トンネルの先

寝室

本編

 平日、十五時過ぎのファミレスは空いていた。

 五十席ほどある店内は、わたしたちと手持ち無沙汰の店員が数人いるほかは、二杯目のコーヒーを片手に新聞を読んでいるおじさんが一人いるだけで、かなり閑散としていた。外は蝉も鳴かないほどの暑さで、わたしたちはそこから逃れるようにこの店に入ったのだった。

「あ、わたしこれ食べたい。この桃のやつ。パフェの方ね」

 メニューを捲りながら、デザートのページにでかでかと書かれた“期間限定”の文字を指差して、古橋玲子は言った。メニューの写真ではカットされた桃が螺旋階段のように並べられていて、その上にはミントが添えられていた。

 桃は、果物の中で一番幸福な感じがする。色合いといい口に含んだときに溢れ出す果汁の切なくも優しい甘みといい、玲子は桃のもつ幸福加減が好きだった。

 玲子の言葉に目で頷いてみせた目の前の男は、ベルを鳴らして店員を呼んだ。

「白桃のパフェと、チョコレートサンデーをひとつずつお願いします」

  丁寧な言葉遣い。注文内容を反復して引き返していく店員の後ろ姿をぼんやりと目の端に捉えながら、玲子はそう思った。修司さんはきっと、わたしの知っている世界の男の人ではないのだろうと思うことが玲子には多々あったが、彼の言葉遣いもその理由の一つだった。

「修司さん、チョコレートサンデーなんて食べるの?知らなかった」

 玲子がわざと揶揄うような調子で問いかけると、修司はまあね、といった様子で小さく微笑んだ。眼鏡越しの目尻に僅かながら現れる皺。

「今まで、甘いものはあまり得意じゃなかったんだけど。近頃は無性に食べたくなるんだ」

「ふうん。それってどうして?」

「どうしてだろう、玲子といると欲張りになるせいかもしれないな」

 玲子には修司の言いたいことがはっきりと、正確に理解できた。わたしも修司さんと一緒にいるときはとっても欲張りになる。欲張りになることとはつまり、全身で幸福を享受したくなるということ。目で、鼻で、舌で、そして内臓で。強欲の産物を堪能したくなるということだ。

「分かるわ」

 それで玲子がそう答えると、修司はまた微笑んで、左手の親指と中指を使って眼鏡の位置を直した。

「そういえば、妻と会ったんだって?」

「ええ。先週お会いしてランチをしてきたの」

 修司さんの奥さんは麻美さんという名前で、綺麗な人だった。背が高く、アーチ型の眉に大きな目。髪は肩にかかるくらいの長さで、修司さんのことはあの人と呼んでいた。あの人、いつも部屋を散らかすでしょう。ごめんなさいね。あの人───自分の夫を指すのにこれ以上傲慢な言葉を、玲子は知らない。

「彼女、野菜しか食べなかったろう」

「いいえ。一緒にポークジンジャーを頼んだもの」

 その後にできた僅かな沈黙を、玲子は聞き逃さなかった。修司さんは小さな声でそうか、と一言漏らして、諦めたように少しだけ笑ってみせた。

「どうやら彼女は、僕の前では欲張りになれないらしい」

 それは違う、と玲子は思った。麻美さんはきっと、修司さんの前では欲張りな自分を見せたくないのだ。欲を恥じて、控えめで貞淑な妻としての自分を誇りにすら思っているに違いない。そのくせあの人、なんて呼び方をして、わたしに対してはいやに強気だった。妻というのはそういう生き物なのだろう、それがたとえ無自覚であったとしても。

 先ほどの店員が、お待たせいたしましたと雑な仕草で私の白桃のパフェと修司さんのチョコレートサンデーをテーブルの上に置いた。パフェに比べるとサンデーは幾分小ぶりだったけれど、ブラウニーやプリンがのっていてなかなかのボリュームだ。

「修司さんはどう?麻美さんといる時、欲張りになる?」

 カトラリーケースからスプーンを二つ取り、一つを修司さんに手渡してから、もう一つの方で白桃と生クリームを掬って口に含む。麻美さんといる時に欲張りになるかどうか───自分から聞いておいて、なんて馬鹿げた質問なのだろうと可笑しな気持ちになった。わたしが嫌がったり、或いは訝しんだりするようなことを修司さんが言うはずがないのに。そんなことを考えているうちに、桃は想像したとおりの甘さとみずみずしさで喉を通過していった。

「なることもある。それっていうのはつまり、玲子に会えない時なんだけど」

「そういう時はどうするの?」

「どうしようもないだろう?」

 臆面もなく修司さんがそう答えたので、やっぱり、と玲子はほとんど笑いだしそうになる。そしてどうか修司さんが麻美さんの前で、そういう修司さんではありませんようにと───そんなことはありえないだろうけど───思った。

「修司さんは、わたしがそばにいようといまいと本質的に欲張りなのよ。あたしはいわば、それを誘引してるだけで」

「そうなのかなあ。玲子と知り合うまでは、自分は無欲な人間だと思ってたよ」

ブラウニーをバニラアイスに絡めながら食べている修司さんを見ながら、玲子はこの人の全てを知ることはできるだろうか、とふと考える。三年前から勤めている商社の取引先として玲子の人生に現れた男───畠中修司という男について、わたしはどれだけのことを知れるのだろう。わたしが知っているのは彼が勤勉で、彼自身に対しいたって正直な性格をしていて、わたしのことを少なからず愛おしく思っているということくらいだ。初めて会った時から玲子は、この人と自分はそう遠くないうちに深い関係になるに違いないと*理解*していた。そして慢心とも言えるかもしれないこの直感は、やはり間違いではなかったと玲子は思っている。

 修司さんは不用意に言葉を発しない。さほど関心のないことや思ってもいないことについて述べる時は、言葉を並べるのだ。紡いだりはしない。紡いだ言葉が人間を傷つける可能性について、よくわかっているから。

「修司さんの全てを知れたら、なんて考えるのは、おこがましいことだと思う?」

愛おしくてたまらない男に向かってそう問いかける。

「どうかな。少なくともぼくは、玲子には正直でいたいと思うよ」

 おどけたように微笑んでそう言う修司さんの唇を自分のものにしたくて、玲子は修司さんの肩を引き寄せてテーブル越しに口付けた。やっぱりわたしは、修司さんといるととびっきり欲張りになる。



 ファミレスを出たあと、わたしたちは修司さんのアパートに向かった。修司さんが麻美さんには内緒で借りている、手狭なその部屋でわたしたちは逢瀬を楽しむことにしている。もっとも今更麻美さんに隠すことは何もないのだけれど、それがわたしたちなりの気遣い、あるいはルールのようなものだった。

「今日はお家には帰るの?」

「いや、ここに泊まるよ。夜はいつもの店でいいかな」

「もちろん」

 小さな玄関で少し手間取りながらヒールのストラップを外し、キッチンを通り抜けて居間の電気を付ける。パチ、という音がして、ややあって部屋に明かりが広がった。

「修司さん、エアコン入れてもいい?」

 戸棚の一番上にリモコンを見つけたのでつかもうとすると、背後から伸びてきた手が先にスイッチを押した。

「設定温度、もっと下げようか」

 節ばっていて薄く筋のある腕に、短く切り整えられた爪。思わず触れて筋を指でなぞると、修司さんはその手をわたしの太ももにゆっくりと回した。

「熱いな」

 わたしの知っている男の人の中で、修司さんは、いちばん正しくわたしに触れることができる。感覚がリンクしているみたいに、一ミリのズレもなく。始めてそのことに気づいた日のことを玲子はよく覚えている。自分の幸福の限界を見てしまった気がして、感動と少しの恐怖が全身を駆け抜けたのだ。そうして泣きそうになって、こんなときに泣いて修司さんを困らせてはいけないと慌てて目をつむったのだった。

「玲子は本当に綺麗だ。僕は時々、自分の幸せに眩暈がしそうになる」

「修司さん。わたし、早くしたい」

 食事をしたら、強欲さが影を潜めてしまいそうだから。自分の感情にできる限り(それはつまり常にという意味なのだけれど、)正直であれというのが、玲子のポリシーだ。




 情熱的かつこの上ない情事を終え、冷蔵庫から五百ミリのペットボトルのミネラルウォーターを二つ取り出す時、玲子はこの幸せをどう乗り越えればいいのかわからなくなっていた。ほとんど困惑していると言ってもよい。修司さんと出会ったことで、わたしはすでに人間としては行き詰まっている。これまで自分のことを不幸だと感じたことがただの一度もなくても、それは確かな事実なのだ。それでも悲嘆にくれるということを含めて、愛する男に妻がいるという状況を玲子は楽しんできた。それは悲嘆にくれるという行為になんの意味もないということを知っているからこそ持つことのできた、ある種の趣味のようなものだった。

 今さら、玲子にとって麻美さんの存在は何の抑止力にもならない。主導権はとっくにこちらが握っているのだから。玲子は自分が恋に溺れるのではなく、その中を優雅に泳いでいける人間であることを知っていた。

「そろそろ準備しようか」

「ええ、ちょうどお腹もすいてきた感じ」

 シャワーを終えてすでに隣で身支度を始めていた修司さんに向かって頷いてみせ、未開封の方のペットボトルを手渡すと、玲子は自分の分のミネラルウォーターを力強く飲み干した。心身ともに潤った今、あとは豊かな食事を待つばかりである。

 神泉にあるビストロはわたしと修司さんのお気に入りで、逢瀬の後によく来ては、二人で文字通りお腹がはちきれそうになるまでよく食べた。順番は逆では駄目で、もし食事の後に情事を迎えていたら、私は修司さんを手放す───正確には*解き放つ*───ことができなくなってしまうだろう。こと恋愛関係においては気持ちのグラデーションが重要で、だからこそ順番はこの通りでなくてはならないというのが玲子の持論だった。

 次々に運ばれてくる品々(それらは例えばアミューズのブルスケッタだったり、カボチャの冷製スープだったり、牛頬肉の赤ワイン煮だったり、白身魚の出汁が絶妙なペペロンチーノだったりした)をすっきりと平らげ、わたしたちは全身が満ち足りた気持ちで店を後にする。こんな夜が幾度となく繰り返され、玲子は心の底から幸せを感じていた。わたしは桃のようにみずみずしくて幸福なのだと。

 店からアパートへ帰途につく最中、広めのつるつるとしたコンクリートの歩道を、指を絡めたわたしと修司さんがのびやかに歩く。足取りは軽く、お互いのことを空気のようにごく自然に受け入れている。わたしの人生はおおよそあと五十年くらいは続いていくでしょうけど、死ぬときに思い出すのはきっとこういうつつましやかな瞬間なんでしょうね。玲子は思う。そうであってくれたら、とも思った。

 「修司さん、今のわたしと修司さんのことをどう思う?」

 「そうだな、」

 問いかけのあと、ややあってから修司さんの朗らかな声が闇夜にはじけて消えていく。玲子は耳をふさいでしまいたくなったが、そんな隙は与えないとでも言わんばかりの速度で音は消え、でもたしかにそれは修司さんの口から紡がれた言葉だった。

「玲子といる時の僕は、他のどんな子といるときより欲張りで、僕はそんな僕らのことが好きなんだ」

修司さんなりの優しさと誠意が、玲子を何よりも孤独にした瞬間だった。



 そのあとは何を話したらいいかわからなかった。わからなかったが、とりとめもない話を矢継ぎ早にしていたような気がする。困惑したり、狼狽したりしていたのではない。ただ自分の想像力のなさに憤り、修司さんの正直な心に怯み、二人のこれからに脅えていた。

 到着したアパートは、夕方までと打って変わってはるか遠くの馴染みのない場所のように思える。どことなく心細さを感じさせる佇まい。部屋の中はつけっぱなしにしていたエアコンによってやりすぎなくらいに冷え切っており、体をさするようにして浴室へ向かった。

修司さんはこれまでと何も変わらない修司さんとしてわたしと同じ空間に存在していて、わたしはそれを、ひとえにそれを受け入れるべきなのだ。冷え切った体には熱く、無遠慮なシャワーを浴びながら、玲子はひたすら自分を励ますことに努めた。もはやそうすることしかできなかった。

「玲子?」

 シャワーを浴び、タオルで濡れ髪を包むようにして浴室から出てくると、修司さんがわたしの名前を呼ぶのが聞こえた。なんということだろう。この人の声はこんな状況でなお、柔らかく甘美な響きをもってわたしの耳に届くのだ。玲子は途端に泣き出したくなる気持ちと同じくらい、今にもこぼれそうな笑い声を抑えるのに必死だった。まるで事後みたいだ、と思った。

「今日は楽しかった。素敵な夜だったわ。ありがとう修司さん」

 あとはもう簡素なダブルベッドに滑り込んで、眠るだけだった。けれど修司さんと同じベッドで眠ることをこんなにも躊躇したのは、この日が初めてだった。

 その日、玲子は夢を見た。修司さんが死ぬ夢だ。携帯にかすかに見覚えのある番号から着信があり、出てみると麻美さんからで、交通事故に遭って即死だったらしい、との報告を受けた。申し訳ないが通夜と告別式には来ないでほしい、と言い残して電話は切れ、あとに残された玲子は、ひっそりとその事実を受け入れたのだった。

 真夜中、たしか二時半頃だったと思う。目が覚めた後、どうしてあんな夢を見たのだろうとは思わなかった。これは予知夢かもしれないと不安になることもなかった。ただその夢のことを麻美さんに話してみたいと思った。話すべきではないことは十二分に理解していたけれど、ともかくそういう気持ちになったのだった。

「あの人のこと、よろしくお願いしますね」

 麻美さんの言葉が頭の中で反芻する。彼女は何もかもお見通しだったのだろうか。

 修司さんが麻美さんや、きっと一人や二人ではない「他の子」たちと別れる意思のないことを知った上で、これから先も過ごしてゆかなければならないこと。絶望的なことに、わたしと修司さんが依然としてどうしようもなく愛し合っていること。もっと言えば、愛すること以外は何もできないということ。諦めたり、ほどほどのところで満足したり、或いはもっと踏み込んで二人の世界に閉じ篭ったりできないということ。

「修司さんは欲張りよね」

 声は玲子の意に反して、何かを、あるいは何もかもを諦めたような様子を含んでいた。

「わたしなんかよりずっと欲張りで、わたしじゃなく自分に正直な人なのよ」

 隣に横たわる、特段大きくも小さくもない背中に向かって呟く。いつものようにベッドサイドに置かれた眼鏡。冷蔵庫の中の二本のミネラルウォーター。修司さんの規則正しい寝息のリズム。わたしの、わたしたちの限界。

 玲子は自分の欲望を呪うように、なお愛さずにはいられない男をきつく抱きしめた。修司さんを知ってしまった。わたしのなんと欲深く愚かなことか。

 手探りの暗闇の中で、これが自分の選んだ道だったのだ、と玲子は心の中で独り言ちた。カーテンから差し込む朝の光は遠い。

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