…………2-(2)


 新しく買ったマウンテンバイクで、爽快な走りを楽しんでいたが、心が晴れない。深沢のマンションから自宅へ帰り、半年前と変わらない生活に戻っただけだ。

「………」

 深沢がいないもどかしさに、溜息を吐き出した。自転車を駐車場に置き、玄関のドアの前で立ち止まる。

 …会いたいな。

「あれ?なつめが帰っている」

 思わず振り返ると、従兄の優美が立っていた。髪型さえ違うが、父親が双子なだけに、作りは良く似ている。そういわれる事をなつめは極端に嫌っていた。

「優美か…。何かようか」

「相変わらず、口が悪いわね」

「お前にだけは言われたくない」

 優美のほうが数段口も性格も悪いのだ。

「へえ~。深沢先生と同棲していたんでしょ?…別れたの?」

 外れてもいないだけに、イラッと来る。

「逃げ足だけは早いものね」

「………」

 鼻で笑われカチンとくる。逸らした視線に、優美は抱えている衣装をスッと背中に隠した。それに内心笑みを浮かべると、

「お前、何年脇役だよ。少しはセンターで踊れよ」

 優美の表情が一瞬にして固まる。昔はセンターを独占していたが、最近四歳年下の後輩に場所を奪われてしまっている。なつめに言われると余計に腹が立つ。

「それより、あんたの深沢先生を紹介して…」

「なんでだよ」

「だって、なつめは振られたんでしょ?なら、次が必要でしょ?」

 振られたって言葉が胸に突き刺さる。

「んなわけあるか。次の競技会…」

 言いかけて、思わず押し黙った。いつもの優美の手に引っ掛かってしまった。優美の目が鋭くなる。

「当然、競技会に男の、なつめは連れていけないわよね。そうパートナーを探しているの」

 態々、男を強調していうところが気に食わない。

「おい、お前には無理…」

 優美は見下ろすように、なつめを睨みつける。

 その目は、昔から変わらない。バレエで注目を浴びれば浴びるほど、優美の辛辣な言葉が、なつめの心を抉った。今でもあの時の言葉は忘れられない。

『どうして、男のくせに、みんなにちやほやされて喜んでいるの。気持ち悪い。なつめなんて、居なくなればいいのに』

 なつめは視線を逸らした。

 優美はそんななつめの態度に笑みを浮かべる。

「深沢先生って、セクシーだわ。あんないい男、あんたには勿体ない」

 いつもなら、このまま何も言わず相手にしないが、優美を睨み返していた。

「深沢は、俺のものだ…」

 今までと違う真剣な眼差しに、優美は思わず一歩後退ってしまう。

「なら、賭けない」

「なにを…」

「深沢先生を落としてみせるわ」

「やれるものならやってみろ。ただし、深沢を傷つけてみろ。お前を一生許さないからな」

 歯ぎしりをして、なつめを睨みつける。

 なつめと別れた後、優美は美容院に向かい、長い髪をなつめと同じ長さまでばっさりと切った。


 久しぶりに『こもれび』で、深沢は一人コーヒーを飲んでいた。鷹東に呼び出されたのもあるが、部屋に一人でいることに、疲れた所為もある。

「お疲れのようですね」

 苦笑いを浮かべながら、コーヒーを飲み干す。

 鷹東はそれ以上何も言わず、そっと傍らに立つ青年を紹介した。

茅野静流かやのしずるといいます」

 細いラインに何処か不思議な謎めいた印象を受ける。目鼻立ちのはっきりした綺麗な顔に、長い黒髪を束ね、スレンダーな容姿は、もう少し身長があれば、モデルでも通用しそうだ。

「この前のパーティは素晴らしかったです。いい目の保養をさせて頂きました」

 鷹東に頼まれて、チケットを数枚用意したが、誰が来るのかはまでは知らなかった。静流は鷹東の顔を見ると、笑って大きく頷いた。

「これを見て頂けたらと思って…」

 差し出されたA4の白黒の写真を数枚見せられる。何気なく視線を落とした写真を見て、思わず言葉が出なかった。

「……っ…」

 深沢となつめのダンスを撮ったものだった。激しく絡み合った肉体、なつめの開脚した足のラインの美しさ、汗と熱気が伝わってくるようだ。なかでも、なつめの表情に目が釘付けになる。

「他にもあるかな…」

 目の前に座っている静流に尋ねると、にっこり笑って数十枚を出した。

「………」

 彼の写真の撮り方が上手いのだろう。カラーではなく、白黒だからより情感が伝わる。なつめはこんな顔で踊っていたのか。改めて、なつめの思いを再確認した。

「茅野くん、専属で撮って欲しいくらいだ。これは凄いね」

 笑っている静流に、側に寄ってきた鷹東が、コーヒーのお替りを持ってきた。

「彼は茅野一命かやのいちめいの忘れ形見です」

「あの写真家の?」

「ええ…。ですが、今は気に入った白黒しか撮らないうえに、人見知りが激しくて、仕事には向いていません。深沢さんと新藤くんの場合は、自分から撮りたいと言い出して…。お二人の演技だけ見させてもらいましたよ」

 それで来たことすら、知らなかったのかと納得した。普通の写真を撮るのかと了解したが、まさかこんな写真を撮っていたとは───。

「これとこれの二枚の写真を引き伸ばして、店に張ってもいいか、許可を頂きたくて、お呼びしたんです」

「構いませんよ。出来れば、この数枚も引き伸ばしてもらえないかな。代金は払うから…」

 首を横に振る静流に、鷹東は笑いながら、

「今回はいいですよ。もしも良かったら、お二人の専属にしてやって下さい」

 そんなの無理だよと、大きく首を振っている静流に、鷹東は頭を撫でながら、

「もっと自信を持ちなさい。もう少し下界に降りないと…」

 静流は小さく頷いた。

 深沢は静流に手を差し出した。冗談でもお世辞でもなく、彼の腕は確かだ。今回依頼したカメラマンの出来栄えよりも、こっちのほうが遥かに数段上だ。

「次回から宜しく」

「えっ、あっ、ほんと?有難うございます。宜しくお願いします」

 あまりにも純粋過ぎて、思わず笑ってしまう。そんな静流を温かく見ていた鷹東は、昨日久しぶりに見たなつめを思い出す。自転車に乗って、何かを思い詰めたような顔をしていた。

「あの子は真面目ないい子です。その写真を見れば分かります。あなたをどれだけ思っているか。あの子の居場所はもうあなたの所にある。だから、帰って来るまで待ってやって下さい」

「……ええ」

 全てお見通しかと苦笑する。

 そこへ入り口のベルが鳴る。思わず視線を向けた深沢は、

「椎葉?」

「深沢、マンションにいないから、此処かと思って」

「珍しいな、お前がくるなんて」

「うん…まあな」

 歯切りの悪い返事に、深沢は頭を傾げた。

 椎葉と共にマンションに戻った深沢は、うろうろと中を見回している椎葉にソファを勧める。

「お前、此処に来るの。初めてだったか?」

「いや、玄関で帰ることのほうが多かったしな。何年も前だから、忘れたよ」

 深くソファに座ると、少しの間沈黙が流れる。

「あのさ、お前に聞いて欲しくてな…」

 そうでもなければ、態々椎葉が訪ねて来る理由が見つからない。深沢は何も言わず、黙って聞いてやるポーズをする。椎葉は何度考えても回答の出ない悩みに、

「もう疲れちゃってさ」

 珍しい泣き言に、椎葉を見つめた。

「足の状態が良くないんだ。今は医療もどんどん進んで、手術をしたら、今よりは普通に歩けるらしいんだ。…医者はそういうが、手術をして普通に歩けるまで、三か月から半年、もしかしたらそれ以上の時間がかかるかも知れない。そんなに仕事は休めないから、当然辞める形になる」

 家族にも言えず、椎葉は苦しんでいた。

「…そうか。手術したらそんなに時間がかかるのか」

「あぁ…」

 深沢は椎葉を横目で見ると、

「出来れば、手術をしたほうがいいとは思う。子供だってまだ小さいし。お前だって、これからがあるんだから。…手術の費用を助けてやることは出来るが、それ以上何もしてやれない」

 椎葉には家庭がある。その家庭を守るのは椎葉自身であって、全てを背負ってやることは出来ない。仕事がなくなる事への不安を、妻には背負わせたくないって思いが、雁字搦めになってしまっていた。安定した何かがなければ、次のステップへ踏み込む勇気がなかった。

 深沢も不安定な職種であるがため、なんの保証もしてやれない。

「…分かっている。俺が乗り越えないといけないことは…」

「お互いに厳しいな…」

 同じような心境に、深沢も溜息を吐いた。

 ふと苦笑いをした椎葉は思い出したように、部屋の中を見回した。

「あれ?なつめくんは?」

「出て行った…」

「え?喧嘩か…」

 喧嘩ならまだマシだと愚痴る。なつめとの最近の諍いを話すと、椎葉は大きく唸った。

「そうか。苦労するな、お前も…」

「俺だって、正直いうと、なつめ以外とペアを組む事に抵抗がある。それには…」

「そうだな。競技会には、出場出来ないな」

 教室運営だけで、競技会を引退するしかない。競技会での宣伝が無くなるなら、深沢の力量が試されることになる。今以上の厳しい現実が待っている。これを仕事にしているだけに、甘いことを言ってはいられない。

「でもな。ダンスを抜きにしても、なつめと一緒にいたいんだよ、俺は」

「遂に、お前も捕まったか」

 囲い者にはなりたくないって、拒絶された事を思い出す。

 溜息を吐いている深沢の肩を叩き、

「お前のことが本気で好きだから、自分以外の誰かとを見たくないんだろう。あの子の人生を変えてしまったんだから、お前の罪は重いぞ…」

 パーティでの完成されたあの演技に、深沢の苦悩を感じた。

「分かっている」

 そう言い切った深沢に、椎葉は温かい視線を送った。

 歯車はもう回り始めている。抗えばもっと自分を追い込むことになる。二人は、それぞれの責任の重さに溜息を吐き出した。


 レッスンの時間が過ぎても、なつめがやってこない。もしかして、本当にこれで終わりだと、思っているのだろうか。不安になってきた深沢は、生徒名簿のなかにある、スタッフの名簿を捲った。今まで一緒に住んで居たため、気にしたことがなかったが、なつめの実家が何処なのか知らなかった。

「……あぁ?」

 『小路台こうじだい』って呆れて言葉がない。此処から一時間以上掛かる隣町のどちらかといえば、都会の高級住宅街だ。此処は静かで落ち着いた土地の広い高級住宅街『時台ときだい』である。あんな所から通っていたのかと、苦笑いを浮かべた。

生徒のレッスンも終わり、スタジオのソファに深く座った。さて、なんて言って迎えに行こうか。

「………」

 なつめとの出会いは、深沢の人生をも大きく変えた。自分が変わったことも気がついているし、周りの反応が変わったことにも気がついている。

 独り善がりだと何人もの女たちに言われた。ダンスは、二人で踊るものよと───。だが、深沢の演技やその世界を共有出来る者はいなかった。どんなにそれぞれの演技が高度でも、完成度は低かった。

 すべてを捨てても、楽しめるダンスを追い求め、また、その為には無欲でもあった。純粋にダンスだけを楽しんでいるので、外からの吸収力は速い。それだけを考えているから、雑念も少ない。女は、深沢に責任も成功も、愛までも求めた。結果、どれひとつも手に入ることなく、深沢から去っていった。

 なつめの言葉が心に響く。

『俺は深沢のパートナーだ───』

 競技会に出場することを考えなければ、こんなにも悩まずにすんだことだ。

「…ダンス馬鹿だからな」

 これだけでしか生きて行けないくせに、何をやっているのか、分からなくなってきていた。

「俺も、営利に目が眩み出したか…。年かな」 

 自分で言って笑っていると、外で争う声が聞こえてくる。近所迷惑だなとドアを見つめていると、そのドアが激しくドアが開けられた。

「ふざけんな!」

「どっちがよ!」

 深沢はソファから立ち上がる。睨み合ったなつめとよく似た女の子を見つめる。なつめは深沢を真っ直ぐに見た。いつものなつめに笑みを浮かべた。

「来ないかと思っていた」

「あぁ、ごめん」

「いや…」

 抱き締めたい衝動を抑え込み、横に立つ女の子を見る。なつめと同じ茶色の髪の色、作りは全く一緒だが、深沢にとっては、全くの別人である。

「あぁ、確か…。この前、パーティに来て下さった方ですね」

 営業用のスマイルで話しかけたのは良いが、名前までは覚えていなかった。

「深沢先生、新藤優美です」

 満点の笑顔で挨拶され、取敢えず、ソファへと促した。深沢の隣に座りかけた優美を、なつめは自分の隣へ、強引に座らせる。不満な顔をしながらも、優美は深沢を見つめる。

「やっと深沢先生に会えて感激です!」

「それは有難う…」

 返答に困って、なつめを睨んだ。なつめは知らない振りで、ソッポを向いている。

「先生を紹介してって、頼んでも全く取り合ってもらえなくて」

 なつめを睨み付けるが、全く無視して、今度は控室へと入っていく。分からない行動をするなつめを見ていると、優美は深沢の側により、

「私、あのパーティで、深沢先生のこと、好きになりました」

「あぁ、ありがとう」

「なつめから話は聞きました。先生はパートナーを探されているって…。私なら現役のバレリーナですし、全てにおいて、なつめに引けは取らないと思います」

 その自信に満ちた言い方に、控室から現れたなつめは、無表情のまま、冷たい目で優美を見つめる。

「選ぶのは深沢であって、お前じゃない」

「私は、深沢先生のパートナーになれるって言っているの。今は、なつめの身代わりでもね」

「身代わりって…」

 なつめと全く同じ長さに切られた髪。瞳のきつさを除けば、体型も殆どなつめと瓜二つだ。だが、纏っている雰囲気があまりにも違った。

「おまえは、何考えているんだ!」

 深沢の呆れたような眼差しに、不機嫌な表情のまま、

「新しいの探しているんだろう?取敢えず、試してみればいいじゃないか」

「そういう問題か?」

「私では駄目なんですか」

 優美の呟き声に、話が余計にややこしくなったと頭を抱える。深沢は優美を見つめ、優しく説き伏せるようにいう。

「そうじゃない。ただ、ペアというのは、誰とでも組めるって訳ではないんだ」

「でも、私は深沢先生と踊りたい」

「……っ…」

 その時、深沢のなかで昔の何かが騒めいた。

『僕では駄目? 僕は宗司と一緒にいたい』

 なぜ今思い出したのか。この子は昔の記憶と重なる部分がある。深沢にとって、危険だと何かが囁く。

 深沢のおかしな様子に、なつめは眉間に皺を寄せた。

「無理なら、断ったらいい」

「うるさいわよ、なつめ」

 二人の睨み合いに、深沢は何度か踊れば気が済むだろうと、半ば諦めの息を吐き出した。

「分かった。なら、トライしてみよう。でも無理なら諦めてもらうよ」

 優美は渋々ながら頷いた。

 そんなに簡単にペアが組めるなら、苦労はしない。なんとなく、二人の意地の張り合いの、標的にされているような気がする。

 なつめが戻ってきたなら、まあいいかと───。噂は既に広がってしまっている。この身代わりの稽古の間に、色んな事を考えないといけない。

 だが、まさかあんな事になるとは思わなかった。

  

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