クソデカレーニン
C'est la vie
ク ソ デ カ レ ー ニ ン
その日、全ロシアは畏怖した。クソデカレーニンの威容に。彼の革命の咆哮に。
帝都ペトログラードのフィンランド駅を破壊してネヴァ川の河畔に立ったレーニンは立っ端100メートルあまりであった。右手に鎌、左手にハンマーを手にしたレーニンは、右手に握り込んだ赤旗をなびかせおよそ3キロ先の冬宮に向かって進撃を始めた。彼の一歩ごとに革命は前進し、大地が震え、反革命派は震撼した。ネヴァ川に波が立ち、巡洋艦が軋んだ。迫りくるレーニンを見てペトログラード・ソヴェトは一斉に蜂起し、冬宮の臨時政府は蜂の巣をつついたような大騒ぎだった。
レーニンは元々ユダヤ人のトロツキーが面白半分に作ったゴーレムである。ゴーレムの運用には様々な厳しい制約が伴い、さらに作るためには断食や祈祷などの神聖な儀式を行った後、呪文を唱えながらヘブライ文字や聖書の一部を刻まなければならないなど多数の面倒な手順が必要だった。ウクライナの生まれでヘブライ語の素養も聖書の知識も全くないトロツキーには高すぎるハードルだったため彼はそのハードルをくぐることにした。ヘーゲル手順と呼ばれるドイツで考案された簡略化された手順を用いたのである。これは特殊な文様を刻んだ物品を核として用いて粘土の人形を組み立て、いくつかの材料を用いて意のままに動かせるゴーレムを作り出すというものだった。儀式的な手順は一切無くてトロツキーにも取っ掛かりやすい方法だったが、殆ど偶然にゴーレムのようなものを生み出しているに過ぎないこの手法で生み出されたゴーレムはしばしば制御不能になる上に本物のゴーレムとは違って無力化する明確な方法が存在しない問題があった。
たまたま手元にあった「資本論」を核にしてヘーゲル手順を実行したトロツキーはゴーレムを生み出すことに成功し、自身が投獄されていたオデッサの看守と流刑先に流れていたレナ川にちなんでウラジミール・レーニンと名付けた。そして最初はトロツキーの命令に従っていたレーニンだったが、案の定と言うべきか制御を失い暴走し始めた。しかしレーニンはただのゴーレムではない。胸にマルクス主義を抱く共産主義ゴーレムである。トロツキーが無力化する方法を模索している間に脱走したレーニンはシベリアから姿をくらまし、帝国に対するテロリズムを開始した。すなわち皇帝の人民支配の手段である郵便、鉄道および資本家が無産階級から搾取した富を蓄える場所である銀行を襲撃するようになったのである。サーベルはおろかモシン小銃の銃撃さえ受け付けないレーニンに手を焼いたロシア帝国警察は魔術局を呼び出した。魔術局は本来魔女狩りや、近頃ではポグロム、もといユダヤ人弾圧に従事していた良からぬ組織である。しかしこういうのを所管してると“ガチ”の案件を持ち込まれることもあって、ユダヤ人が呼び出した悪魔を撃退したりガチの魔法使いと戦闘したりしてたので正教会よりもそのテの案件には強かった。
だが歴戦の魔術局でさえレーニンには手を焼いた。なんせイレギュラーな手順で作られたゴーレムなので普通のゴーレムと同じように相手することはできないし先ほども述べたように彼にはライフルさえも通用しない。マルクス主義の唯物論でコテコテに理論武装したレーニンには(本人が非科学的な存在であるにもかかわらず)神威も通用せず、1905年にはとうとう帝都ペトログラードに押し入られる事態となった。ツァーリはもちろん怒髪天で魔術局の無能にキレ、帝国の総力を挙げてこの怪物を阻止することを命じた。この年の初めに中心街に迫るレーニンを迎撃した帝国軍が射撃した流れ弾で市民が大量に犠牲となったことは血の日曜日事件として知られる。一度は撃退したもののレーニンのテロと対日戦争による社会不安で革命が広がり、鎮圧で手一杯になっているところでレーニンがペトログラードに帰還した。泣きっ面に蜂である。毎日のように発生する騒乱を鎮圧しながらレーニンと市街戦を繰り広げなければならず、帝都を跳梁跋扈するレーニンに対して対策は後手後手になった。
しかしロシア人はそれでへこたれるほど無能ではなかった。ツァーリを無理やり説き伏せて十月宣言にサインさせ、普通選挙の殺し文句でポーランドのどん百姓とユダヤ人の扇動家どもを黙らせると魔術局の総力を挙げてレーニンをペトログラードの郊外に追い詰め、とにかく頑丈で滅茶苦茶な革命的
マルクスは“共産主義という妖怪がヨーロッパを徘徊している”と述べた。今やその言葉の通り、レーニンという名の怪物がヨーロッパに解き放たれたのだ! 彼はまず大英博物館の図書館を破壊し、唯物論以外を記した書物を焚書した。英国軍隊の追撃をかわして南下したレーニンは大陸に戦場を移し、ドイツを、次いでハンガリーを徘徊した。無論それを阻止できる力量はどの国にも存在せず、レーニンは妨げられることなくガリツィアに到達した。彼は明らかにロシアを目指していた。
ところで、オーストリア・ハンガリーの皇族であるハプスブルク家は長い歴史を持つ家である。その血統は古く偉大なシーザーに至り、ヨーロッパで常に重要な位置を占める大貴族であり続けた。そのような名門中の超名門が自らの身を護り、地位を得るために霊的な力を利用していたのはほとんど当然と言え、ハプルブルクの者たちは魔術師や霊媒師を大勢抱えていただけでなく自らも魔術に精通していたのである。全ヨーロッパの君主と資本家を恐怖に陥れたレーニンがガリツィアに居ることを知った皇帝は帝国を守り、ついでに外交的プレゼンスを示すために自らお抱えの魔術師たちを率いて出撃した。革命の闘志に燃えるレーニンと親愛なる皇帝陛下がガリツィアの町で対峙し、今ここに世紀の大決戦が始まった!
レーニンはヨーロッパ全土を震撼させただけあって強かった。帝国軍はまったく歯が立たず、勇猛なハンガリー兵が蟻のように蹴散らされ、チェコ兵その他有象無象は小銃を捨てて逃亡した。町は砲撃とレーニンが放つ暴力革命光線で炎上し、炎が赤旗をあかあかと照らし上げた。しかしわれらが皇帝陛下のモットーは“心を合わせて”である。堅い結束力で結ばれた皇帝の魔術師たちは呪文をシンクロさせ、その大音声はレーニンの革命的咆哮をかき消して帝国全土に響いたという。そして彼をぐるりと取り囲む39人の魔術師たちに沿って円形の魔法陣が姿を現し、摩訶不思議な力によってレーニンはその中央に不可視の十字架へ磔にされた。魔術師たちは事前に哲学書を読み込み、レーニンの唯物論を論破することで彼の力を封じ、抵抗を除いて拘束を破れないようにしたのである。
こうして帝国の威信をかけて調伏されたレーニンはかつてハプスブルクの所領だったスイスの山中に固く封印された。ヨーロッパにはつかの間の平和が訪れ、君主たちは胸をなでおろしただろう。
しかし間もなくサラエボで一発の銃弾が放たれた。これをきっかけにヨーロッパはかつてない騒乱に突入し、なんやかんやあってカイザーが100万の軍隊を手に小便小僧を蹴っ倒してベルギーを押し通り、フランスへピクニックに出かけた。第一次世界大戦である。
みんな今年か来年には終わるだろうと信じていたが、敵が次の弾を撃つまでに50メートル走れると信じているフランス人が機関銃に突撃して少子化社会になるまで死体を積み上げ、海を渡ってまで戦争しに来たおせっかいなイギリス人が弾薬庫がすっからかんになるまでドイツ人を砲撃してフランドルにぺんぺん草も生えなくなっても戦争は終わらなかった。それどころかどんどん平和から遠のいていったのである。ドイツもフランスもイギリスもロシアもヨーロッパ中みんなが困窮したのだが特にひどいのがロシアとドイツで、まずロシアはレーニンに国中を食い荒らされた傷がまだ癒えておらず、共産主義という敗血症に罹って死んだ。二月革命である。ドイツもドイツで同盟国がイマイチ役に立たないのにフランスとロシアで二正面作戦しなければならず、余計に負担が大きくてとうとう食糧も兵士にできる人間も払底した。このまま行けば帝国全土をほじくり返してもぺんぺん草すら残らなくなる。ロシアは革命の混乱でだいぶ弱体化したが臨時政府はまだまだ戦争を続ける気であり、相手にやる気がある以上は兵を退かせる訳にはいかないし講和もできない。そこでドイツは同盟国がスイスに封印したブツに着目した。レーニンである。こいつをロシアに解き放てばロシアは戦争から離脱するのでは?
ドイツ人たちは早速レーニンの軍事利用に取り掛かった。急がないと祖国が負ける。レーニンの封印を解くと制御できなくなることは明らかだったので封印したままロシアに送り込まなければならない。そこでドイツ人はレーニンを列車に封印することにした。ペトログラード行きの客車に偽装して中立国経由で送り込むのだ。“封印列車”である。
ハプスブルク家立会いの下、数年ぶりに封印されていた洞窟から取り出された。この怪物を収め、封印する魔法陣を描くためには客車程度では到底足りないのでドイツ最新の空間拡張術式が適用され、レーニンは客車の中に運び込まれた。一石二鳥なことにこの術式は放っておくと解けてしまうので一種の時限装置としても機能する。いつ解けるのか分からないことが玉に瑕だった。
レーニンを乗せた客車はペトログラード行きの列車に連結され、連絡船でスウェーデンに渡り、フィンランドからペトログラードにたどり着いた。予定通り、レーニンは到着したフィンランド駅に放置された。あとはこの爆弾が起爆するのを心待ちにするのみである。米国から宣戦布告を手渡されたドイツにとっては待ちきれない程であった。しかし遅い。思ったより起爆まで時間がかかり、7月にはとうとうケレンスキー攻勢である。これは何とか撃退したがペトログラード・ソヴェトを扇動して行わせた蜂起は臨時政府にスパイの存在が筒抜けになっていて失敗した。
いつしか季節は冬になり、ペトログラードは雪に覆われた。1917年11月、ユリウス暦では10月の末、18世紀以来の整った市街に突如轟音が響いた。ネヴァ川河畔のフィンランド駅を覆う粉塵の中から黒い影が立ち上がる。レーニンである。さて、諸君らはゴーレムは時間と共に少しづつ大きくなることはご存じだろうか。レーニンもその例にもれず、生み出されてからロシアを、ヨーロッパを跋扈していた間に少しづつその体躯を増していた。今やレーニンは高さ100メートルに達していたのだ!当然、この巨体は空間拡張術式を用いなければ収容できないわけだ。当時ペトログラードにはレーニンより高い建造物は存在しなかった。あまねくペトログラード市民がレーニンを仰いだのである。
暗い寒空に妖しく光るその双眸は3キロメートル先、かつて皇帝の冬の住居だった宮殿に反革命を見出した。反革命は除かれなければならぬ。レーニンは冬宮に向かって歩み始めた。彼の一歩ごとに革命は前進し、大地が震え、反革命派は震撼した。ネヴァ川に波が立ち、巡洋艦が軋んだ。伝説の革命戦士レーニンの帰還を知ったペトログラード・ソヴェトの兵士たちはこれぞ好機と一斉に蜂起した。電話局や市内の要衝が占領され、巡洋艦アヴローラはレーニンの足元から冬宮を砲撃した。陸からは赤旗掲げた銃隊が迫り、川の対岸からはレーニンが迫る。この時臨時政府の手元には婦女義勇兵と士官候補生からなる少人数の部隊しかいなかった。迫りくるレーニンにはライフル銃のごとき豆鉄砲は通用しない。万事休すである。急須から玉露でも飲んで落ち着いても何も解決しない。
こんな具合であるから会議室でケレンスキーを囲む閣僚たちの表情は憔悴しきっていて今すぐ逃げ出したいであろうことが分かりやすく見て取れた。しかしケレンスキーは落ち着き払ってどっかり座っている。彼はその腹中にこれを打開できるかもしれない秘策を持っていたのである。レーニンの一歩一歩に宮殿が揺れる中、ケレンスキーは悠然と一つのボタンを取り出した。彼がそのボタンを押し込むと、地震のごとく冬宮が揺れ出し隣のネヴァ川が二つに割れた!そして川の中から姿を現したのは——一見ただの前ド級戦艦である。しかしそれは飛行戦艦“ポチョムキン・タヴリーチェスキー公”であった! 自重は実に1万トン以上、200ミリ以上の分厚い装甲と4門の305ミリ砲を備え、死角無く配置された小型砲は数え切れず、40ノット以上の速度で飛行する事が可能なロシアが誇る超兵器だ。ケレンスキーは皇帝がひそかに建造していたこの帝国の技術の粋を集めた秘密兵器を受け継ぎ、ドイツに対して投入するために建造を続けていたのである! 7月の攻勢の時にはまだ完成しておらず出動することはできなかったが今や戦艦ポチョムキンは完全である。黒く輝く船体が悠々と空中に上昇し、針山のごとき
「よし、よし、威力は申し分ないぞ!」
窓から眺めていたケレンスキーは腕を突き上げ、歓呼した。今やペトログラード・ソヴェトも臨時政府軍もペトログラード市民も皆、この先にも、おそらく後にも無い戦いに注目している。全ペトログラード市が銃を置き、旗を降ろし、この世紀の対決に固唾を飲んでいた。
レーニンが恐ろしい勢いで鎌を振るう。しかし自在に飛行する“ポチョムキン公”はそれを危なげなくかわした。すかさず狙いすました全帝国のブルジョワ・パワーを満載した光線がレーニンに襲い掛かる! レーニンの全身は爆炎に包まれ、爆発はペトログラード全市を揺るがし、冬宮の窓ガラスは全て粉砕された! 誰もがレーニンは死んだと思ったことだろう。ソヴェトの兵士たちは意気消沈し、臨時政府軍とケレンスキーは歓声を上げた。しかしそれもつかのま、ネヴァ川に立つ黒煙からぬっと黒い背広にくるまれた腕が出てくるとその手に握られたハンマーが勢いよく振り下ろされた! 100トンのハンマーが戦艦ポチョムキンに襲い掛かり、戦艦は避ける間もなく真っ二つになる! レーニンは想像以上に頑丈だった。煙の中からレーニンが何事も無かったかのように姿を現し、戦艦がネヴァ川に墜落してケレンスキーを濡れ鼠にした時、会議室に
レーニンはトロツキーが生み出したゴーレムであることは最初に述べた通りである。トロツキーはレーニンが脱走して以来ずっとコイツを抑え込む方法を研究していた。レーニンがヨーロッパを跳梁している間にもなんとかしようとレーニンを追い、研究を続けていたがそれは果たされず、レーニンはガリツィアを最後に行方知れずになった。しかし今、彼の目の前にはレーニンがおり、彼の研究は理論上完璧だった。あとは実践するのみ、冬宮を破壊するレーニンの身体によじ登ったトロツキーはレーニンの禿げ上がった額に呪符を貼り付け、レーニンはぴたりと止まった。そして彼はレーニンの肩の上から眼下の兵士たちと市民に向かってプロレタリア革命の成功を宣言したのである。この事件は十月革命と呼ばれた。
新生赤軍の司令官に就任し、革命の指導者となったトロツキーはレーニンを自在に操り反革命に向かって進撃した。レーニンは白軍の砲弾をものともせず、コサック騎兵を蹴散らしチェコ兵を薙ぎ払った。もはやレーニンと、それを支配するトロツキーを止められる者は誰もいない。日本軍をシベリアから叩き出し、ポーランド人を撃退して1922年、ついにソヴィエト連邦が建設され革命は成し遂げられたのである。つかの間の平和の時代が訪れたがソヴィエト指導部は今度はレーニンの扱いに困るようになった。今はおとなしくしているがまたいつ暴れ出すか分からないし何よりデカい。このときレーニンは高さ400メートルあまりまで急成長していた。そこでトロツキーは、もはや役目を終えたこの戦士の任を解くことにした。レーニンを破壊するのである。
トロツキーは慎重に検討を重ね、レーニンを破壊する呪符を完成させるとモスクワ郊外にたたずんでいるクソデカレーニンの元へ向かった。彼の足に呪符を貼り付けると轟音と共にその体が崩れ落ちた。後に残ったのは粘土の山と古ぼけた資本論が一冊である。しかしトロツキーはこの時過ちも犯していた。トロツキーがレーニンを操り党内で絶大な権力を持っている事を快く思っていないがレーニンがいるから手出しできていない党員が居ることを考慮していなかったのである。彼はトロツキーがレーニンを失った今、彼が呪術を利用したことやレーニン頼りだった軍事戦略を大々的に批判して党の全体を巻き込み、ついにトロツキーを国外追放にした。そして指導権を握り、事実上の最高指導者になった彼はレーニンの存在を抹消しにかかったが、革命で大活躍したレーニンの名前を葬ることは困難だった。そこで彼は「ウラジミール・イリイチ・レーニン」という一人の革命家をでっちあげ、あたかも彼がトロツキーに代わって革命で中心的な役割を果たしたかのように見せかけたのである。彼は疑われないためにわざわざ偽物の死体を作り上げて丁寧に廟に葬り、アヴローラ号の複製を造ってネヴァ川に浮かべたのだ。その党員の名はスターリンと言った。
こうしてクソデカレーニンの存在は歴史から葬られた。しかし人々の記憶から完全に消え去ったわけではない。その痕跡は、完成することは無かったソヴィエト宮殿に設置される予定だった高さ100メートルのレーニン像に示されている。それはまさに、ネヴァ川の河畔に現れたレーニンの生き写しだった。
クソデカレーニン C'est la vie @intercity125
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