…………3-(2)

 バイトに来られなくなっても、『こもれび』はなつめの心の拠り所になっていた。カウンターでコーヒーをのんびり飲んでいると、いきなりカランとドアが開いた。思わず、いらっしゃいませと言いそうになって苦笑していると、中をキョロキョロと不審そうな素振りに、

「あれ?静流さん?」

「なつめ君!」

 鷹東の顔を見ると、カウンターの中で笑っている。

「君が来たら、教えて欲しいって頼まれていてね」

「まだいた。良かった…」

 走ってきたのか、息が上がっている。長い黒髪が肌に張り付いて、なんだか妙な色気が…。手に持っている封筒を翳しながら、なつめの隣に座る。

はじめさん、冷たいもの」

「了解」

 鷹東の意味深な笑みに、なつめは初めて鷹東のフルネームを知った。この二人の妙な関係は疑問だが、此処の隣も鷹東のセカンドハウスらしい。二人が一緒に出てくるのを何度か見たことがある。深沢よりも年上で年齢不詳、どうやらかなりのお金持ちで、店は道楽だと聞いた事がある。そういえば、バイトも皆確かオーナーと呼んでいた。深沢からもオーナーらしいという話を最近聞いたばかりだ。人の事をあれこれ詮索出来る立場でもないので、見なかった聞かなかったことにするのが一番だった。

 静流は楽しそうに、茶色の封筒から次から次へと写真を取り出すと、物色している。

「えっと…、これ!違った。あれ?これじゃあなく、こっちだ」

 A4版の写真を一枚カウンターに置いた。なつめと鷹東は思わず、覗き込んで息を飲んだ。

「……っ!」

 深沢の俺様全開の表情。細められたエロイ視線。滴り落ちる汗が今にも飛んできそうな迫力。斜めからの角度が妙にセクシーだ。はだけた胸の筋肉の盛り上がりに、深沢とのエッチの時のような吐息が耳元で聞こえそうな幻聴に、思わず我を忘れてしまった。

「なつめ君、涎が出ているよ」

「……っ!」

 指摘されて、思わず拭い掛けて手を止めた。からかわれているのだ。

 静流の前に、蓋付きのプラスチックのコップが置かれる。中身はきっとフルーツミックスだろうが。

「静流くんはコップを必ず倒すから、気を付けて」

「もう!子供扱いしないで」

 恥かしそうに頬を赤らめたが、もう一枚をカウンターにスライドしてきた。

「あっ…!」

 案の上コップが倒れる。なつめは数枚の写真を持ち上げた。

「………」

 そこに映っているのは、深沢にしだれかかるようにして、開脚したなつめだった。衣装を着ているのに、丸裸にされたような気がする。一つ一つの技がワンポーズとして、映し出されている。一八〇度開脚や倒立回転などは、なつめの得意とする柔軟性だが、静止しているのはほんの数秒だ。

 なつめの体を、愛おしそうに抱き締める深沢の切ない表情。腕一本で支えている堪えている表情。きっと一瞬にかかる重力が掛かった瞬間にでる表情だが、見事に同じものはない。一つ一つの技のポーズは動きの反動によって、ビシッと決まっている。

「凄い……っ」

 こんなふうに見たことがないので、詰めた息を吐き出した。

「静流さんって、本当に凄いな…。俺じゃないみたいだよ」

「なつめ君だよ?」

「いや、そうじゃなくて…」

 そうだ。この人と普通の会話は通用しなかった。

 鷹東はもう一つ置かれている封筒を不思議そうに見つめた。中を覗き数枚の写真を見て、驚いたように飛び上がった。ボールやスプーンが派手に落ちる音がする。もう仕事処ではないような慌てぶりだった。そんな鷹東を気にもせず、

「僕のお気に入りはこれ!」

 それはユーゴのデザインした衣装だった。

「───!」

 断然違った。同じポーズに、同じアングルなのに、衣装の持つイメージが違う。衣装の計算された角度で、なつめの体のラインがより美しく伸びる。それは完成されたところではなく、経過のような未来を描くようなイメージを持たせる。繋がれてる手を通して、深沢との一体感がより強く表れている。

「あれ?静流さん、競技会来てたの?」

「うんっ!」

「さすが、プロのデザイナー」

「この衣装を作ったのは、もしかしてユーゴ佐伯?」

「…はい」

 競技会ですれ違ったのを思い出し、鷹東は納得したように、写真を覗き込んだ。

「深沢君をよく理解しているから、出せる世界観だね」

「だから、勿体ないよね!絶対に今後の衣装は彼がいいのに。僕のモデルに対する探究心を思いっきり刺激してくるんだもん」

 興奮したように、静流が拳を握り締める。

「僕のモデル…?」

「うん!」

 静流がなつめを指差す。

「えっ、俺?モデル…?」

「うん、専属モデル。僕はなつめ君以外は撮らないから」

「………」

 助けを求めるように鷹東を見ると、申し訳ないような表情をされる。

「公開エッチとかしてくれないかなぁ」

「………っ!」

 店中に今の言葉響いたよね。頭を抱えた鷹東は大きな咳払いをした。

「どうしたの、風邪?」

 静流の天然に、なつめは一気に脱力した。


「one a two, three a four~足裏を地面から離すな」

 サンバの曲に合わせて、ステップを踏んでいく。前回の曲に比べて、今回の曲はビートが速いので爽快感はあるが、全くステップがついていけなかった。深沢に上半身を押さられて、下半身だけで踊る。ルンバやチャチャチャと違うカウントの取り方と、回転の多さにかなりの体力を使う。胸でリズムを取りながら、深沢の複雑なステップについていけない。

「先生、もう一回」

 サンバはステップによって、カウントが変わる。右へクロス、左へクロスと始終入れ替わるステップが多い。回転をしながら向き合ったホールドに戻る。方向が分からなくなり、油断したなつめは深沢にぶつかる。

「うわぁっ!」

「まったく。サンバはお前の筋肉技を入れてる余裕はないぞ」

 汗を拭うと、サンバの曲の速さに舌を巻いた。確かに、なつめ得意の柔軟性や筋肉技を入れている余裕はまったくない。止まっている時間がないのだ。回転のターンに、独特のサンバのステップ。ルーティンの段階で、まだまだこの状態なので、体に叩き込むしかない。

「ローリング・オブ・ジアームからリバース・ロール」

「………」

 なつめが一番苦手としているステップに入ると、途端に眉間に皺が寄る。カウントが変わり、上半身を深沢に預け、柔らかく円を描くように、動かす動きがなかなか馴染まない。前回の個別のステップなら楽勝だが、今回はこういったステップが多く入っていて、これをマスターしなければ、先へは進めない。余計な事を考えていると、目の前に深沢がいなくなった。

「イテッ…」

 ビシッと後ろから殴られる。

「クソッ…、もう一回!」

 まだ、深沢の歩幅に合わせられないので、深沢が大きく動く形になる。三回転回って、深沢の元からファンに開いてまた深沢の元に戻り、リバース・ロールへ入るのだが、背後から深沢に両手を掴まれ、大きく円を描くように、ステップを踏んでいく。これが自分でするのと深沢の動きに合わせるのでは全く違う。どんなになつめの体が柔らかいといっても、他人に全体重を預けて踊るのは恐怖があった。

「…はぁ。これだけはさすがに怖いよ」

「俺が動かしている訳だからな。俺の上半身に体を預けないと、怖いに決まっている。俺が仰け反っているラインまで、お前も仰け反るわけだからな」

「あぁ、そうか」

 全面鏡の前で、深沢はなつめを抱き抱えて仰け反る。ゆっくりと深沢の胸まで倒れ持たれると、全体重を預けてみる。

「…おい、こっちが限界だ」

「ごめんごめん」

 ステップをしながら、あの体勢はなかなかきつい。頭では納得したが、まだ体が慣れない。

「ま、慣れていくしかないな」

「…うん。分かった」

 汗を拭きながら、少し休憩の合図をする。冷蔵庫に飲み物を取りに行く深沢に、今日もらった写真を思い出した。ソファに座った深沢に、バックから取り出した写真を見せる。

「宗司、これ。静流さんからもらった」

「まさか、競技会のか?」

 数枚を差し出すと、深沢は意味深な溜息を吐き出した。

「こんな瞬間をよく撮っているな」

「凄いよね…、これなんて丸裸にされた気分だったよ…」

「……っ!」

 深沢に後ろから抱き締められ、悩ましい表情で口を開いているなつめの横顔は、服を着ていなかったら、セックスの時のようで、深沢は頭を抱えた。

「彼のコンセプトが伺い知れるよ」

「えっ、なに…?」

「俺たちのセックス…」

「………」

「なんだ、その微妙な間は…」

「店のカウンターでさ、静流さんが、公開エッチしてくれないかぁって呟いたんだよ。多分、店中に聞こえたんだよな。シーンと静まり返ったからさ」

「はぁあ…、オーナーも大変だな」

 その光景が目に見えるようだった。深沢は天を仰ぐ。

「そういえば、この衣装の話になってさ」

 ユーゴのデザインした衣装の写真を差し出す。店での会話を思い出した───。

 静流は苦笑いをしながら、

「やっぱり、この衣装が最高…」

「静流さんもそう思う?衣装の持つ存在って、今更ながら大きいなって」

 静流は大きく頷いた。

「それは僕も今回感じた。例えばこれ。二人の顔を隠すと、バラバラに見える。それに比べて、この衣装はそんな二人の心の繋がりまでも表現している」

 なつめは押し黙った。ユーゴが言ってた愛情や魂とはこのことだろうか。

「今までの衣装でも、一対に見えるのは、なつめ君だからだよ」

「俺だから?」

「気持ちも大事ってこと。深沢さんの世界観のなかの一凛の大輪って感じ。どちらかというと、先生の印象が強すぎて、周りがくすんで見えるんだ。でも、深沢…、うーん。深センでいい?深センは全てをかけてなつめって花を育てて、それが一瞬で開花するシーンがある。僕はそれを一瞬も見逃さない。その時のなつめ君が美しい、いや違うな…、愛おしい、うーん。被写体としては最高なんだ。僕の言葉では伝えきれないな。その片鱗がこの衣装の時には見えた。あのユーゴ佐伯が手掛けるなら、最高の衣装が出来上がる」

 普段あまり話さない静流だか、こと写真に関わる事には饒舌になる。目もいつもはとろんとしているのに、今は爛々と輝いている。

「最高の衣装?」

「あくまでも僕の意見だよ。なつめ君の衣装に関して、女性としての修正は必要ないと思っている。現状しょうがない所もあるんだろうけど。…でも、彼も深センの視線に立った花を見てる。なつめ君自身が光輝くような、そんな引き立てる衣装でないと…」

「───」

 なつめの衣装が出来上がった時、深沢はいつもどこか納得出来ないような微妙な表情をしていた。そんなに拘らなくてもいいのにって思っていたが───。

 写真を見つめたまま、深沢は苦笑いを浮かべた。

「芸術家というのは鋭いな。心のなかまでも踏み込んでくる」

 確かに、なつめの衣装には納得していなかった。ユーゴの作った衣装を見てから、蟠りはどんどん大きくなってきていた。ユーゴの衣装には、彼のいう愛情と魂が入っている。それは衣装を通して、なつめの呼吸、動き、思いが共鳴し、自分の体の一部となって、その存在を感じる。まさに一対、そう思えるようなシーンが何度もあった。それは今も、あの衣装を着るときのみに起こる現象だ。

 だから、口説きに行ったのだが、あれから連絡もない。さて、どうしたものかと溜息を吐いた。片隅に置かれた封筒に手をかけると、

「あ、それは俺用…」

「俺用…?」

 聞捨てならない言葉に、嫌な感じしかしない。

「うん。おかず用にって…」

 静流に耳元で囁かれた言葉を深く考える事もなく、呟いていた。深沢は眉間に皺を寄せると、黙ったまま、静かに封筒のなかを覗いた。

「───!」

 凄いショットばかりだった。こっちは必死で踊っているのだ。時々、ヤバいなと思った絡みや手淫はどうしようもない時があるが、一瞬の事なので上手く誤魔化したつもりだった。静流のニヤッと笑った顔が、カメラ越しに見えた気がした。

「違う意味で怖いな…」

 なつめは開脚したまま、深沢に体を預ける事も多い。より濃密な絡みはしょうがない。が、これほどまでとは思わなかった。軽いショックを受けながら、今後の絡みに抵抗が出そうだと大きな溜息を吐き出した。

「…で。これを見て、お前は何をするつもりなんだ。意味分かっているか?」

「えっ…」

 驚いた表情に、やはりと大きな溜息を吐き出した。

「お前におかずはいらないだろう」

「………!」

 そういう意味?と、思わず真っ赤になったなつめに、呆れた視線を向ける。

「さて、出来るまで続けるぞ。出来なかったら、今夜のおかずはそれだな」

「…っ……!」

 目を見開いて、深沢を睨みつける。深沢は可笑しそうに笑った。

「お前は、昼も夜もノルマが沢山あるな」

 ムッとしているなつめの唇を軽く奪う。

「早く家に帰らないと寝る時間が無くなるぞ。なんせ、夜のレッスンもあるからな」

 なつめは飲み干したペットボトルを投げつけた。


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