぽんと自分の膝の上を叩く。上に座れということなのだろう、と呆れながら従った。抵抗すれば機嫌を損ねるから。
「綺麗だね、翼妃ちゃん」
翼妃を抱き締めながら月を見上げる柊水の声がいつもよりいくらか優しいもので、少しだけ動揺した。
そして不意に思った。この人は、誰かを大切にするということを知らないのだと。大切な人をどのように大切にするのか知らないままに、生きていたらそれを教えてくれたであろう人を祟りによって奪われてしまったのだ。
全ては、翼妃の家族が翼妃を連れて玉龍大社から逃げ隠れて過ごしていたのが発端である。それなのに何故柊水は、翼妃に笑顔を向けられるのだろう――幼いながらに、疑問に思ったのを覚えている。
◆
出雲國では、十年に一度の神無月のことを“神在月”と呼んでいるらしい。神在月には全国各地の小さな神々も集まり、人々の縁についての会議が行われる。
その月のみは貴月大社自体が変形するようで、神々を迎えるために大きさも変貌すると聞いて驚いた。
うるさい赤鬼と無言の青鬼が発生させた雲に乗って貴月大社まで連れてこられた翼妃は、見たこともない規模の敷地を上空から見て圧倒される。
有名だという山を背に厳かな雰囲気を醸している大きな神殿。正門近くには太い松の木が何本も並んでいる。
(ここが、鹿乃子さんの故郷……)
しみじみと感じ入りながら、赤鬼に抱かれて地に降り立った。
周囲は自然豊かで、空を何匹もの鳥が飛んでいる。驚いたのは、兎がその辺を跳ねていることだ。兎を初めて見た翼妃はその可愛さに惹かれ触れようとしたが、「やめえ」と赤鬼に制止された。
「それは神ん御使いじゃ。迂闊に触るっと引き込まれる」
慌てて手を引っ込める。
その時、兎が光り輝き、ゆらりゆらりと形を変えた。ついには白い髪と赤い目を持つ人の形になり、翼妃たちに話し掛けてくる。
「ようこそお越しくださいました。火紋神社の鬼神様。……そして、翼妃様」
中性的な顔立ちをしている彼女たちは巫女服のような物を身に纏っており、先に歩き出して翼妃を案内する。
「迎えが間に合ってよかったです。翼妃様は、これ以上本殿に近付かぬ方がよろしいかと。人の身では気を狂わせます。わたくし共が用意した部屋までご案内します」
数羽の人の姿をした兎たちに連れられ、貴月大社から離れた位置にぽつんと建っている小さな社の裏に連れてこられた。そこには小屋のような場所があった。貴月大社に祀られている神が、ここに不可侵の結界を張ってくれたらしい。
「内から錠をかけ、外からわたくし共が合言葉を言うまで開けずにいてください。合言葉は、“紡ぐ縁、織りし幸せ、行く先で微笑む”でございます」
「……分かりました」
「分かっちょっち思うが、絶対にこん扉を開くんやなかよ。我が迎えに来っまで大人しゅうしちょけ」
翼妃が兎の言葉に真剣に耳を傾けていると横から赤鬼が釘をさしてきた。
こくりと頷いて中へ足を踏み入れる。何もない、古い小屋といった感じだ。翼妃が歩く度に床が軋んだ。
「本などご用意できれば、お時間を有効にお過ごしできたかと存じますが、人の世の物はこの中で管理できませんので、ご容赦ください」
神々の会議には長い時間がかかる。その間何もない部屋で退屈に過ごすことになる翼妃を気遣ってか、兎が申し訳無さそうに外から頭を下げてきた。「お気になさらず」と翼妃も頭を下げた。
そして、ゆっくりと戸が閉まっていく。完全に閉められた後、兎たちの言う通りに内から鍵をしめた。
翼妃は床に体育座りし、目を瞑って兎たちが迎えに来るのを待った。
――……長い、長い時間が過ぎた。何もないからか、もう何日も経っているかのような気になった。
時折翼妃はうたた寝したが、何度うたた寝しても兎の迎えはまだだった。
そういえば赤鬼が、神在月の貴月大社では時間の流れも人の世のそれとずれると言っていた気がする。
いつになったら会議は終わるのだろう。もしかしたら、忌み子であり厄介者である翼妃を捨てるためにここに置いていったのではないか。もしかしたらもうずっと迎えに来てもらえないのではないか――悪い方向に思考が働きだし、同時に、過去の嫌な記憶が蘇ってくる。
柊水に無理矢理閉じ込められ、いくら叫んでも助けてもらえなかった記憶。米俵の横で泣きながら眠った記憶。
過去のことを思い出し、うまく息ができなくなってきた。体がぶるぶると震える。心なしか体温も下がってきた気がする。
(嫌だ……出して……)
昔とは違い、眠ったところで白龍のところへは行けない。そう思った時、まだ白龍を心の拠り所にしていることを自覚する。
覚悟は決めたはずなのに、と唇を噛む。
その時、幻かと思うような出来事が起こった。
「――――……翼妃、そこに居るのか?」
壁越しに伝わってくる、懐かしい人の懐かしい声。三年ぶりに聞いてもすぐに誰か分かってしまう。
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