若き政治家と白い仮面
青キング(Aoking)
プロローグ 白い仮面
闇に沈んだ街路を見下ろせる二階にある窓のカーテンで、男女の影絵がまぐわっている。
静寂の中、ベッドの白いシーツ上で激しい衣擦れの音が鳴っていた。
シーツの上では中年男性の弛み切った裸身が、美しいブロンドの髪をしたうら若い女性の裸身を抱き包み、女性のわざとらしい抵抗を楽しむように愉悦の笑みを浮かべている。
「はあ、ほれ、ここが弱いか?」
「うっ、ああ。ふーん」
中年男性が女性のうなじに息を吹きかけ、指でなぞる。
女性はか細い喘ぎを漏らし、男性から横ばいで背をのけぞらせた。
「逃がさんぞぉー」
下品な声を出し、女性の背に手を回した。
男性と女性の距離が一層近づいた。
女性の生の乳房が男性の胴に押し付けられる。
「気持ちええのう」
「はっ、ふっ、うーん」
その刹那、情事が行われる寝室へけたまましい足音が階段を駆け上がってきた。
寝室の樫のドアが外側から勢いよく開けられる。
部屋の外の廊下には腰にホルスター拳銃を吊るし、消灯した懐中電灯を片手に持つ警備服の男が息を切らした焦りの顔で立っていた。
「……なんじゃ?」
ベッドの上の中年が女性を渋々手から離し、舌打ちでもしそうな声で訊き咎めた。
警備服の男は息が切れ切れのまま答える。
「代議士先生、館に侵入者が現れました」
「……侵入者じゃと?」
代議士と呼ばれた中年は不機嫌に訊き返した。
「はい。ただいま、部下の方が追っております」
「……捕まえたのか?」
「おそらくは。とにかく着替えて……」
「仕方ないのう」
窘めるように促す警備服に、代議士は億劫そうにベッドから起き上がった。
ここで待っているよう女性に言うと、ベッドサイドからバスローブを一枚無造作に取って羽織る。
「お楽しみ中に邪魔をするとは無粋じゃな」
「すみません先生。しかし、先生の身に危険がありますので」
「わかっておる。たんなる愚痴じゃ」
聞き飽きた顔で言葉を返し、代議士は部屋を出て警備服の男とともに階段を下った。
階段を下りいくかの角を曲がった先に玄関がある。警備服の男は懐中電灯を点灯させて党員を庇う形で玄関から慎重に外庭へ脱け出す。
外庭に足を踏み出そうとした瞬間、懐中電灯の光が照らした光景に警備服の男の注意力が刺激され代議士の身体を手で制した。
「先生。そこから動かないでください」
「……なにがあったのじゃ?」
「部下が倒れております」
若い警備員の異常を聞き、代議士は背伸びするようにして警備服の男の肩越しに外庭を覗き見た。
懐中電灯の光の中、柔らかい芝生に埋め尽くされた外庭の中央辺りで、警備服の男と同じ服装をした青年が腹をかかえて蹲っている。
代議士は身を案じ駆け寄りたくなる衝動を押さえ、警備服の男の顔を仰いだ。
「撃たれたのか?」
「わかりません。とにかく代議士はここに」
代議士の質問に首を振り、若い警備員のもとに飛ぶような足取りで近づいた。
一目で若い警備員の状態を確認する。
抱えた横腹から血が噴き出し、芝生の一部を赤く染めていた。
しかしまだ出血の量は少ない。
「おい。何があった?」
先輩、と若い警備員は先輩の警備服の男に顔を上げた。
「すみません。撃たれました」
傷は浅いのか答える声ははっきりしていた。
「どういう奴だった?」
「白い仮面っす」
白い仮面と聞き、警備服の男の顔が一瞬驚きに打たれた。
が、すぐに納得して表情を引き締める。
「そうか。立てるか?」
「はい。ううっ」
若い警備員は傷口を押さえながら立ち上がる。しかし浅いとは傷は痛むようで、痛そうに眉を顰めた。
「何が、あったんじゃ?」
代議士が玄関口から恐る恐る警備員の二人に尋ねた。
銃創を負った若い警備員に代わり、警備服の男が答える。
「白い仮面です、先生」
「……あやつか」
代議士の顔が歪められた。
警備服の男はええ、と頷く。
「あの白い仮面のようです」
この街インネレシュタットでは、ここ数週間ほど政党議員や富豪の邸宅などに忍び込み、金品を簒奪していく白い仮面騒ぎが立て続けに起こっている。
目撃者によると、小柄な身体に白いオペラマスクを被った黒い修道服の人物、と外見的特徴は証言されているが、目的や素性については謎だった。
この後、白い仮面の凶弾に撃たれた若い警備員は、脇腹の浅い銃創という医師の診断を受けて命に別状はなかったらしい。
代議士の邸宅から逃走した白い仮面は、街灯の少ない道を選んで進みレンガ塀の沿い路肩まで走り着いた。
レンガ塀の路肩はさらに闇が濃く、黒い修道服を着ている白い仮面の姿は人目につかぬほど暗闇に溶け込んだ。
塀沿いに歩くとダストボックスに突き当たる。
白い仮面はダストボックスの前で修道服の内側に隠していた拳銃を取り出すと、ダストボックスと地面の隙間に放るように滑り込ませた。
塀の内側へ持ち込むには拳銃は無粋だった。もともとゴミ袋から溢れ出ていたところを拾っただけの愛着のない物でもあった。
拳銃を放棄してより身軽になってから塀の傍を歩いていく。
一分もしないうちに塀が途切れる。
塀の途切れた場所は雪崩を起こしたようにゴミ袋が散らかっていた。
ゴミ袋の散乱は夜目でも分かりやすい目印だった。
地面に敷き詰められたゴミ袋から割れた瓶などが飛び出ていないか、足元に気を付けながら白い仮面は踏み進んでいく。
投棄されたゴミ袋集散地の先に白い仮面の暮らしている街がある。
都市部から放逐を余儀なくされた黒人により形成されているスラム街。
「歩きづらいな」
白い仮面が思わずという感じでぼやいた。
生ゴミの袋に足が接すると濡れるような嫌な感触ともに足が沈む。
その度に足が汚れてしまう気がした。
やっとのことでゴミ袋集散地を抜け、トタン板で建てられた家屋が並ぶ地域に出る。
足元に不安が無くなると退屈しのぎに夜空を見上げたくなった。
顔を仰向けて見えた夜空は暗かった。
星明りは雲に覆われて遮られてしまっている。
――一点の光も無しか。悲しいものだな。
望むものを手に入れるには白い仮面一人では難しかった。
光さえも射さない場所でどれだけ足掻いたところで、闇の外にいる者は看過してしまう。
けれども一筋でも光を向ければ、そこで足掻いている者を見つけ出せる。
一筋の光、それだけでいいのに。
街の惨めさを嘲笑っているような薄曇りの夜空を見る価値はなかった。
顔を正面に戻して再び歩き出す。
通り慣れたトタン板で出来た家屋どうしの隙間を抜けていき、愛する人の待つ住処を目指した。
歩きながら白い仮面の意識は自己との問答に陥っていく。
簒奪行為で一筋の光が向けられることはないとわかっている。
なれば、どうしてこんな行為を繰り返しているのだろう。
――学校を建てる資金を集めるためだ。
今日もまた、そう思い込むことにした。
修道服の中にある感触はこの世では確かな価値がある。
簒奪行為も、この風変わりな恰好も、一筋の光さえ向けてくれない者達へのささやかな反逆なのかもしれない。
――いつ建てられるか、目途は立ってないがな。
寂しげな笑い声が夜のスラム街に空々しく響いた。
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