第77話 姉弟は互いのことを想い合う
「ごめんね、もう大丈夫」
美優が泣き止み、目を赤くさせ顔を上げたのはしばらく経った後だった。
窓の外に視線を向けていた春陽は、美優の声に視線を正面に戻した。
外はまだ明るく、話し始めてからそれほど時間は経っていないというのに、春陽と美優の間では大きな変化があった。
それも二人にとって、この上なくいい変化が。
随分と濃密な時間を過ごしたようだ。
「姉さんが泣いてるところなんて初めて見た気がしますよ」
春陽が揶揄うような笑みを浮かべて言う。
そこには気恥ずかしさも多分に含まれていた。
「誰のせいよ、誰の。それとその丁寧語禁止だからね。どこに姉弟でそんな話し方してる人がいるのよ」
美優がジト目を向けて言い返す。
そして気恥ずかしいのは美優も同じだった。
「っ、そっか……、そうだな」
「……わかればいいの。これからもそうして」
ぷいっとそっぽを向いて美優が言う。
「わかった」
春陽は小さく笑んだ。
二人の間に穏やかな空気が流れる。
数年ぶりの姉弟としての会話だ。
どこかぎこちなく、けれど温かい雰囲気で二人の間に確かな繋がりが感じられるものだった。
もうしばらくこんな他愛のない話をしているのもよかったが、春陽は切り替えて美優に言った。
「そういえば、姉さんの今の状況だけど」
美優が今辛い思いをしているのなら一緒に考えたいと思ったのだ。
「それはもういいの。話さなきゃと思って全部話したけど、これは私の問題。春陽が気にすることじゃないから。春陽は自分の今の生活を大事にしてくれればいいの」
気にかけてくれるのは嬉しいが、春陽を直哉に関わらせたくはない。
美優の気遣いは春陽にも伝わった。
それは嬉しいことだが、今春陽が言いたいことは違った。
「ありがとう。けど、そうじゃなくて、一人暮らしのこと。バイトして自分のお金でするつもりがあるなら許可なんてわざわざ取らなくてもいいんじゃないかって思って」
「ああ、それはね、問題があるの。一つは保証人のこと。私学生だから絶対求められるし、そうすると親になってもらわないとでしょ?それともし勝手に出て行ったら大学の学費を払ってもらえなくなるかもしれない。そこまではさすがに自分で出せるとは言えないから……」
「なるほど……。けど学費は心配いらないんじゃないかな?」
「なんでそんなこと言えるの?」
「だって世間体気にしてるんだろ?しかもあり得ないレベルで。だったら一度通わせておいて、学費の未払いで退学なんてなったらそれこそ世間体悪すぎだろ?」
春陽の言葉に美優は目をパチクリとしてしまう。
そういう考え方はしたことがなかったが、言われてみれば、確かにと思えてしまった。
自分のことばかり考えているからこそ、直哉ならありえるかもしれない。
いや、可能性は高そうだ。
直哉に、リスクを負ってでも美優の学費を払わない、という選択をする勇気があるとはとても思えない。
そんなリスクを負えるのであればそもそも美優の一人暮らしを許すはずだ。
その方があの家に暮らす全員にとっていいのは間違いないのだから。
「……そうかもしれない。なんで思いつかなかったんだろう……」
一人で追い詰められて考えていると、視野が狭くなり意外と見えないことは多いものだ。
「だろ?」
「でもまだ保証人の問題が残ってる。こればっかりは本当にどうしようもない。結局はあの人の許可が必要になる」
「そうだな……。どうしたものか……」
「ふふっ、考えてくれてありがと。けど本当に気にしなくていいから」
春陽の優しさが素直に嬉しい。
「二人とも随分雰囲気が変わったけど話は済んだの?」
するとそこに麻理がやってきた。
ずっと気にしていた麻理は会話は聞こえていなくても、二人の間に流れる雰囲気が変わったことにいち早く気づいて様子を見に来たようだ。
「麻理さん。ちょうどよかった。姉さん、紹介するよ」
そう言って春陽は麻理に美優を、美優に麻理を紹介する。
麻理には今日美優と会うことは伝えてあったからここにいるのが自分の姉だということはわかっているが会ったことはないだろう。
美優は自分のために会う場所をここにしてくれたので、麻理を紹介する必要がある。
そう春陽は思ったのだ。
だが―――――。
「ごめん、ハル。もう知ってるわ。この間美優が会いに来てくれてね。ハルが私のこと話したんでしょ?話を聴いて心配してたみたいでね」
「そうだったんですか!?」
春陽は麻理と美優の顔を交互に見る。
「え、ええ。実はそうなの……。春陽の話を聴いて気になって……」
美優はバツが悪そうな顔をしている。
春陽に黙って勝手に麻理に会いに来たことが後ろめたいようだ。
「紹介の必要はなかったってことですね」
春陽は苦笑を浮かべた。
「それで?今の感じを見るに、ちゃんと話はできたのかしら?」
春陽は今美優のことを姉さん、と呼んだ。
それだけで色々と察することはできる。
「ええ、まあ。おかげさまで……」
春陽は照れくさそうに頭に手をやる。
そんな春陽に麻理は優しく微笑む。
「そう。よかったわね、二人とも。本当に……。今は何の話をしてたのかって聞いてもいい?」
「それは……」
春陽は言い淀み、美優を見る。
美優のことのため、自分が言ってしまうのは気が引けたのだ。
「私が一人暮らししたいってことを話してしまったので、春陽が色々考えてくれてたんです。けど、保証人が必要だし、やっぱり父親の許可が必要だって話してて……」
美優が正直に伝える。
以前来たときに麻理にはこの話をしているので隠す必要はない。
「保証人?許可が必要な理由はそれだけなの?」
「え?ええ、そうですね。家賃は自分で払うつもりですし、学費のことも心配だったんですけど、春陽に言われて、確かにあの人は払わないという選択はしないなと思ったので」
「それなら、私がなろうか?保証人」
「「えっ!?」」
「別に親じゃなきゃいけない訳じゃないはずよ?ハルの部屋だって私が保証人だもの」
「いえ、でも、そんな……」
美優は突然の麻理の申し出に戸惑ってしまう。
「いいんですか?」
春陽も麻理に負担をかけてしまっていいのかと困惑顔だ。
「もちろん。でなきゃ言わないわよ」
麻理の言葉に春陽は考えた上で、美優に訊く。
「……姉さん、麻理さんに頼ってもいいんじゃないか?もうそんな家にはいない方がいい」
「春陽……」
美優の心が揺らぐ。
本当に自分が麻理に頼ってもいいのだろうか。
すると、麻理が美優の耳に顔を近づけ、春陽に聞こえないように何かを囁いた。
「っ!?」
麻理の言葉を聴き、美優の目が大きくなる。
言い終えると麻理は体を戻し、「どう?」と美優にあらためて尋ねた。
美優は麻理そして春陽へと視線を向ける。
春陽は訳が分からず首を傾げる。
あらためて麻理に視線を定めると、「……お願いします」そう言って麻理に頭を下げるのだった。
「任せてちょうだい」
麻理は笑顔で請け負った。
この後、美優は一人暮らしに向けて忙しくなるのだが、それはまた別の話だ。
「それはそうとハル。話が一区切りついたならそろそろ紹介してあげたら?ずっと心配してるわよ?」
麻理はそう言ってカウンター席に視線を向ける。
それで春陽にも伝わった。
春陽もずっと気にはしていたのだ。
「姉さん、実は紹介したい人がいるんだ。会ってもらえるか?」
「え?いいけど……今から?」
「ああ、ちょっと待っててくれ」
そう言って、春陽は席を立ってしまった。
「あ、ちょっと春陽?」
「大丈夫よ、美優」
麻理が美優に微笑みかける。
「麻理さん……」
美優には何が何だかわからなかったが、とりあえず大人しく春陽を待つことにした。
といっても、待つ、というほど時間はかからなかった。
カウンター席に座る女子高生を連れて春陽はすぐに戻ってきたから。
(あれ?あの子……)
その女子高生の顔に美優は見覚えがあった。
オープンキャンパスのときに春陽と一緒にいた女の子だ。
「姉さん、彼女は雪愛。白月雪愛。その、付き合ってる彼女だ」
(この子が……!)
もしかしたらと思ったが春陽が名前を言った瞬間はっきりした。
「オープンキャンパスで一度お見かけしたんですが、あのときはご挨拶もできずすみません。はじめまして、美優さん。白月雪愛です。春陽くんにはいつもお世話になっています」
「あ、いえ……。はじめまして。橘美優よ」
「実はさ、今日姉さんと話すことができたのも雪愛のおかげなんだ。もう一度話した方がいいって背中を押してくれて」
「そうだったの……。ありがとう、雪愛さん」
「いえ、そんな。私は何も……。それと私にさん付けなんてやめてください。美優さんは春陽くんのお姉さんなんですから」
春陽の姉だから、雪愛の言うその理由に思わず美優に笑みが浮かぶ。
「そう?なら、ありがとう、雪愛ちゃん。これからよろしくね?」
「はい!」
春陽が美優に会うと雪愛に話した日、雪愛のしたお願いがその場に自分もいさせてほしいというものだった。
雪愛は自分が言いだしたことのため、どんな結果になるか心配だったのだ。
万が一、美優との話がうまくいかなかったときには春陽に寄り添いたいと思っていた。
実際は最高の結果になったようで、雪愛は心から嬉しかった。
カウンター席に座っている間、ずっと緊張状態だった雪愛はようやく肩から力を抜くことができたのだった。
麻理が仕事に戻り、挨拶だけでと雪愛は遠慮したのだが、美優が話してみたいと言ったため、今は三人で話している。
ほぼ初対面の二人だ。
緊張感のある場になるかと思いきや、雪愛と美優はお互いのこと、そして共通の話題である春陽のことで盛り上がっていた。
これまでのことや今は文化祭のこともあり話題は尽きない。
二人とも笑みを浮かべており実に楽しそうだ。
自分が話題にされる度、春陽の方が居心地の悪さを感じていた。
そうして話していたところ、美優が気になっていたことを訊いた。
「二人ともなんだか顔色が良くない気がするんだけど、何か悩み事でもあるの?」
春陽のことは最初自分と話すから緊張しているのだと思ったが今もあまり変わらないのでどうやら違うみたいだし、雪愛も楽しそうではあるが、なんだか疲れて見えたのだ。
突然の美優の言葉に、春陽と雪愛は互いに顔を見合わせ苦笑を浮かべてしまった。
悩み事、と言われて思い当たることがあるからだ。
「実は――――」
春陽は今学校で自分達二人を取り巻く状況について簡単に説明した。
「けど、いい解決策がなくて……」
春陽の話を聴いて、美優は二人を悪く言う生徒に怒りを覚えたが、そこはぐっと堪えた。
今はそんなことよりももっと大切なことがある。
「春陽、そういうことなら簡単に解決できると思うよ?」
「え?」
美優は一度雪愛を見て、大丈夫、と言うように笑みを浮かべると、春陽に自分の考えを話すのだった。
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