…………1-(4)
日曜日。なつめは『こもれび』に来ていた。気分転換も兼ねて、バイトは続けていた。あの切っ掛けから、深沢のなかで何かが大きく変わった。女性関係は全て縁を切り、今では携帯さえも解約した。今まで以上にダンス三昧になっている。深沢はまだ夢の中だろう。でも、十三時前には、空腹に耐えられなくなるのか、それとも、なつめを迎えにやって来るのか、朝食件昼食を食べにやって来る。
忙しい時間が過ぎると一息つき、カウンターから手招きしている鷹東に気付いた。なんだろうかと寄っていくと、
「今日はもう落ち着いてきたし。君はもういいから、ここでお昼食べるといいよ」
「有難うございます」
店のなかを見回すと、バイト仲間が手を上げて、笑っているのを見て頷いた。控室のロッカーから荷物を取ると、エプロンをかけておく。ここのバイトは、週一回でも居心地のいい場所だった。鷹東の人柄の所為か、それとも楽しんでやっているからなのか。早く切り上げて、お客の振りをして、食事をすることはよくある。
カウンターの席へと座ると、既に食事が用意してあった。近くに座っている常連客に、笑みで挨拶する。今日のランチメニューの残り物の組み合わせである、ピラフと唐揚げの甘辛煮を口へ入れると、
「やっぱり、美味しい…」
ふと視線を感じて、顔をあげると、鷹東が静かに見つめていた。何か見透かされているようで、ふいと視線を逸らすが、
「上手くいっているみたいだね」
笑っているけど、どこか安心したような響きに苦笑いを浮かべた。
「適わないなぁ。もう…」
拗ねたように小さく呟く子どもじみた仕種に、微笑むだけだ。だからだろうか。なつめの口から、素直な言葉が出る。
「…有難う。きっかけをくれたから」
珍しくはにかんだ幼い表情を浮かべ、礼を言った。そっと振り返り、窓から見える、川の向う側の歩道へと視線を向けた。この店は、以前から気になっていた。自宅からは逆方面でもあり、かなり遠いし不便でもある。偶々用事があって、通っただけの場所ではあるが、なぜか気になって仕方がなかった。それが、ある日を境にして、どうしてもこの店のこの場所へ来て見たかった。どうにもならない気持ちのまま、この店のドアを開けた───。
あの時の思い詰めたなつめの顔を、鷹東は思い出していた。綺麗な顔、スッと背筋の通ったほっそりとした体、恵まれた容姿をしているのに、どこか行き場所のない、人生を諦めているような曇った目をしていた。
「人生、どう転ぶか分からないものですね」
「でも、君はいつもきちんと考えている」
「そうかな」
「君にとって、必要な場所だよ」
ハッとして鷹東の顔を見つめた。胸の奥で何かが目覚めた気がした。
「………」
そこへドアのベルが鳴った。視線を向けると、深沢が不機嫌な顔のまま現れた。食べかけていたピラフを、何事もなかったかのように食べる。深沢はなつめの姿を見つけると、当然のように隣の席へと座った。
「美味そうだな」
「美味いよ」
「ここで食べてると嫌いなものなくなるな」
「あんたもな」
こそこそと呟いて、なつめは嫌いなピーマンを美味しそうに食べている。ほぼ毎日、同じものを食べている深沢は、なつめの食べている物に興味があるらしく、同じものを注文する。鷹東には嫌いなものが把握されており、バランスの取れた添え物がいつも付いてくる。深沢もなつめと同じプレートを受け取ると、追加されている牛蒡のサラダに苦笑している。
決まって、深沢が千円か、なつめの分を含めた二千円しか払ってないってことは、その範囲で鷹東が作っているのだろう。食事を終え、サンドイッチのテイクアウトを頼み、深沢はふと思い出したように、
「あぁ、そうだ。今日からバリエーションを通しでいくからな」
何となく出来上がりつつあったが、深沢が納得出来ないのか、所々いつも変えていた。やっと決まったバリエーションに安堵し、呆れた視線を向ける。
「いきなりかよ。昨日まで、無理だって言ってなかったか?」
「無理だろうが、なんだろうが、ヤルんだよ」
その言葉に目を丸くすると、なつめは内心大笑いをしていた。この衝動でしか動いていない生き物に、振り回されるのは、面白くて仕方がない。
「なら、ヤルか」
なつめのあっさりとした言葉に、その笑みを浮かべた横顔を見つめた。最近、やっとこの取り澄ました顔が、笑っているのか、楽しんでいるのか、そして悩んでいるのか、悲しんでいるのか、分かるようになった。どんなに強がっていても、二〇歳なんだと思わせる幼い表情に、なつめの頭を叩いた。
「おまえのその肉体美を、最大限に活かした技が、完成したんだよ」
想像するだけで、胸が高まるほど、最高の出来栄えだろうと確信している。
笑みを浮かべながら、ダンスの話をする穏やかな深沢の一つ一つの仕草に、まだ残っていた店内の数人の女の子が、頬を染め見ている。純粋という言葉がよく合う。先程までの無表情さはどこへやら、今は自分の作り出した世界に、すっかりと嵌まっている。その様子が可笑しくて、思わず笑ってしまうと、深沢は店内の女の子の視線に気が付き、甘い笑みを浮かべ、視線を逸らした。
だが、次の瞬間、横目でなつめを射るように見た。
「……っ」
体中を電流が流れた。胸の音が激しく高まる。なつめはそっと横目で深沢を見た。整った甘いマスク、踊る時の熱い視線と激しく乱れる黒髪。服で隠れて見えないが、鍛えられた胸の筋肉が激しく動くセクシーさ。その熱さを思い出すだけで、狂ったように飢える。踊りたい。早く深沢と踊りたい。
なつめの視線を感じると、目を細めセクシーに笑った。深沢もまた視線を逸らしながら、漲るパワーを必死に抑えていた。店の客がいなくなると、なつめの肩を叩き、耳元で囁いた。
「さて、ヤルぞ」
「あぁ……、でもあんたがいうと、エロイな」
「ふざけんな」
「…あんた、俺の身体好きだろう?」
「認めるが…。それこそ、俺が変態みたいじゃないか。お前だって、知らないと思ったのか、筋肉フェチだろう?」
自分の胸を指差す深沢に、無表情を作った。確かに、ワイヤーのような筋肉のなつめは、男性的な盛り上がった筋肉にはならない。どこかで憧れはあり、確かに深沢の胸の筋肉は好きだ。それがばれていた事が問題だ。無表情のまま、ふくれっ面をしたなつめを見て、深沢は吹き出すように笑った。
まさか、そんなに好きだとは思わなかったのだ。朝起こしに来た時、風呂から上がった時、いつもなつめの視線は、深沢の胸を見ていた。
「今度…、……やろうか?」
ピクっと反応し、真っ赤になったなつめは、深沢の背中を叩く。
「いつものセクハラのお返しだ」
出来上がったサンドイッチの袋を下げ、支払いを済ませた深沢は、なつめの腕を掴んだ。仕方なしについていくが、深沢の温もりに触れると、安心する自分がいた。それを自覚したのは最近のことだが。出口で鷹東が可笑しそうに笑っている。頭を下げながら、深沢に連行される。
今の深沢との関係は良好だ。お互いの存在を必要としている。それ以上に心から共鳴する物がある。今までなつめが欲しかったものが、此処にはある。
最近とても調子がいい。全てに対して満ち足りていて、充実感を味わっていた。なつめとのフォーメーションは、とてもいい形に仕上がってきている。後はそれを深めていくだけだ。いつにもなく、ワクワクするほど、ダンスを楽しんでいた。
一番はなつめの存在が大きい。一緒に暮らし始めて、意外にも真面目な性格で驚いたくらいだ。食生活にしても、引き攣られるようにして改善させられた。女性関係も予想外に静かのもので、時々気になっていたが、その理由が昨日分かった。
珍しくなつめから、今日は受付のバイトが遅れると連絡があった後、レッスンの日でもないのに、夏川が急に教室に現れた。
「あれ?レッスンの日ではないですよね?」
夏川のいつもとは違う表情に、ソファへと促した。深く腰掛けた夏川は、暫く考えた末、重い口を開いた。
「このことは内密にお願いします。でも私は、先生は知ったほうがいいと思うので、お話します」
深沢は眉間に皺を寄せた───。
夏川はいつもの美容院に行くために、駐車場から川縁の道へと視線を向けて立ち止まった。
「あれ?なつめさん」
なつめが派手な洋服の女性と何かを言い争っていた。サングラスをかけた女性の振り出した細い手を掴み、叢へと突き倒した。その容赦のない遣り取りに、夏川は立ち去ろうかと思った。がその時、女性がなつめの腕を掴み、平手で殴った。
「……!」
「待ちなさいよ!あんたなんて認めないわ」
「認めてもらわなくて結構。さっさと諦めろ」
「なによ…どうして、私じゃないの」
なつめは冷たい目で見下ろすだけだ。女性の手が、なおもなつめを殴ろうとする。夏川は思わず、叫んでしまっていた。
「なつめさん!」
驚いて目を見開いたなつめは、女性の手を放すと、彼女はバッグを持って走っていく。なつめは殴られた頬を摩りながら、
「痛てぇな…」
夏川は、ペットボトルの水を含ませ、ハンカチを差し出した。
「なぜ、黙って殴られたの?」
なつめなら、簡単にかわせそうな感じだった。夏川の心配そうな顔に、ハンカチを受け取ったなつめは視線を逸らしながら、強い視線を空へと向ける。深沢の女性関係だとは分かっているが、どうしてこんな事になってしまったのか。ただそこにあるのは、彼女もなつめも本気だということだ。
「絶対に、パートナーだって認めさせてやる」
どうやら、なつめを本気にさせたネックは、そこにあるようだ。深沢宗司のパートナーは自分だ、と内心叫んでいるように思え、何も言えなくなった。
「───」
深沢はすぐさま立ち上がった。珍しく怒りの表情に、夏川は眉間に皺を寄せた。教室から出ていこうとする背中に向かって、
「先生は、何かを言える立場ではありません。女性を責める資格も、なつめさんを助けることも」
拳を握りしめ、立ち止まったまま、苦悩しながら動けないでいた。
「なつめさんが、最高のパートナーだと認めさせるために、先生がしなければならないことがあるはずです」
「……っ!」
「私、初めはなんて可愛げのない、生意気な子だと思っていました」
「夏川さん?」
「今は好きですよ。不器用だけれど、真っ直ぐな所が…」
笑っている夏川に、深沢は大きな溜息を吐き出した。
良く分かっている。そう心のなかで呟いた───。
マンションに帰ると、リビングのソファになつめが転がっていた。
「どうした?」
「ちょっと、頭が痛いんだ…」
笑っているが、顔に氷を乗せている。それを見ただけで堪らなくなり、なつめの体を抱き締めた。
「えっ、なに?」
なつめは笑って言ってみたが、夏川の顔を思い出し、溜息を吐き出した。何も言わない深沢に、ソファに転がったまま、窓から見える夜空を見つめた。
「あんたの本気に応えたいって、本気で思っている」
「無理をするな」
「いや、これは俺の意地だ」
なつめの顔を見ると、その目は真剣だった。
バレエの時は、何もかもから逃げた。だが、今は逃げたくない。こんな事で負けたりしない。深沢宗司のパートナーとして認めさせたい。
「あんたは、俺を信じろよ」
「信じているさ」
ただ、無鉄砲ななつめが心配で仕方がないだけだ。
深沢の心配をよそに、なつめはそれからも戦闘意欲剥き出しで、未だに諦めずにやってくる女たちと攻防を繰り広げていた。最近では、待ち伏せされることに、違う楽しみを見い出していた。彼女たちも最近では、ブランドの服ではなく、ショギングウェアに変化している。いつも通り軽く女たちを蹴散らして、レッスンに遅れてきたなつめの顔を見て、深沢は思わず、ギョっとして固まった。
「……っ!」
何事もなかったかのように、カウンターへと行き、荷物を下ろすと、椅子に座る。深沢は、無理矢理我に返ると、レッスンを忘れて、なつめの顔を覗き込んだ。
「おまえ!その顔、どうした!」
「あぁ、交わしたつもりがしくじった」
頬が赤く腫れ上がり、唇も切れて膨れている。多少痛みがあるのか、顔を顰めているなつめの腕を掴んだ。レッスンどころではなく、
「申し訳ありませんが、佐々木さん、更衣室にある救急箱を。柏田さん、手洗い場のロッカーのなかにあるタオルを、数枚お願い出来ますか」
素直に指示に従う二人の後ろ姿を見ながら、深沢は控室の冷蔵庫から保冷剤を数個取り出す。なつめをソファに座らせ、タオルに保冷剤を包むと、腫れた所に当てる。切れた唇には軟膏を塗ってやる。
「これ、明日には腫れるぞ。なにで殴られた?」
「あのバック」
佐々木の持ってきている四角い形のバックを指差した。その凶器に似たものを見つめ、溜息を吐き出す。
「おまえ、一応、一か月後にパーティあることを自覚しているか。化物みたいな顔で、踊るのは却下だからな。美だ、美!コメディにでもして見ろ!絶対に許さんぞ、俺は」
「分かってるよ…」
切れた唇の端に、カットバンを貼付ける。ここまでくるともうほおってはおけないなと考えながら、
「また柄にもなく、女共のいうことを聞いていたんだろう?殴っていいぞ」
その言葉に、周りにいる生徒たちが身を引いた。そんな恐ろしいことを平気で許すのかと、信じられない様子で伺っている。
「もう大丈夫だって…。二人だけになったし」
「ヘぇ、だれ?」
「カンナと愛美」
「あいつらか。思い込みが激しい上に、執念深いからな」
「…んで、手が早い」
黙って殴られるつもりは毛頭なかったが、偶々バランスを崩して、当たってしまっただけだ。だが、深沢はこれ以上の生傷は黙ってられるわけがなかった。明日はレッスンを休んで、なつめの先回りをして、女たちを捕まえるしかない。密かに考え巡っていると、なつめがすっきりした声で呟いた。
「もう二度と来ないだろうから…」
「なぜ?」
「俺も、ぶん殴ったから…」
「………」
なつめの右手が少し赤くなっているのを、黙ったまま見つめた。実は、これも不可抗力。バランスを崩した拍子に、当たったカバンを撥ねのけたら、彼女の顔に手が当たった。お互いに痛み分けで、気が抜けたように止めたが、その後姿はもうすっきりした感じに見えた。
「…殴ったのか?」
この鍛え上げられたワイヤーのような手で、しかもグーでだ。深沢たちは身震いすると、みんなして呟いた。
「可哀想に…」
「えっ?なにが…」
なつめの視線を受けた深沢は、引き吊った笑みを浮かべた。
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