第4話 仲良くなりたい

 雪愛の家を知らない春陽は、雪愛の歩く方向へ横に並んで歩いていた。

 駅とは反対方向に向かっているので、どうやら駅と自宅の間にフェリーチェはあったらしい。春陽の住むアパートとは真逆の方向だった。

 フェリーチェを出てから二人に会話は無かったが、沈黙に耐えかねたのか、先に口を開いたのは春陽だった。

「……同級生だってこと黙ってて悪かった」

「ううん。でもどうして知られたくなかったのか聞いてもいい?」

「…あんまり学校のやつと関わりたくなかったんだ。平穏な学校生活のために。一人でいる方が楽だから」

「…じゃあ、どうして助けてくれたの?」

「……自分でもわからない。考えるより前に身体が動いてた、としか言いようがない」

「そうなんだ…」

 麻理も言っていたが、春陽は優しいのだろうと雪愛も思った。関わりたくないと言いながら助けてくれたり、今も無意識なのかもしれないが、自然と車道側を歩いてくれている。

 雪愛はもっと春陽のことが知りたくてさらに一歩踏み込んでみた。

「あの…クラスとか名前とかは教えてはもらえない?」

「?麻理さんから聞いてるんじゃないのか?」

「ううん。麻理さんから聞いたのは同級生だってこと――後は、以前あそこに住んでいたってことかな。だから教えてほしいの」

「……それなら別に良くないか?学校でわざわざ話したりすることもないだろうし」

「よくない!全然よくないよ。私は…私はもっとハルくんと仲良くなりたい」

「??どうして?白月って確か男が苦手とかって噂あるだろ?あれ違うのか?」

「っ!?…それは本当…。でもね!ハルくんは全然嫌な感じがしなくて―――っ」

 それどころか春陽と話しているのは心地よくすらあるのだと言葉にはせずに済んだが、雪愛は言おうとしてしまった言葉を自覚し、顔に熱が集まるのを感じた。今が夜でよかった。きっと今の自分の顔は真っ赤になっているだろう。


 春陽はなぜ雪愛がこんなに自分のことを知ろうとするのかわからない。どうやら雪愛の噂は本当で、自分は嫌ではない、ということはわかった。だが、どうしてそれが仲良くなりたい、になるのか。嫌な感じがしないだけで自分も雪愛の苦手な男なのだ。仲良くなろうとなんてしなくていいはずだ。助けられたことに負い目でも感じているのだろうか。それなら仲良くしようとするのではなく、こちらの言い分を聞いてほしい。それに雪愛と話している陰キャな自分の構図を考えると他の男子生徒にも女子生徒にも見られたくない。反応が怖すぎる。

「店に来るなら、そこで会うこともあるだろうし、それでよくないか?」

 春陽はわからないからこそ雪愛の言葉を否定してしまう。

 雪愛は自分の言葉が全く伝わっていないと感じ、もどかしくなった。なぜこんなにも関わりを拒絶するのか。知りたい、もっと春陽のことが知りたいと雪愛の中でその気持ちは大きくなっていった。

 しかし、同時にここで何を言っても春陽は答えてくれないだろうとも思う。もう少しで家にも着いてしまう。

 だから、雪愛は決めた。

 別に本人に聞く必要はないのだ。各学年八クラスもあるから大変だが、の教室を見に行って春陽を見つけるくらいできるだろう。春陽は関わりたくないと言っているが、この容姿ならクラスでも目立っているはずなのだから。

 そして、堂々と話にいけばいい。

 そう決めたら雪愛の心はすっと軽くなった。

 足を止めて春陽と向き合うように立つ。

「それだけじゃ嫌だけど。今はわかったと言っておくわ。そこが私の家だからここまでで大丈夫。今日は本当にありがとう。助けてくれたことも送ってくれたこともうれしかった」

 雪愛が示した先には大きな二階建ての家が建っている。あれが雪愛の家のようだ。

 今はわかったという言い方に疑問も浮かんだが、これ以上関わることも無いだろうしまあいいかと春陽は深く考えることはなかった。

「いや、大したことはしていないから。それじゃあここで」

 雪愛はそれじゃあと言うとそのまま家の方に歩いていった。

 春陽のいるところから雪愛が見えなくなるまで見送ったところで春陽はしみじみと呟いた。

「今日は本気で疲れた……」

 春陽はとぼとぼとした足取りでアパートに帰るのだった。


 家に入った雪愛はリビングに灯りが付いていることに気が付いた。

 どうやら母はすでに帰ってきているようだ。

 リビングの扉を開け、母にただいまと声をかけた。

「おかえりなさい、雪愛。遅かったわね」

 雪愛の母、沙織さおりはソファーに座ったまま、入ってきた雪愛に顔を向け言った。どうやらお風呂上りでハーブティーを飲みながらテレビを見ていたようだ。

 沙織と雪愛はよく似ている。髪は肩のあたりまでと雪愛よりも短いが、スタイルもよく、二人が並ぶと姉妹に見えるほど若々しい。とても高二の子供がいるようには見えない。二十代半ばと言っても誰も違和感を覚えないだろう。


「母さんこそ思ったより早く帰れたのね。お仕事お疲れ様」

「ええ。クライアントの都合が悪くなったみたいでね。よくあることだわ。雪愛はご飯食べてきたのよね?何食べてきたの?」

「今日はね、前から行きたかったフェリーチェでオムライス食べてきたの。すごくおいしかったよ」

「っ!?…そうなの。あなた前から行きたがっていたものね」

「うん!他のもおいしいって言ってたしまた行きたいなって。今度は母さんも一緒に行こ?」

「そうね。都合がつけば一緒に行きましょう。さあ、あなたも早くお風呂入ってきちゃいなさい」

「はーい」


 そして、雪愛はお風呂に入り、ピンク色のパジャマに着替えた後、沙織と一緒にハーブティを飲んで、寝る準備を整えてから今自分の部屋にいる。

 雪愛の部屋は女の子らしい綺麗な部屋で掃除も行き届いているようだ。


 ベッドに横になりながら雪愛は今日のことに思いを馳せていた。

 その中心は、

(ハルくん……)

 春陽のことだった。


(どうしてこんなにも気になるんだろう……)

 出会いは確かに劇的だった。

 男たちに囲まれ逃げられない状況で、誰も助けてはくれなくて、そんな中で颯爽と現れて自分を助けてくれた。

 けれど、それだけならば感謝こそすれ、ここまで気になるものだろうか。


(同じ名前のと重ねてしまってるのかな……)

 『ハル』という名前を聞いた時に、雪愛の頭に一瞬過ったのは事実だ。雪愛は今でも大切な思い出である五年前の『ハル』と出会った日のことに思いを馳せた。


(もう五年も前になるんだなぁ。もう一度会いたくて何度も公園に行ったっけ)

 ハルの顔などは朧気になってしまったし、話したことももうほとんど覚えていない。自己紹介もしたはずだが、すぐにハルくんと呼んでいたためそちらの印象が強く思い出せない。だが、父を亡くして悲しみを堪えていた自分に母と一緒に泣くっていうアドバイスをくれたこと、手を繋いだこと、髪留めをくれたこと…何より優しかったこと。あの時の胸がポカポカする感じや嬉しかった気持ちは今でも確かに覚えている。


 もしも、再び出会えていたら、雪愛はそれが初恋であったと気づいたかもしれない。しかし、淡すぎる想いは、その後会えなかったこともあり、育っていかず、そのまま綺麗な思い出となってしまった。

 その後の雪愛はどんどん男性が苦手になっていき、告白をされることはあっても自身の恋とは無縁だった。だから雪愛はまだ恋をしたことがない。


 雪愛は机の一番上の引き出しに目を向けた。

 そこには、ハルからもらった髪留めが今も大切に保管されている。


(あのアドバイスのおかげで、その夜は母さんと二人でいっぱい泣いたっけ。けどそのおかげで母さんと二人で悲しみを乗り越えられた)


 どうしても当時を思い出すと次々と思考が当時のことに占領されていってしまう。それほど雪愛にとっては今でも大切な思い出だ。


 けれど、過去の『ハル』と今日出会った『ハル』を重ねているという訳でも無さそうだと雪愛は自身の推論を否定した。

 二人が同じなのはその呼び名だけで、記憶の中の『ハル』とは印象が随分違う。一人が楽とか他の生徒と関わりたくないとか、今日出会ったハルは他人との関わりを避けている。記憶の中の『ハル』にそんな印象はない。


 結局気になる理由は雪愛自身わからないまま、あらためて、明日学校で彼を見つけたらなんて話しかけようか、なんてことを考えながら雪愛は眠りにつくのだった。




 雪愛が小学五年生の頃、父の洋一よういちを事故で突然亡くし、葬儀などで沙織が慌ただしく動き回り、ようやく周囲が落ち着き始めた辺りだったか。家では気丈に振る舞い泣いてる姿も見せない沙織に、いつまでも自分ばかりが悲しんでいるのもなんだか悪い気がして、家ではなく公園で悲しみに暮れていた時、公園に遊びに来ていた当時の同級生の男の子たちに見つかり話しかけられ、心無い言葉をぶつけられた。

『親父なんてすぐ怒るしいない方がいいじゃん!羨ましいくらいだぜ』

『そうだぜ。すぐ勉強しろばっか言うしな。すっげーうぜぇ』

『死んじゃったもんはしょうがねえじゃん。泣いたって生き返るわけじゃないんだし!』

 それはもしかしたら、幼い彼らなりに雪愛を励まそうとした言葉だったのかもしれない。しかし笑いながらぶつけられた言葉は雪愛には追い打ちのようにしか感じなかった。今思い返してみても、その男の子たちはデリカシーの欠片もなかったと雪愛は思う。この時のことが男性を苦手に感じるようになった始まりだったかもしれない。

 目に涙を溜めながらそれでもそれを溢さないように必死に体に力を入れ、耐えていると、突然大きな声が聞こえた。

『お前ら!女の子一人に何やってんだ!』

 それは同じ年くらいの男の子だった。

 彼は一度家に帰ったのか、ランドセルは持っていなかった。

 何だよお前、お前には関係ないだろ、という男の子たちだったが、

『この子泣いてるじゃないか!お前らが泣かせたんだろ!』

 その子はすごい剣幕で言い返していた。

 外から見たら、一人の女の子を囲む三人の男の子の構図は完全にイジメているようにしかみえなかった。

 自分達が雪愛を泣かせた、ということに同級生の男の子たちは後ろめたくなったのか、学校で先生にでも報告されれば怒られると思ったのか、ブツブツとその男の子に文句を言いながらその場を離れていった。


『もう大丈夫だから』

 そう言って、その男の子は雪愛の頭を優しく撫でた。

 その手の優しさに、我慢していたものが耐えられなくなった雪愛はわんわん泣いてしまった。我慢していた反動か、涙が次々流れてきた。

 その間もその男の子は黙って頭を撫で続けてくれた。


 まだ、息がひっくひっくとなっていたが、涙も止まり、だいぶ落ち着いてきた頃、その男の子は雪愛の様子を窺うようにしながら優しい声で尋ねてきた。

『俺は――――。みんなにはハルって呼ばれてる。君は?』

 雪愛も名乗り、当時友達にゆーちゃんと呼ばれていたからそうハルに答えた。

 いくつか他愛のない話をした後、ハルは意を決したように訊いた。

 

『ゆーちゃん、その…何があったのかって聞いても大丈夫か?言いたくなかったら言わなくていい。ただ人に話すだけでも楽になるっていうからさ』

 ハルの頭に真っ先に思い浮かんだのはイジメだった。



 その言葉に雪愛は少し迷った末、自分の思いをポツポツと話し始めた。

 父親が突然事故で死んでしまったこと。母親は全然泣いていないこと。自分ばかりが悲しんでいるのがなんだか母親に申し訳なくて、今日もこの公園で悲しみに暮れていたこと。そこで、同級生の男の子たちに余計悲しくなる言葉を言われたこと。

 わんわん泣いた後で息も整っていないということもあり、雪愛の話はたどたどしかった。

 けれど、ハルは最初こそ驚いた顔をしたが、相づちを打つだけで、黙って雪愛の話を聞き続けた。

 雪愛が言いたいことを言い終わり、一息吐くと、そこでハルが、そっかと言ってまた雪愛の頭を撫でた。

『お父さんのこと大好きだったんだな。そりゃ哀しいよな』

 同情してくれているのか、そう言ったハルの顔はひどく哀しげだった。

 その言葉に雪愛はうん、と頷き、けど、と続けた。母親が泣いたりしないで、いつも通りにしているのに、自分だけがこんな風に家でも落ち込んでいて。自分も早く母親のようにしなきゃいけないのにできないのがもどかしいのだとハルに話した。

『ん~、そんな風に考える必要はないんじゃないかな?お母さんもお父さんのこと大好きだったんだろ?』

 雪愛はうん、と頷いた。洋一と沙織は本当に仲が良かった。そんな両親のことを雪愛は大好きだったし、両親も雪愛を愛し大切にしてくれていた。

『ならさ、お母さんも悲しいに決まってる。だからさ、ゆーちゃんが家で我慢するんじゃなくて、お母さんと一緒に泣いてあげたらいいんじゃないかな。きっとお母さんは大好きで大切なゆーちゃんが悲しんだまま元気がないのをなんとかしたくて、ゆーちゃんの前で泣かないように頑張ってるんじゃないのかな。二人とも悲しいのに相手のこと考えてその気持ちを隠そうとするのはきっとすごく辛いことだと思うよ』

 雪愛は思いもしなかったその考えに驚きを隠せなかった。

 いいのかな、そんなことをして。そうできたら、母とこの悲しみを共有できたら。母も悲しみを隠しながら普通にしているだけで、心では自分と同じなのだとしたら、自分は母と一緒にこの悲しみを共有して、そして一緒に前を向いていきたい。

『お母さんの気持ちをゆーちゃんが聞いてあげて、ゆーちゃんの気持ちをお母さんが聞いて。そうして、お父さんを想って二人で泣いてもいいんじゃないかな。それはきっと二人だけが分け合えるものだと思うよ』


 その後も、ハルと雪愛は色々な話をした。雪愛にも徐々に笑顔が見られるようになった。しばらく話し、陽も大分傾いてきたため、そろそろ帰らないとと雪愛はハルに言った。ハルは送ってくよと言って、目を真っ赤にした雪愛に手を伸ばしてきた。雪愛はその手を握り、二人並んで公園を後にした。


 帰り道、最初は話していた二人だったが、だんだんと会話がなくなってきていた。

 雪愛がもうすぐお別れなのが寂しくなってしまい、黙ってしまうことが増えたからだ。浮かない顔をしている雪愛には気づいていたハルだったが、どうしたらいいのかはわからなかった。

 そんな風に歩いている途中に小さな雑貨屋があった。

 その店先には髪留めが並んでいて、雪愛はついつい目を向けてしまった。わ~っと目を輝かせていると、それに気づいたハルが、ちょっと見ていこっかとお店の前へと進んでいった。

 うん、と頷き、二人でお店の前に行き、これ、すごく可愛いと雪愛は一つの髪留めを手に取った。

 値段を見ると三百八十円。当時の雪愛は毎月のお小遣いに千円もらっていた。

 学校の帰りだったため、今はお金は持っておらず、買えるわけではないが、今度お小遣いで買おうかなと考えていると、ハルがその髪留めをひょいと雪愛の手から取り、ちょっと待っててと店の中に入っていった。

 茫然と雪愛が待っているとすぐにハルは戻ってきて、

『今日ゆーちゃんに会えた記念』

 と笑って言って、その髪留めを雪愛に手渡した。

 茫然としたまま、いいの?と聞く雪愛にハルはもちろん、と言ってまた笑った。

 ハルの顔を見て、手の中にある髪留めに目を向け、もう一度ハルの顔を見て、ありがとう!と今日一番の笑顔で雪愛はお礼を言ったのだった。

 その笑顔を見て、よかったとハルは安堵の息を吐いた。


 そして再び歩き始めて少しした頃、雪愛の持っている携帯が鳴った。相手は沙織からで、帰りが遅いから心配しての電話のようだ。今いる場所を雪愛が伝えると迎えにいくということでその場で待つことになった。

 十分もしないうちに雪愛はこちらに向かってくる沙織を見つけ、ハルに母親が来たことを伝えた。

『じゃあ、俺はここで。またね、ゆーちゃん』

 ハルはそう言うと、今来た道を戻っていってしまった。

 雪愛は今日はありがとう!またね、ハルくん!と大きな声でハルの背中に向けて言葉を送った。


 その後、雪愛は何度もハルと出会った公園に足を運んだ。

 自分の通う小学校にはハルはいなかった。この辺りは、学区の境で違う学校なら会えるのは公園だろうと考えたからだ。

 最初は毎日のように。雨が降っていてももしかしたら今日こそはと思い公園へ行ったのは一度や二度ではない。

 しかし、一度も会えることはなく、だんだんと公園に行く頻度が減り、一年もすれば、足を運ぶことはなくなった。



 この日の事は現在では大まかにしか覚えていない。

 しかし雪愛にとってとても大切な思い出であることは間違いない。



『俺は橘春陽たちばなはるひ。みんなにはハルって呼ばれてる。君は?』

 当時のハルが名乗った名前を雪愛が自力で思い出すことはもうないだろう。

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