第3話 ユーゴ佐伯(1)
目の前の霧が晴れない。もう何年もずっと暗闇のなかを歩いている気がする。好きで始めた仕事であったが、以前のような情熱もなく、淡々と仕事を熟していく毎日。ふと窓から、青い空を見上げた。
「…良かったなぁ」
自分が作った衣装があんなふうに輝くとは思わなかった。久しぶりに感じた満足感だった。
「そうだ。なつめ、明日開けておいてくれ」
「えっ?」
キッチンでサラダを作っていたなつめは、不思議そうに深沢を振り返った。リビングの二人掛けのソファに、気怠そうにだらしなく転がり、首だけをこっちに向けている。黒髪に深く整った顔立ち、女性が喜びそうな甘いマスクは、緊張感もなく、疲れた表情をしている。プロのラテンダンサーだけあって、鍛え上げられた体は、だらしなく転がっていても、筋肉の盛り上がりを目で追ってしまう。
「………」
深沢の胸筋が大好きななつめは、ふらふらと引き寄せられるように、サラダボールを抱えたまま、腹の上に跨いで座る。
「何かあるのか?」
起き上がると、首を傾げるなつめの腰を引き寄せた。サラダボールの中を覗き、プチトマトを摘まんで食べる。
「あぁ、ユーゴの所に行くのだが、一緒に行かないか?」
「ユーゴって?あんたの衣装を作っている人?」
「あぁ、次の衣装の相談もしたいし、そろそろ会いに行かないと、奇襲攻撃をかけられる」
深沢が三カ月に一度くらいの頻度で、定期的に会いに行っているのは知っていた。赤毛に綺麗にパーマをかけ、濃紺のバンダナで落ちてくる髪を止めていた。派手な衣装に、深沢と変わらない長身、遠目で何度か見たことがあったが、深沢の体を遠慮もなくベタベタ触っていた。
「まさか…」
「ないな…」
疑るような視線に、深沢は間髪入れず答えた。思わず吹き出して笑っている。深沢の口の中にまたプチトマトが数個消えていった。
「なぜ?」
「会えば分かるさ」
むむ…と頬を膨らませたなつめにキスすると、
「あっ!全部なくなっている」
プチトマトだけがない。サラダボールを取り上げ、サイドテーブルへのせる。なつめの体をソファに押し倒した。天井を見つめたなつめは、大きな溜息を吐く。
「さっきまでダラダラしてたくせに…」
「悪いな。解禁日には遠慮はしないって決めているんだ」
ショーダンスへと転向するに辺り、二カ月間の調整が必要になった。雛元財閥のエンターテインメント部が開設され、ホームページに宣伝されているのを見て、深沢となつめは唖然とした。
ショーダンスの依頼が週末に集中しているので、金曜から日曜日までが仕事になっている。最近の二人の生活は、月曜が休みで、火曜から木曜までが教室の運営にあたっている。深沢の教室は、新しいスタッフが加わり、深沢が不在でも経営できるようになった。以前ほどのハードさは、精神的にも肉体的にもなかった。
ショーダンスの前は、お互いに体に気を付けているため、なつめの体の負担を考えると、月曜から水曜までが解禁日になっている。
「なつめ…」
深沢の囁き声が甘く掠れる。熱が伝染したように、体の中から熱くなる。
「宗司…、っ…あぁ」
唇を噛み締めながら、深沢の胸板に顔を埋める。もう止まらない。
「此処…?」
なつめは二階建ての洋館を見上げた。広々と整備された庭園のなかに、悠然と立つ洋館は美しい。タクシーを降りて、見上げる門扉が自動で開いた辺りから、なつめは呆然としたまま固まっている。なつめの肩を抱いて、
「ユーゴのお父さんは外交官だったからな。こんな大きな屋敷に、執事と乳母の三人暮らしなんだ。贅沢だろう?」
「俺より、金持ちのお前に言われたくない」
憮然とした表情で、ユーゴが玄関側に立っていた。深沢と変わらない身長、長い茶色の髪を一つに束ねている。母親がフランス人なので、その容姿を色濃く受け継いでいた。整い過ぎている顔立ちは笑みも浮かべていない。
なのに、深沢は可笑しそうに笑っている。
「元気だったか?」
「あぁ、それよりこいつは?」
指刺されたなつめはムッと睨みつける。二人の睨み合っている様子に、深沢は頭を掻いた。
「俺のパートナーだ」
ユーゴは目を見開いた。
「今、なんて言った!俺のって言ったか。新しいじゃなく」
「あぁ…」
ユーゴは押し黙った。なつめを睨んでいた視線を、深沢に向け、そのまま抱き付く。
「宗司、宗司…」
「あぁ…」
深沢は笑いながら、大きなユーゴの頭を撫でている。その光景を見ていたなつめは、怒りで目を吊り上げた。
「………」
クルッと背中を向けると、
「なつめ…」
深沢の呼ぶ声に、思わず立ち止まる。
「帰ってもいいぞ…」
笑っていうユーゴに、唇を噛み締めた。深沢の側により、何も言わず見上げると、温かい視線は変わらない。ユーゴに肩を抱かれて促されて歩き出すが、右手をなつめに差し出した。ユーゴはそのまま、深沢の横顔を盗み見るが、
「………」
ずっと差し出されたままの手に、走ってその手を強く掴む。いつも自分に差し出される大きな右手。その温かさを感じ、なつめは笑みを浮かべた。ユーゴに肩を抱かれ、なつめと手を繋いだ光景は、飼い主を奪い合う犬のようだと、乳母は笑いながら窓から見ていた。
広いリビングルームで優雅にコーヒーを飲んでいた深沢は、ユーゴとなつめを見ていた。なんとなく合いそうな気がしたのは、気のせいだったろうか。牽制し合っているようだが、今日此処に来たのはもっと大切な用事があるからだ。ユーゴの顔を見つめ、ずっと思っていた事を言ってみた。
「ユーゴ、衣装を頼めないか」
「お前のなら、作っているじゃないか」
「………」
ユーゴが苛立ったように睨んだ。数年前から仕事の話になると異常に反応する。分かっていて、話を逸らしている。
「なつめの衣装を頼みたい…」
「…嫌だ」
この返答も予想していた。
「俺は、宗司が大好きだから、服を作っているんだ。仕事でならごめんだ」
「あぁ、よく分かっている」
ユーゴは男性専門のデザイナーだ。十代の頃に奇抜の新生児とまでいわれた売れっ子だった。時代が変われば、求められるものもどんどん変わっていく。それはダンスの世界でも同じ事だ。年を重ねれば重ねていくほど、同じ居場所にいることの難しさを感じる。それでも長年、深沢の衣装は楽しそうに作ってくれていた。ユーゴの衣装は、動く易いうえに独創性に飛んでいる。今まで仕事として依頼したことはなかった。
「それでも、あれは良かった」
「……!」
ユーゴの目が見開かれる。視線を逸らしたユーゴに、深沢は真っ直ぐに見つめ、思ったままを伝える。
「俺は、お前以外に衣装を頼むつもりはない」
「ずるいよ…」
ユーゴの眉間に皺が寄り、辛そうな表情を見せる。何年もスランプなのは知っている。仕事に苦痛を感じていることも、自分のスタジオにも行かなくなり、この家に籠っている事も───。
だが、なつめ本来の美しさを表現できる衣装は、ユーゴ以外出来ないと確信している。この様子だと、長期戦だなと苦笑した。
「あれ、なつめは何処行った?」
「あいつならちょっと前に出て行ったぜ。帰ったんじゃないか?」
意味深に笑っているユーゴに、大きく首を横に振った。
「怒って帰っているなら、あの時に既に帰っている」
窓の外を眺めると、乳母と庭で楽しそうに話をしている。その笑っている幼い顔に、思わず笑みが溢れ出る。
「なぁ、宗司。本気なのか」
「どちらも本気だが…。俺が今まで冗談を言ったことがあるか」
「………」
「なつめは大切なパートナーだ。だから、お前に頼んでいるんだ」
ユーゴはソファに深く座り込む。拗ねたように大きな溜息を吐き出し、天井を見上げる。
「俺は宗司が大好きなのに…報われないな」
寂しそうに言うユーゴに、その肩を優しく叩く。
「お前は、俺の大切な親友だ。それはこれからも変わらない」
「当たり前だ」
ユーゴの縋るような目に、その頭を優しく叩く。
ユーゴとの関係はちょっと変わっているが、彼が精神的に崩壊した時、側でずっと支えたのは深沢だった。確かに、付き合っていた時期もあったが、壊れるような関係を作りたくないと二人で相談して決めた。だた、精神的に参ってくると、深沢に甘えなければ立ち直れない。深沢もそれを分かっているから、好きなようにさせているし、定期的に様子も見に来ている。
「………」
ユーゴは拗ねて、ソファに転がっている。深沢は肝心ないことを言い忘れていた事を思い出した。
「そうだ…、競技へはもう出ないんだ」
ユーゴの表情が険しくなる。
「どういうことだ?俺は何も知らないぞ」
詰め寄ったユーゴに、大きな溜息を吐き出し、これまでの経緯を話していく。ずっと難しい顔をしていたユーゴは話が終わると、
「俺は何も聞いてないぞ!この前のパーティだって、熱で行けなかったんだ。それなのに、お前の競技会最後の舞台も観れなかったのか!」
「……観ていただろう」
「…ち、バレていたのか」
視力のいいユーゴは、会場の一番上の見渡しいい場所にサングラスをかけて、いつも立っている。自分の作った衣装を着て踊る深沢を見る事だけが楽しみだった。
「でも、最後だなんて…」
録画しておけば良かったと、ガックリと肩を落とした。完全に落ち込んでしまったユーゴに、大袈裟だと思いながらも、気持ちが復活するまで待つしかなかった。
「それで…」
自分でコーヒーを淹れていた深沢は、やっと動いたユーゴにコーヒーを差し出した。ゆっくりと飲み始めた様子を見つめ、今後の話を始める。
「今まで通りの教室と、週末はショーダンスの仕事を始めたばかりだ。一年先まで予約でびっしりだ。俺は、なつめに女装をさせたい訳じゃない。なつめがより輝く衣装を、お前なら作れると思っている」
今頼んで作ってもらっている衣装は、理想に近い仕上がりになっている。だが、どうしても基本が女性のラインのため、そう見えてしまう。ユーゴが作る深沢の衣装との調和も取れない。創作上の一対感がない。それはあれを見てしまったからだが、最近の悩みの種になっていた。
「俺以外に、お前のダンスの創作を表現できるものなんているもんか!」
偉そうに高笑いをしている。
「…だろう?」
「………」
墓穴を掘ったとばかりに押し黙る。それでも、難しい顔をしているが、興味がない訳ではないようだ。ユーゴは好き嫌いははっきりしているし、言いたいこともはっきりと言う。こんなふうに話を聞いているのは、心が傾いているからだ。
そう何かを直感で感じている。
「でもな…」
何か言い訳が必要なのか。
苦悩している時の癖である、頭を掻き始めた。天井を見上げ、何かを考えている。こうなれば、あと一押しなのだが。
「………」
窓の向こう側では、テラスでなつめが何かを真剣に見ている。深沢は笑みを浮かべると、近くのドアを開けて、なつめの側に寄っていく。テーブルの向こう側には、小さな椅子に座った乳母の
「宗司様、いつもボンの面倒を有難うございます」
「百々さんも大変ですね」
「百々は、慣れてますから…」
「なにを失礼な会話してるんだよ」
なつめの隣に座ると、机の上に広げた写真を見る。ユーゴのデザインした服だ。百々が持ってきたのだろう。ネットでも見れるし、今更興味もなく、ユーゴは視線を逸らした。
「ユーゴさんって、凄いデザイナーなんですね」
「当たり前だ」
なつめは一枚の写真を選んだ。
「やっぱり、宗司が一番いい男だ」
「まあな…。俺の愛情がこもっているからな」
「ふーん」
なつめの気のない返事に、眉間に皺を寄せた。
「だがな、全部俺の魂のこもった…」
ユーゴは高々に言い掛け、言葉を止めた。今の作品に魂が入ってるか。自答してしまった。
「………」
「俺さ、服ってあんまり拘らないんだけど、あんたの作品って、なにかいいな」
写真を真剣に見ているなつめを睨みつけた。
「なにがいいんだよ…」
なつめはちょっと考えると、
「よくわからない」
「あぁ?」
怒りで立ち上がったユーゴを、深沢が苦笑いを浮かべながら、抑えて座らせる。
「…でも、あの競技会の衣装。ユーゴさんがたった三日で作ってくれたんだって聞いた。ありがとう。俺、あの衣装が一番好きだ」
「───!」
ユーゴは背中を向けた。胸のなかが何かで一杯なった。あの衣装はほぼ脅しのような形で、潤子から依頼されたものだった。深沢以外の衣装は作らない。それが俺のポリシーだって突っぱねた。だが、悲しい話高額な依頼料に負けた。
潤子から差し出されたDVDを見た瞬間、二人の衣装が閃いた。ただ何も考えることなく、徹夜で作ったものだ。必死過ぎて、はっきり言って何も覚えていない。ただ、純粋に楽しかっただけだ。
あの会場で自分がデザインした衣装が、こんなにも輝いた事に、正直衝撃を受けた。
『俺ってやっぱり天才じゃん。惚れ惚れするわ』
思わず、涙が溢れそうになった───。
横目で深沢を見ると、穏やかに笑っている。腹の内を読まれたようで釈然としない。
「俺も、お前の衣装は好きだし、凄いって思ってる」
「今日は何日だ。誕生日でも、そこまで持ち上げないだろうが」
耳まで真っ赤になりながら、ユーゴが立ち上がってうろうろする。
「今日はお前を褒める日だからだ」
「なんだそれ!訳が分からない」
「全く素直じゃないこと…」
百々の呟きに、ユーゴはキィィと地団駄を踏んだ。
「あぁ、お二人はお食事していって下さいね。どうせ、ボンは食べたくないそうなので…」
「食べるよ…」
「それも珍しい…」
渋い顔をしているユーゴの背中を叩きながら、テラスで豪華な食事をお腹一杯食べた。
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