陰陽を語る

結井 凜香

第1話 孤独の青春

「陽キャラ」「陰キャラ」という言葉が一昔前に流行ったような気がする。「陽キャラ」とは、おしゃれや最新の流行に目がなく、暇があれば友達とカラオケやゲームセンターでプリクラを撮って遊んだり、男女交友も盛んで、ちょっと気が合った、優しくされた、見た目が良いからと恋に落ちては些細なことで破局し、その失恋から這い上がってまた出会いを求めて遊びに興じたりする、いわゆる「明るくて陽気な人たち」のことを指す。逆に「陰キャラ」とは、それとはうってかわってアニメや漫画、ゲームや小説が好きで、人前に出て目立とうとする行為を好まない人種である。いわゆる「オタク」と呼ばれる者たちを指す。しかし、彼らは彼らの中で異常な盛り上がりを見せる。例えば、自分の好きなアニメの登場人物について、自分の仲間内で話すときは異常なほど饒舌で、他の友人たちが共感を示すと異常なほど興奮する。また、自分が好きな漫画や小説などの布教活動にも熱心で、少しでも自分と好きなものが一致すると、書籍の貸し借り(場合によっては無理やり押し付けられることもあるが・・・)を行い、また感想を述べあっては好きな登場人物に思いを馳せ合う。また、陰キャラたちも自分の好きなアニメのテーマ曲やアニメの声優の歌などを好み、カラオケに行って歌うこともしているようだ。

そんな、陽キャラと陰キャラ。教室がものすごい勢いで二極化していた10年前、私はどちらにもなれなかった。陽キャラになっておしゃれやダイエット、恋愛に打ち込むこともなければ、陰キャラのグループに入って好きなアニメや漫画の話に興ずることもなかった。私は、ゼロという極めて「異質」な高校生だった。


私は、今から10年前、高校3年生だった。17〜18歳という、人生で最も楽しくて輝くべきこの時期、私には全く取り柄がなかった。

特にこれといっておしゃれに興味はなく、誰か好きな同級生がいるというわけでもなかった。周りの陽キャラたちが服装チェックに怯えながら校則に反して髪を染めたり化粧をしていたりするのを、「特別指導されたり、色を染め直したりのが面倒なら、最初からやらなければいいのに」「高校生が化粧って、かえって不釣り合いな感じがして気持ち悪いなあ。学校でそんな色気を振りまく必要ってあるの?」と冷ややかな目で眺めていた。しかし、後にその陽キャラたちと体育で一緒にバスケットボールをすることになるのだが、その時の彼女たちの話を聴いていて、私は彼女たちの方が随分まともなことを話していることに気がついた。確かに、見た目こそ派手でうんざりさせられるが、言っていることは私が通っている塾の友達と変わらなかった。しかし、対して陰キャラたちの言動はと言うと、これがものすごく面倒くさい上、「陰キャラ」と言われるにふさわしく、極めて「陰湿キャラ」だった。

私は、もともと自分の性格が活発的で明るいというわけではないため、高校入学当初は陰キャラでいこうとした。

そのために、入学前、中学時代の後輩から布教された、陰キャラたちが好きそうなアニメやアニメソングを聞きまくった。すると、それが功をなしたのか、入学したてでは上手くいった。中学時代まではいじめによって友達がいなかった私に友達が何人かできた。しかし、月日がすぎると、その友達たちはメッキが剥がれるようにどんどん私の前から居なくなった。なぜか。それは、私が友達になってくれた子たちに、不慣れで不器用なアプローチをしすぎて、それが変なものとみなされたことと、私と友達たちの意識の問題だった。私は、高校入学前から親に「将来は大学に行け」と言われていた。大学に入って、教員になれというのである。私は、教員になるのは嫌だったが、大学には行きたかった。というのも、私は昔から気になったことを深く調べることが好きだった。小学1年生から3年生頃には漫画の影響でハムスターが好きになり、ハムスターに関する本を片っ端から読み漁っていたし、その後は中学2年生くらいまで心理学や心臓医学、薬学に興味を持ち、学校の朝読書に臨床心理学の本や心臓医学、血液製剤や血液についての本を読んでいた。普通の小中学生なら、本屋の店頭に並んでいるような流行りの小説や、子ども向けの本を読むのだろうが、私の意識はすでにそこから違った。

休日ともなれば、親に「勉強しに行ってくる」と言って図書館に行って、自分の興味あるものをずっと調べていた。しかも、愚かなことに、私は部活をサボってまで図書館で調べものをしていたのだ。(大馬鹿者!)しかも、「勉強しに行ってくる」というのは、敢えて外に出るための口実だったので、肝心の学業成績はいつも振るわなかった。化学や薬学が好きなわりに理科や数学ができないという、いわゆる「真面目系クズ」というものである。しかし、クズはクズなりに頑張った。理数系科目ができないのを、代わりに当時得意だった国語や英語や社会でリカバリーしていた。(ちなみに実技教科は音楽以外すこぶるできなかった)それでも、大学で化学や薬学を勉強したいという思いから、高校は普通科を志望し、それに向けて苦手な数学や理科とも向き合っていた。しかし、結果はそのできなかった数学が足を引っ張り、私は志望校に落ちて第2志望の高校に進んだ。今思えば、私の特性を鑑みるに、私は工業高校の化学工業科か機械科に進むべきだったように思う。そうすれば、自分の興味あった化学分析や実験などに打ち込み、いつか取りたいと願った毒物劇物取扱者の資格も夢ではなかったかもしれない・・・。が、悔やんでいても仕方ない。とにかく私は落ちたのだ。その悔しさは、私の心に火をつけた。「高校では絶対数学を得意になろう!」と。そして、当時通っていた塾の、高校入学直前講座で受けた高校数学の面白さに心を奪われ、私の興味はだんだん数学や理科へと移っていった。その後、高校に入学すると、名古屋の大手予備校にひとりで電車に乗って通いながら、一生懸命数学と向き合った。予備校での数学は、中高一貫校や県内の有名進学校の生徒たちと受講したため、ついていくのが難しくて、時には予備校の教務の方の前で泣きながら苦痛を訴えたこともある。しかし、高校の夏休みの補習あたりからその努力は報われ始め、塾での知識と学校で得た知識が上手く両立するようになると、私の数学の成績は一気に上昇した。1年生の12月には学年で1番にのし上がった。定員オーバーで、学年集会のたびに圧迫され、いっときは選抜試験を行うかもしれない、と言われた理系クラスへの進級も、「お前が理系クラスに行かなくて誰が行く」と当時の担任から太鼓判を押されていた。しかし、その栄光とはうってかわって、私の人間関係は赤点レベルのひどい有様だった。数学で学年トップに躍り出たことに有頂天になり、それと同時に数学者になって数学の研究がしたい、という夢ができたのはいいものの、私の周りにそのことを一緒に喜んでくれる同級生はいなかった。

というのも、私は、1年生の夏休み明けから、急に一人ぼっちになってしまっていたからだ。その理由は、2つ考えられる。1つ目は、私は彼女たちと夏休み中も話をしたり遊んだりという交流を怠ったためだ。私は、夏休みは、特に誰かと遊びたいとは思っていなかった。そのため、ずっと家でテレビを見たり、昼寝をしたり、予備校の夏期講習に通いながら自習室で学校の課題をこつこつと片付けていたりしていた。そのため、夏休みの最中の登校日に、陽キャラのクラスメイトに、宿題はどれくらい終わったのかと尋ねられた時、英文法の参考書の課題を除いて、ほとんどの課題を終わらせていたことに自分で気がついた。「どんだけ勉強してるの」と彼女に引かれたが、私は彼女とは逆に、なぜそこまで勉強せずに一日を費やせるのかが不思議だった。きっと、学校内外の友人たちと遊んだり、(校則上では禁止されているが)アルバイトをしたりと、絵に描いたような「キラキラした青春」とやらを満喫していたのだろう。しかし、彼女たちのような陽キャラはまだ良い。明らかに遊んでいることが分かるからだ。私が後に陽キャラたちに好感を持てるようになったのも、この裏表のない何でもオープンなところが理由である。表面上では友達を装いながら、影では他の者たちと悪口を言い合う陰キャラたちより断然付き合いやすい。

そう、2つ目の理由は、その「陰キャラ」たちが、影で私のことを嫌っていたからだ。私が友達だと思っていた子たちは、私の知らないところでひっそりと集まって私の悪口を言い合っていたに違いない。そして、陰キャラたちは密かに私をグループから引き離そうという、かつての日蓮正宗が創価学会に向けて行った「C作戦」ばりの計画を企てていたのだ。だから、陰キャラというのは付き合うのが難しい。しかも彼女たちは、表向きでは好きなアニメやテレビ番組などの話で大いに盛り上がれるのだが、私が居なくなると、私の悪口を言っていたに違いない。

なぜか。それは前述した不慣れなアプローチが異質なものとみなされていたことが挙げられる。性格の歪んだ彼女たちには、かえってその一生懸命さが気持ち悪かったのだろう。それで表向きでは私と仲良くして情報を集め、私が居ないときにはその異質さを笑っていた。そして、弄ぶだけ弄んで、タイミングのいいところでいつか切り離して、自分たちだけで盛り上がろうとしていたのだろう。こう考察すると、これだけでも十分ないじめだと思ってしまう。

でも、一生懸命ながら、どこかずれた人をここまで痛めつけるというのもいささかやりすぎな気がする。では、何がこのいじめの原因だったのか。

私は、「妬み」だと思う。というのも、私が居た高校は、そんなに学力が高くない学校で、この陽キャラと陰キャラの個性が、かなり極端に別れていた。

そして、周りの同級生たちの家庭環境はというと、母子家庭や家庭の中がうまくいっていない家庭、親との仲が悪い家庭、そして貧困家庭が多かった。

それに対して私の家庭は、両親がちゃんといて、家は特に貧困にあえいでいるわけではなかった。両親との仲はあまり良くなかったが、離婚や親の大病等は特になかった。しかも、大手予備校に1年生から行っている。持ち物もそれなりに可愛いものを買ってもらっていた。が、その持ち物は高校生が手軽に買える値段のものではなかった。さらに、休日ともなれば、家族で長野や岐阜、山梨へ日帰り旅行に繰り出すこともあった。家庭不和や貧困家庭の彼女たちからすれば、私はきっと「お金持ちのお嬢様」のように見えたのだろう。そして、そのことをためらわずに楽しそうに話す私に、妬みを覚えるようになったのだと思う。それが、私が一人ぼっちになってしまった本当の原因だと思う。たしかに私にも悪いところはあった。後に受けた精神科の診察や、心理検査によって分かったのだが、私は人に対して、どうにも上から目線で話してしまい、それで人に気分を害してしまうことが多いそうなのだ。だから、そういった話し方が、彼女たちの妬みに拍車をかけたのかもしれない。でも、私は学校の外に出れば、予備校に行けば、話せる人はそれなりにいたし、その人たちは私のことを普通の一般人として受け入れてくれた。それは、大学に入ってからも変わらなかった。私の考えはごく普通の一般人と変わらないし、間違ってはいない、とほとんどの人がそう言ってくれた。だとすれば、私がいたのは、きっとすごく民度の低いところで、私はそこで陽にも陰にもならずにいたから、そのことが異質とみなされて、迫害されていたのかもしれない。陽と陰が際立つ世界では、普通とか、一般人がかえって異質だったのだ。

その後、泥沼の1年生を終えて進級し、2年、3年と理系クラスで過ごしたが、その理論は崩れなかった。最初こそ上手くいったが、また同じようにある日突然「友達たち」は姿を消した。でも、私の心はもう前のようなショックはなかった。高校に上がるまでも散々いじめられてきていたし、散々人から裏切られて一人ぼっちにされ続けたので、「またか」と思うくらいだった。それに、理系クラスへの進級ができたことによって、私の心はいよいよ物理や数学への情熱を増し、来たるべき受験へ向けてやる気を膨らませていた。また、私は、「学校」とは勉強するために行くものだと思っていた。それは幼い時から、親にずっと言われていたことだったし、私もそうだと思っていた。

そして高校も、同じように「勉強するところ」と思っていたので、私は2年生以降は数学や物理の勉強しかしなくなっていった。かといってこれらの成績が引き続き良かったのかといえば決してそんなことはなく、理系クラスへの進級を果たしてから、私の成績はなぜか大きく失速していった。そして、その失速を私は止められなかった。なぜか。それは、学校の授業と塾の授業の両立の歯車が、急に噛み合わなくなったからだ。

2年生、理系クラスに進級してから、双方の勉強はもちろん難しくなった。しかし、難しいだけで学校と塾の足並みが揃っているならまだ良い。学校で理解できなかったことは、塾でカバーが効く可能性があるからだ。ところが、私が遭遇した歯車の狂いの原因は、その「足並み」さえ揃っていなかったことにある。クラスの数学の担当教員の「3年生での数学の授業は、すべて大学受験のための問題演習にしたい」というめちゃくちゃな願望によって、私たちはそれに振り回されることになった。まだ数学Ⅱの関数についてさえおぼろげな理解しかしていないのに、2年生の9月までに無理やり数学Ⅱを終わらせ、2年生が終わる頃には、理系高校生にとって、受験数学の登竜門とされる数学Ⅲを、すべての土台が固まる前に終わらせた。そのスピードは、「愛知県にある有名進学校でさえ、こんなスピードでやることはない」と大手予備校の講師に憤りを覚えさせるほどのものだった。当然、クラスのほとんどの生徒がついていけるわけがなく、私もそのひとりだった。だいたい、数学Ⅱで習う三角関数や指数関数などの関数たちが、一体どうやって成り立っているのか、また、その関数たちの操り方や、そもそも微分・積分がどういったものなのか、という基本的な理や双方の関係性、それぞれの計算方法についてがきちんと定着しなければ、数学Ⅲなんてできるものではない。もちろん、最悪、理論なんか分からなくても、それぞれの計算方法さえきちんと定着させれば解けるのが受験数学であるが、私がそれに気がついたのは、今の教員という仕事についてからだ。もともと学力の低い学校でそのことに気がつける高校生は、ほんの一握りだろう。当時の私はその教員の乱暴な授業のやり方に怒りを覚えたが、それは教員になった今でも覚えている。彼からは、「生徒に理解させたい」という思いは微塵も感じられなかった。ただ国内の有名進学校と同等のスピードで授業をこなせている自分に陶酔し、自分が若かった頃、偶然上手くいったやり方に固執し、それを私たちに強要した。今の教育現場からすると、到底ありえない・・・と思いたかったところだが、残念ながらこういった乱暴な教育は、未だに全国の普通科高校にはびこっているそうだ。最近SNSなどで話題の、「自称進学校」というものである。自称進学校、とは、「有名進学校がする教育」をしたい教員たちが、そんなに学力の高くない生徒たちに対してその教育をした結果、受験の戦果が思うように振るわないのに空回りを繰り返す学校を指す。しかし、戦果が振るわないなんて、そんなの当然じゃないか。目の前の生徒たちの実力に合った授業をしなければ、理解が深まることはない。英単語や古典の単語をただ暗記をさせるテストを繰り返したって、肝心の長文読解に役立つようにしなければ何の意味もない。英語や古典は、文が読めなければ話にならないので、やたら単語を覚えろという教育にはいささか呆れてしまう。いや、この教育には大学の英語の先生さえも反発していた。「文法や単語をどれほど覚えたって、英語は話す、聞く、読むができなければ話にならない」と、私が大学でお世話になった英語の先生は話していた。確かに、理系の専門的な仕事をしていくには、英語の論文を素早く読めたほうがより深く専門知識を学ぶことができるし、今のグローバルな社会で生活を営むためには、海外の製品を用いなければならないことが多々ある。その時に、いちいち文法がどうの、文の構造がどうのなんて考えている暇はない。それを、自分のレトロクラシカルな考えを改めず、また、かつて上手くいった方法に改良や改善を加えず、本当の「有名進学校」の教育が今どうなっているのかマーケティングもせず、「うちの学校に通えば塾に通う必要はありません!」と受験に関して無知な親相手に声高々に宣揚し、実際の有名進学校では絶対に行っていないめちゃくちゃな教育で子どもを痛めつける。痛めつけられた子どもは、心が歪んでいじめや校則違反を繰り返す。教員に反発して補習に出ない。無気力になる。それでもやり方を曲げない、むしろ強制することが増えていく、というのが自称進学校の現状である。私も、同じようにあらゆることを強制させられた。中でも最も苦しかったのが、「補習」だった。

私は今、工業高校で工業科の教員をしているが、(一応専門は機械である)工業高校の補習の方がやりがいを感じている。というのも、中間、期末考査、資格試験が近くなると、専門教科の講義を聴いただけではとうてい理解できずに悩む生徒たちがこぞって強く「補習」を嘆願してくる。それで私たちも放課後に教室や空き部屋で彼ら相手に教鞭をとるのだが、それは、今の教育が求める、自主的・自発的な「補習」だからだ。誰かに強制されてやるのではなく、自分から学ぼうと動いている。それに答えるのが私たち教員だと思うからだ。しかし、自称進学校の「補習」はそういう、本来あるべき姿の自主的・自発的な「補習」ではない。教員が、生徒に学ぶことを強制的に強いるのだ。自分のペースでこつこつ勉強してきた私にとって、これはきつかった。ただでさえ学校でやっていることが理解できていないのに、同じ分からないやり方で授業を行う教員の話がリピートされるなんて、何の学びも補えない。自分のペースで分からないことにひとつひとつ丁寧に向き合って潰していきたい私には、拷問でしかなかった。しかも、その補習内容だって担当教員がやりたい問題集をただ淡々と解説していくだけで、何の面白みも興味も惹かなかった。これは、学年が上がって土曜日も補習を強制されるようになっても変わらなかったし、夏休みに私のクラスだけ、いきなりがちがちに時間割が組まれて単なる通常授業と化しても変わらなかった。でももし、その強制が行われる前に、どうしてそれを強いなければならないか、理由を説明してくれれば私もまだ従えたかもしれない。しかし、クラス担任はそのことについて何も説明しなかった。ただ、自分が若い時に他の学校で上手くいったことを理由に同じことを繰り返す、しかも強制的に、と話しただけで、私には理解も同意もできなかった。その他の学校だって、彼が勤める今の学校とレベルは全然違うし、生徒たちの性格や波長もすべて違う。なのに、どうして、いつまでも昔の成功体験に陶酔できるのか。当時の私にはそれが疑問だった。しかし今思うと、私は彼は現実逃避していたのではないかと思う。というのも、彼は当時50代後半で、私たちを卒業させれば彼自身も定年退職となっていた。(これは彼がよく私たちに話していたことだった)だから、今さら受験業界のマーケティングや、私たちに合わせた指導法の開拓などしたって、どうせリミットが来るのだ。だから、無駄に色々動き回るよりも定年後の生活に向けて楽しみを開拓する方が楽しいしやりがいがある。と、指導に諦めていたのかもしれない。もしくは、数学の教員ともなれば(運の悪いことに、その横暴な数学教員が私の高校時代の全学年での担任だった)、学校で教えることは固定化してくる。それでマンネリ化してしまったのだろう。そうした心身の腐敗を補うために、彼は「強制」「横暴」の鎧を着たのかもしれない。人に対して何かを無理に強いたり、高圧的な態度を取る者こそ、その心身は弱い。それは私も後に教員として高校生の前に立った時に痛感した。散々物事を強いられ、教員たちの高圧的な態度に怯えてきたのに実際に自分がそのような振る舞いをとってしまった時の自責の念は、とても重かった。とても悲しかった。だから、彼の存在を始め、私の高校時代の教師たちは、今の私にとって大いなる反面教師である。しかし、高校生の私には、そこまで深く考察を巡らすことはできなかった。ただただ自由を奪われ、中身のない授業や補習を強要されて疲労が溜まっていた。そして、塾の数学も物理も理解できなくなっていた。どんなに頑張っても内容を理解することはできず、成績は下がる一方だった。また、学校のやり方に愚痴をこぼし合える仲間もいない。今までは、「ごく普通の女子高校生」という意味でゼロな立場にいた私だったが、高3生の夏には、勉強ができない、しかも友達もいない、という、中身のない「ゼロ」な女子高生になってしまっていた。さらに、あまりの束縛のつらさと友達がいない寂しさで、私は普段仲違いしていた母親にさえ、「お父さんには黙っておくから精神科に行こう?」と言われるほどにおかしくなっていた。現在の、精神科に通院を始めて5年目になる私が当時の私の状態を考えると、ほぼ間違いなく適応障害の診断が出たと思う。それで、学校からは一旦離れて休まされただろうと思う。適応障害の治療は、ストレスのもととなる場所から一旦離れて落ち着くことが始まりとなっているからだ。しかし、診断書を学校に提出しても、それが学校に受け入れられるのかは甚だ疑問である。いや、診断書の効力は核兵器並みなので、受け入れなければ学校側が罰せられるだろう。でも、受け入れても、学校はきっと、「学校に来なくても勉強しろよ」と言うだろう。それが適応障害の治療を妨げる大きな害なのに・・・。しかし、当時の私は精神科が怖くてたまらず、その提案を断った。そして、学校が補習をサボると親に電話が行くことを恐れて、仕方なく学校に行っていた。また、学校に補習を強制されているので、唯一の心の居場所で逃げ場だった塾の自習室や夏期講習には行かせてもらえなかった。逃げ場は奪われ、愚痴を吐き出せる人もいない。この夏は、息が詰まって上手く呼吸ができなかった。心がどんどん締め付けられて、閉ざされていった。どうせ私の苦しみなんて誰にも分かってもらえない。でも、何でこんな矛盾した、意味のないことを強いられているのだろう・・・。苦しかった。誰かに助けてもらいたかった。そして、その息苦しい「夏休み」が終わると、私の心は疲労に耐えかねて、どんどん壊れていった。強制された補習をサボるようになって、塾に逃げた。じゃないと、もう自分の心が持たなかった。いつまでも強制、ならぬ「矯正」に耐えられなかった。やがて季節が冬になり、受験シーズンを迎えたときには、私には、もう戦える気力は残っていなかった。自由登校の期間も補習を強制する担任にうんざりし、学校に行かなくなった。毎日、体が重くて動けなくて、泣きながら寝ていた。多分、適応障害が悪化して、うつ病になっていたのかもしれない。学校を卒業した時、私の心には開放感も安堵もなかった。卒業式で、周りの同級生たちがこれまでの思い出に涙していた時も、何かを思う感情はゼロだった。私にとっての高校時代は、太陽のごとく輝く思い出はなく、何かを極められたという達成感もなく、友達もいない、ゼロの期間だった。未だに、この時のことが蘇って、嫌な気持ちになることがある。息が詰まりそうになる。また、後に私も「自称進学校」で期限付き教員をすることになったのだが、その時にも息が詰まりそうになったことが多々ある。こう書くと、「そんなトラウマがあるなら高校教員なんてやめてしまえ」とお叱りを受けるだろう。しかし、私の4年余の経験上(現在私はうつ病で仕事を休職している)、そのゼロだった時代の経験が、実は今の教育現場で、必要とされていた。というのも、かつての私と同じように、教員から理不尽されて愚痴をこぼす生徒、就職試験に落ちて落ち込む生徒、何もかもが上手くいかないと嘆く生徒、これから苦手な教員に叱られにいかなくてはならなくて渋い顔をする生徒・・・と、学校での日常で、何かとマイナスなものを持った生徒たちと向き合う際に、このゼロだった経験がものすごく活きたのだ。しかも私が体を張って経験したから、すべて実話である。嘘偽りなく語ることができる。また、その「ゼロ時代」の話に生徒は納得したり、どことなく安堵の表情を浮かべていたりしたのを私は覚えている。成功体験ばかりの教員では、こうしたマイナスなものを持った生徒を励ますことは絶対にできない。また、ちょっと哲学的なところから今回の陽キャラ、陰キャラを考えてみる。個性が激しく二極化したのなら、陽キャラと陰キャラが激しくいがみ合うことだって起こり得たはずだ。しかし、両者は個性が激しく二極化しただけで、なぜか争いごとは起こらなかった。いじめもなかった。なぜか。それは、両者の根底が一致していたからだと考察する。まず、両者とも家庭環境は悪いものが多かった。経済的な面も、そんなに裕福ではなかったことも同じだ。両者とも、校則で禁じられているにも関わらずアルバイトをしている者がいたからだ。そして心理的な面でも、「自分さえ良ければその他の人たちなんてどうなってもいい」という考えが両者、根拠は違えど一致していたからだ。他人のことを考えず、自分の楽しみや幸せのことだけ考えて生きる、それが、この日本での一般的な考えなのかもしれない。人を思って行動することが煩わしいと思うのが普通なのかもしれない。しかし、そういった歪んだ考えがあるから、いじめはなくならない。乱暴な「自称進学校」の暴走が止まらない。理不尽は止まない。そして、そのことに傷つき、病気になって泣く泣く学校を去らなければならない子どもがいるし、何十年経っても、未だにトラウマとしてずっと心に遺って苦しんでいる大人もいる。私もその1人だった。では、この悪循環は、どうやって絶ち切ればいいのか。それは、相手が今どんな状態なのか、どんな状況下に置かれているか、何かアクションを起こす前に、ちょっと立ち止まって相手に質問をする。相手の話に、まずは、取り敢えず耳を傾けてみる。こうした、ちょっと一息ついて、ちょっと一歩待ってみる、のが必要なのではないかと私は思う。確かに、この世知辛い世の中を生きるのに、そんな時間は、余裕はないというのは間違いないが、相手に向かって一歩踏み出す前に、ちょっとひと呼吸置くのが自分の健康面から見ても必要なのではないかと私は思う。マイナスなことを持って苦しむ人たちを、そっと温め、ホッとさせたい。穏やかな春の陽光のように、何かに苦しんでいる人にやさしく寄り添いたい。と、これを読んでいるあなたが思えば、の話だけど。

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