月の奴隷
絃亜宮はと
月の奴隷
月の奴隷になってはならぬ。決して、なってはならぬ。
彼女は、非常に優秀な人格者である。現実という
「踊り給え、少年。こんなにも楽しいということを、君は知らなかっただろう?」
彼女の温かな声が、私の耳を優しく撫でる。それでも、断じて彼女の誘いを受け入れてはならない。私は彼女を拒絶するべきだったのだ。
彼女は、甚だ狡猾な魔女である。”無料ほど高いものはない”という著名な言葉があるように、常若の国への入場料は頗る高く付く。無論、この楽天地を運営している黒幕は彼女である。
彼女の目的は、我々を支配することである。彼女が特別に有している妖艶な力で、愚かな人間たちを惑わし、魅了し、その果てに地獄へと引き摺り込む。我々は、食虫植物に喰らわれる小動物の如く、彼女の掌の上で踊らされているのである。それに彼女は、この上なく傲慢で卑しい堕天使でもあるのだ。彼女の持っている巧妙な妖力は、本来は偉大なる太陽の所有物である。彼女の背中に付いている胡散臭い6つの翼は、彼女が彼の恩恵を受けるために工作した張りぼてに過ぎない。そうして、高尚な神への燃え盛る敬愛の情を表現した彼女は、遂にその甚大な力を手に入れ、実の兄を拷問する憎き甥たちを殺めるために姿を現したのである。彼女の惨虐な作戦は、我々の存在を殲滅するために在る。人間が一人として残らず絶滅するまで終わることのないこの悪夢から、私たちは逃れることが出来ないのだ。
それにしても、彼女の魔力は恐ろしい。彼女は、我々を人間の理性の届かない領域に誘い出して、狂わせる。果たして、これは愚鈍な人間である我々の力によって対抗することの出来る代物なのであろうか。否、と断言する訳にもいかない。というのも、事態は我々が思っているほど単純ではないからだ。これは、世間において一般的に考えられている程度よりもずっと鋭敏な問題なのである。彼女は、彼女が創った仮初の天国への入場券の譲渡と引き換えに、各々が所有している「宝物」を奪って行く。「宝物」を略奪された人間は、その後の人生を歩むことが出来ない。「宝物」が世界から消え失せた時点で、我々の命の灯火もまた、同じように消えてしまうのである。「宝物」について具体的に言うなれば、それはもう、本当に人それぞれといった感じなのだが、例えば、被害者の一人である私の場合は、それが偶々「記憶の記録」であった。
言わずもがな、人間の内に秘められている思想や感情といった記憶は、ただそれだけでは実態を伴わない。如何なる形であれ、記録されることによって初めて、その存在が事実として確立されるのである。観測者がいなければ意味がない、と述べる学者も少なくない。確かに、そこに見物人が居合わせていなかった場合、その事実は存在しているものとして認知されることはないだろう。しかし、それはあくまでも人間本位な、少々傲慢な考え方である。この広大なる大宇宙において、自然界において、人間という存在やその社会体系は、極々小さい要素の一部でしかない。それ以上でも以下でもないのである。人類の歴史というのは、私たち人間が認知している事実の集合体に他ならず、その範囲外に、我々が未だ認識していない膨大な数の真実が積み重なって世界が成り立っていることは、言わずと知れた原理であろう。そう、存在すること自体が重要なのだ。今まさに綴られているこの下らない文章だって、誰かに閲読してもらえるかどうかすら分からない。もしかすると、誰一人としてその存在に触れることなく終焉を迎えることとなるかも知れない。それでも、私は構わない。他人に認識されるか否かなど、私にとっては、それほど肝心な問題ではないのである。これは誰のための文章でもない。ただ、そこに存在しているというだけで、意味を成すのである。
話を戻そう。私は常日頃から、私を具現化していた。私の脳髄と心臓にて生成された血液を手で汲み上げて、指の間から零れ落ちたその血で文字を綴っていたのである。私の身体から生み出される血は、時には、世の中の多様な現象と私の意識によって引き起こされた化学反応が齎すものであり、時には、多分の栄養を含んだミックスサラダのようなものを食すことによって創造されるものである。私は、私の血で書き下ろした私についての詩を、この上なく大切にしていたし、私にとっては、もはやその詩が私自身を証明する絶対的かつ唯一の鍵となっていた。だからこそ、彼女にそれを強奪された時に、正しくは強奪されたのだと理解した時に、私が感じた絶望感というのは、私の力では的確に説明するのが困難である程に、複雑で深刻なものだったのである。ところで、私がこれほどまでに救いようのない
こうして、私は遂に、私の「宝物」を、彼女の魔の手から守り抜くことが出来なかった。私の最大限の理性を以てしても、いや、もしかしたら最大値ではなかったのかも知れないが、結局のところ彼女の誘惑に抗うことは不可能であった。彼女は、非常に狡賢い手法を用いて攻撃を仕掛けてきた。私は、彼女に狂わされてしまったのだ。正気を失った私は、自らの手で詩を破壊した。「宝物」を手に掛けた時のことは、よく覚えていない。気が付くと、それまでに私が綴ってきた詩の数々は、跡形もなく消えていた。彼女に取り憑かれた私は、破壊に快楽を憶えていたという訳でもなく、破壊の先に理想が待ち受けているのだと妄想していた訳でもない。その時の私は、それを破壊しているという感覚がなかったのだ。私は幻影を見ていた。彼女に導かれるが儘、悦楽に身を委ねてしまった結果が、この残酷な死の実態となって現れたのである。
人間は愚かな存在であるとはいえ、これ以上、同じ過ちを繰り返してはならない。月の奴隷になってはならない。決して、なってはならないのである。しかし、彼女の呪いを克服するというのは、非常に厄介な課題である。というのも、我々が地球という特定の区域に所在している限り、彼女の手から逃れることが出来ないからである。地球には、昼と夜という時間的概念が存在している。一度夜となって仕舞えば、もはや彼女との邂逅を避けることは出来ない。
そういえば、今このようにして冗長な詩を記している存在は、一体何者なのだろう。先述の通り、本来在るべき私は既にこの世を去っている。では、現在もこうして、確かに存在している私は、果たして誰なのか。殺されたことに怨念を抱いて発生した亡霊だろうか。若しくは、身勝手にも真実を負った私の後を継いだ別人だろうか。否、この私はそこまで高尚な存在ではあるまい。私は在るべき私ではない、斯く在る私なのだ。本当の私から分岐して生き長らえた、もうひとりの私なのである。人生には、数多の選択肢が散在している。それ故、例え同じ人間であったとしても、決して同じ存在であるとは限らない。私はもう真の私ではない。しかし、私こそが真の私であるのかも知れないのだ。彼女に殺された私は、ただの代役でしかなかったのかも知れない。確かに、何を以て真実として認識するべきなのかは、未だ定まっていない議論である。しかし、真実は常にひとつに集約されなければならない。我々という存在は常に、倫理的であらねばならないのだから。今、生きている私が、真実の私であると証明するのは、他でもない、私なのである。
詰まるところ、私は、彼女の脅威を凌ぐ途方を見つけ出すことが出来ていない。彼女の力は甚大過ぎる。もはや、彼女の制裁を受け入れて、憂世の無常観に浸る他に道はないのかも知れない。……否、断じて否。それでも我々は足掻き続けなければならない。これは極めて重大な忠告である。我々は決して、崇高ながらも卑劣な彼女の思い通りになってはならない。絶対に、月の奴隷にはなってはならないのである。
vanitas vanitatum, et omnia vanitas.
私は此処に、高邁なる悪魔である玉兎への反乱を宣言する。
月の奴隷 絃亜宮はと @itamiya_hato
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