幽鬼な婿殿!
巴屋伝助
第1話 さよなら、現世
失恋した。
生まれて初めてできた彼氏に、二股掛けられていた。
だから、証拠を押さえてこっちから振ってやった。
付き合ってから、まだ三ヶ月も経っていなかった。
大丈夫。三ヶ月未満だから、傷は浅い。
そう思って、平気な顔をしては見たけれど、言葉にしきれない思いが胸中渦を巻いて耐えられなくなった。
そこで私は決断した。
そうだ。中国へ行こう。
失恋旅行だ。夏休みだけど、友達は誘わない。行くのはひとりでいい。
場所は広東省がいいな。テーマパークの中華民俗文化村にも行きたいし、広東料理も楽しみたい。仏教や道教のお寺だって巡りたい。
私が大学で専攻している中国絵画史の研究だって捗るというものだ。
思い立ったら行動は早かった。
ホテルと航空便を手配し、観光ビザを申請した
今まで貯めたバイト代全部突っ込んでやるという気持ちだった。
それから、念願のビザが下り、私は今、こうして広東省の省都広州市に立っているのである。
初日は、ホテルに荷物を置いてからずっとグルメを楽しんだ。二日目の今日は、午前中に広東省博物館を堪能して、午後からは道観、つまり道教の寺院をいくつも回っていた。
今はその帰り道。ホテルまでの道のりを地図アプリにナビゲーションして貰いながら、要するに、手元のスマートホンを覗き込みながら、前方不注意の状態で歩いていた。
すると、小さな路地で擦れ違う人が在った。
二人連れだ。派手な衣装を着てゆっくりと歩いている。
ハリボテにも似た背の高い男と、背中を丸めた小さな男。
顔色が尋常ではなかった。片方は緑がかった白っぽい──死人にも似た顔相で、もう一人は漆で塗り込めたかのように黒かった。
私は「無常だ!」と思ってふり返った。
無常は、道教の冥界の神の一種である。人の寿命が尽きる時に迎えに来る存在だ。
この近くにお廟でもあったのかもしれない。お祭りになると日本で言う氏子にあたる人たちが無常の仮装をして練り歩くことが知られている。
伝承に寄れば、背の高い方の無常を白無常といい、名前の通り白い衣装を着て、さらに背の高い帽子を被っていて、帽子には「一見生財」と書かれている。対して、背の低い方の無常を黒無常といい、黒い衣装を着ていて、同じく背の高い帽子に「一見死哉」と書かれている。この帽子は、白無常と出会うと財をなし、黒無常と出会うと死んでしまうことを表していると言われている。
ふり返ると、大小の無常は、ちょうど曲がり角を曲がっていくところだった。
私は慌ててその背中を追った。
この時、私は慌てていて、前をよく見ていなかった。
無常に追いつくことだけを考えていたからだ。
それがいけなかった。
もう後悔しても遅いけれど、もう少し慎重に行動していたら、結果は違っていたかもしれない。
私は、曲がり角を曲がったところで、「ひと」とぶつかった。
先に曲がっていった無常たちではなかった。
見慣れない青い衣が目の前一杯に広がった。
見上げると、その男の人は古めかしい冠を被っていて、中国の宋代の役人の衣装を着ているようだった。お祭りの参加者かもしれなかった。
「ごめんなさい!」
私は咄嗟に謝った。
「危ないだろう!無常神をつけ回したりして!」
男の人は私を叱り飛ばした。
「それに、お祭りでもないのにつけ回すのは無礼だぞ!」
「本当に申し訳ありません」
私は深々と頭を下げて、その後、やっと顔を上げた。
この時初めて、男の人と目が合った。
男の人は、私と変わらない年格好で、背が高く、険しい目をしていて、顔色が青白かった。
そして、その青白い頬に急にほんのりと赤みが差して、彼が一歩後ろに退いたと思った次の瞬間。
バチン、とブレーカーでも落ちたかのように目の前が真っ暗になって、私は気を失った。
どれくらい気を失っていたのだろう。
囁き合う声が聞こえてきて、私は目を覚ました。
目を開けると、目の前に白と黒の無常がひしめき合っていた。
いや、二体しかいないのだが、目の前が一杯になるほどの距離にいるため、視野としてはひしめき合っていると例えたくなる状況だ。
私は竹製の簡略な寝台の上に寝かされていた。このことから考えても、私が気を失って倒れたのは間違いないだろう。
二神は小声で話し込んでいた。
「可哀想に。こんな若い身空で」
「かわいそうに。我らに行き遭わなければなあ」
「もう一つ可哀想なのは、あいつに見初められなければ、見逃がしてもらえたのにということだ」
無常は、私が不思議そうに見上げているのに気がついたようだった。
もう一度、口々に「気の毒に」というと部屋の外に向かって呼びかけた。
「おい、花嫁が目を覚ましたぞ」
と、白無常が告げる。
私は驚いて、寝台の上に身を起こした。
花嫁?と私は首を傾げたが、聞き間違いかもしれないので黙っておいた。
「ああよかった」と部屋の外から、先ほど私とぶつかった男が入ってきた。
「驚かせてしまいましたね。ここがどこか分かりますか」
「どこって……」
「ここは鬼界。つまりあの世です。あなたは死んだんですよ」
さっと血の気が引いた。
後戻りすることは許されないとでも言うように、私の全身を死の気配が満たした。
「そして今日から、あなたは僕の奥さんです」
男は、照れくさそうに微笑んだ。
白無常と黒無常が心の底から哀れむような視線を、私に投げかけた。
助けを求めて無常達を見上げると
「ボーナス時期だったのだ。本当にすまんな」
と、目を逸らされた。
「私がボーナスの代わり!?」
そう叫び返しても、もう遅い。
「ああ、お嬢さん。お名前は?」
「
私が仏頂面で答えると、無常は手に持っていた帳面に、さらさらと私の名前を書き込んだ。
死人の名を綴るための帳面だった。
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